森薫『乙嫁語り』10巻

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。
 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。
 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。
 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い。
 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴル・トルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりとショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域は工芸のメッカでもあり、絨毯、刺繍、陶器、はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏な外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。

息抜き

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活や人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーやアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジアの歴史とか、ロシアの旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築やゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰の歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。
 エロゲーには自由と安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月のパンドオラ』(Q-X、2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲーの自分の生活や人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲーの価値を否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。
 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウトに編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。
 人生はやりかけの連続で、そんな無責任に復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章や作品だったり。仕事でお金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由で無責任な創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分のクローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしのエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的な価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由に解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲームと読書と家族の時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味でエロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲーの主人公がヒロインに生活や価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公とヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーのヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

ノラと皇女と野良猫ハート2 (75)

 前作の感想は何だかやや中途半端なままになってしまい、その後、マルセルさん、残響さん、こーしんりょーさんとの討議(残念ながら中断)でも個人的に準備が不十分だったのだが、続編である本作は期待したとおりの佳品だった(特に言葉と詩的イメージが元気なアイリスルート)。2017年にクリアしたのはわずか3作(+ロシア製1作)。2018年は積みゲーを崩すだけで、1本も買うことすらなく終わる可能性もあるが、噛み締めてプレイしていきたい。とりあえずは聴き飽きなそうなOP曲とピアノアレンジ曲集にも感謝。


アイリス
 本が好き、勉強が好き、絵本を声に出して読み聞かせたときに立ち上がってくる場が好きなエクリチュールのパトリシア。彼女が目指すものと同じものに、別の入り口から近づいていくのがパロールのアイリスというとりあえずの対置。


−−ねぇってば、ねぇおぼえてる? おぼ? ねぇおぼ?


 音声としての記憶は、固定するための媒体を持たず(再生装置はエクリチュールのような多様性を持たないまがい物として、過去の亡霊として示される)、雪に吸い込まれて消える。消えるたびに新しくやり直し、「よろしくお願いしまーーーーす!」 声と印象とぬくもりが全ての生き方であり、CV花園めいさん(アニメの方で多少なじみあり)の元気な声がよく合っていた。雪とぬくもりの特別な関係については前にも「雪影」の感想とかで書いたけど、この笑顔と声と格好のアイリスではコントラストが一層強まって印象に残る。金髪娘的な露出スタイルが好みに合わず何とかしてくれと思う一方で、肌寒さと元気さの奇妙なバランスが取れている。それは単に気温的なものだけではなくて、時としてアイリスの心が感じる寒さを視覚的に表してしまっているように思える。記録ではなく記憶という不安定なものに存在を規定されていることは、生きた感覚的なものを優先する存在だという一面もあって、生き生きとした幽霊という両義性を見せてくれる。即物性と抽象性を行ったり来たりする。正確には、アイリスの性格からして生き生きの方が中心で、幽霊はその周りを漂う気配のようなものに過ぎないけれど。


−−もし涙がヒトの鳴き声なら……それは目に見える音なのだから……/あなたはそれが瞳からこぼれても、決して大地にこぼれないよう、すくってよ


 文字(形)を持たなかったために歴史を残さなかった文明というのがあって、それは存在しない歴史のロマンをかきたてる。歴史が語り継がれたものを意味する言葉であるなら、語り継ごうという欲望をかきたてるものは歴史未満のもの、弱者のものであると同時に、歴史化されたものから切り捨てられた欲望であり、何か本質的なものを含んでいるように思える。毎年訪れる雪にかき消される痕跡。消えるぬくもり。冥界のあり方としてはアンクライ家の方が本質的であり、エンド家はアンクライ家に対して派生的/反省的に存在するもののように思える。その関係はそのままパトリシアとアイリスの力関係に反映されているようでいて(「バカはきらい!」)、その点からするとむしろ恋愛物語のヒロインとしてはどうしようもなくアイリスが魅力的に見えてしまう。隙のなくきまった立ち絵のポーズはあまりに隙だらけで、弱くて、惹きつけられる。


−−アンクライの涙は、忘却のしるし。あなたの涙は呪いすらも忘却させる


 雪の白さと青さ、アイリスの金色の髪と白い肌と青い目は、エロゲーでこそ美しく表現できるように思えた。


ノエル
・エッチシーンの絵がよい(表情とか姿勢とか)。
・元々声がかわいい系らしいので崩れたときがきれい。
・見せ場に恵まれていないな。
・ノエルのエピソードも含め、ヒロインによっては箸休め程度のボリュームしかないことは残念がっても仕方ない。前作メインヒロインについては、それだけ前作の完成度が高かったのだと思いたい。


ノブチナ
 母親の不在あるいは欠損のモチーフが繰り返し登場する本シリーズにおいて、父親という本来エロゲーではタブーの存在が描かれたわけだけど(同じく父親が服役していたクラナドでも父は欠損した父親だった…)、その父親は半分母親としての父親であることが判明し、ノブチナに「親の指図に苛立つことはあるだろう。しかし、親の気持ちは察して行動すべきだ。子は親の信用というものを察して、行動すべきなんだ」とぶつけて巻き取ろうとする。黒木ルートのデフォルメされた親子関係よりも踏み込んだ親子関係の再演だ。信春がダメ人間として描かれていることはストレスを与えないための表面的な見せ方の問題であり、やっぱり本シリーズはこのテーマの変奏なのだった。ノブチナの場合は、「あ゛ーーーーーーー!! あ゛ーーーーーーー!」と暗い夜空に向かって叫び、夜空は空虚であり、だからこそ自由に呼吸できる空間があることを確認するような強い女の子であることを自らに背負わせていることが示される。
 息の詰まる(気を抜けない)空間である家の問題と対置される、夢のひと時としての文化祭の演劇。ネルリでも印象的だった構図だ。もともとノブチカたちとの日常はそういう時間だったのだろうけど。
 こちらを振り返るようにして話すノブチナの立ち絵が印象的。大事なことを話す時の絵だ。おちゃらけキャラであることをやめて素の表情を隠していないが、そのときも身体はどこか別の方向、外の世界に向き合っている。向き合っていることをプレイヤーに示している構図。色の強い赤髪であることがとても正しく思われる構図だ。ノブチナとアイリスは、立ち絵とセリフが補完しあっているように思えた瞬間が多かった。
 叱ってくれる親との邂逅というモチーフは、それだけ見ると陳腐かもしれない。まあでも、近年真面目に叱られ、心配され、助けられ、それでいてろくに孝行らしいことも面倒でしていない自分としては、ちょっと引き込まれてしまうのであった。本シリーズでノラはうっとおしいくらいに繰り返し母親への負債を語るわけだけど、それは一定の年齢に達したプレイヤーにとっては何がしかの問いかけにならざるを得ない原罪のようなものであって、もはや作品の巧拙とは関係ないとさえ言えるのかもしれない。お気楽な恋愛コメディ作品の根本にそれを据えたことの是非は、プレイヤーが個人の問題として処理するしかない。あと個人的に、他の家のことを他の文化として尊重する姿勢(漫才部の取材に対して井田とか田中ちゃんが不快感を示すとことか)に面倒だなと思った。ノブチナは面倒だと跳ね返せるけど、そんなに強くあることができない局面もあることを思い出して(自分が身につけた思考や文化がまったく通じない人々と親戚付き合いをしなければならなくなったとき、どちらをどう否定して顔を潰さず妥協させるかみたいな面倒な話)、ノブチナはいいなと思うのだった。
 まあ、それにしても。「付き合ってみるか。私たち」。えっ、これからノブチナと恋人になるの?という展開ではあった。こういう論理的必然性のない恋愛展開は、なんらおかしくはない。むしろ、感情の論理ではなく、人生のバイオリズムのような論理としてはしごく自然な展開といえるのかもしれない。「私が気持ちを伝えたのはな。お前が逃げなかったからだ。お前は一度も、私か逃げたことがない」。これで納得させられてしまうような真剣な女の子なんだな。というか、いまさらながらノブチカは女の子であるという文脈が持ち込まれてしまうんだな。持ち込まれたら仕方ない。ノブチカを見ていてもエロい気分になることはないけど、彼女の生き様は近くで見届けなくちゃいけないから……。だから、ノブチカが急にしおらしくなったりせず、肩車されて上機嫌になるような友達感覚の付き合いが続くことにほっとするのだった。「あなたはきっと、勇気の生まれ変わり。勇気は皆の足元を照らすし、あなたは前を見て進まなきゃ。そうでなくては、私はなぜあなたにノラを渡したのか分からなくなってしまう。不思議ね。私、あなたとそこまで遊んだことないのに。ずっと一緒だった気がする」。アイリスルートと並び、本作でもっとも熱量の高いシナリオで恋愛以上のことが物語られており、その意味で前作を正しく継承している。おっぱいは強調された飾りだからな。飾りがないとノブチナだからな。
 トラックのみにゲームは古いノートPCでやったこともあり、1時間くらいかかった。


ルーシア
 物語としては割と薄くて、悪役も薄くて茶番だったりするけど、彼女の抱える問題や母親との問題が、何度も不器用に繰り返されることでそれなりの実感を持たせていた。「光などとは名ばかりで、立てる舞台もなく、堕ちた伝説しか与えられず、そうやって誰も彼もが!!あの子ばかりを選ぶんだ!!」「知らねぇよ!!そんなものよりも、俺と地上で!」 この「知らねぇよ」をはったりではなく、正面から言えるノラがうらやましい。「きっとあなたが来なくなったら、話しかけることをやめたら、わかっちゃうと思うんです。来てくれてたときのほうがよかったって。そういうものだと思うんです。そしてそれは、わからせちゃいけないと思うんです。あなたが生きている間は」。この手の刺してくるセリフは本作では家族関連のやりとりで多くて、イチャイチャするための恋愛物語にとっては必須ではないのかもしれないけど、ヒロインへの感情移入にとっては重要な役割を担っている。
 しかし、やはり姉さんのあのサクラメントの衣装にすべて持っていかれた。ウエディングドレスのスカート部分を履き忘れた花嫁みたいな露出度の高い衣装だけど、決して痴女ではなく、姉さんの本質はあの乙女チックな花をあしらったヴェールの方であることは明白。そもそものヘアバンドからして女の子らしい。下がパンツ丸出しになっているのは、少し喜びが大きすぎて開放的な気持ちになってしまったからにすぎない。多分姉さんはパンツ丸出しであることに気づいてもいない。そういう素敵な女の子なのだ。




−−ねぇ、これからたくさんお話しましょう!未来のこととか、今までのこととか、語り継ぐくらいたくさん、だってあなたは私を忘れないもの!


 印象的なシーンの一つに、共通ルートの最後のほうで、アイリスとパトリシアがお互いに一つだけ質問したはずが、なぜか海と空の色彩と、波の音の採譜と絵本の読み聞かせをめぐる問答になる流れがある。それはいずれも、「いのち」への驚きと「いのち」を見てみたいという願いのことなのだけど、そういう眩しさがつまった作品だ。

石川博品『先生とそのお布団』

 どこまでが事実でどこからが創作なのか厳密に考えてもしかたないので自分にとって自然で都合のよい読み方をするしかないのだが、飄々としているように石川先生がこれほど苦労しているのをみるのは正直なところ素直に喜べない。僕が好きなラノベ作家は寡筆であるか廃業気味である人が多く(秋山瑞人中村九郎唐辺葉介田中ロミオ)、石川先生も順調そうではないけど、それでも書くことに対しては純粋な気持ちを持ち続けていて、スランプなどとは無縁であるように思っていたいからだ。同人誌も含めれば佳作というわけではないし、売れっ子作家のように3ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されて枯渇されても困るので、今のようなペースであっても創作に集中できるような環境があってほしい。そのためには何が必要なのかはわからない(ちなみに、石川先生のラノベなら商業なら1冊1000円、同人なら1冊2500円くらいにしてもらってもかまわないけど、代わりに複数冊買うのは何だか気が進まない)。
 「先生」が四人制姉妹百合物帳を高く評価しているくだりがあって、これは異論ないと思った。平家さんもいい作品なので、読者にとっては同人と商業の差はない。どちらでもいいので後宮楽園球場の続きを待ちたい。
 あと、石川先生は「趣味(テイスト)の作家」、好きなものを外から集めてきて文章にする作家であって、内側に抱える大きくて重いテーマを何度も掘り下げていくような「宿命の作家」ではないと意識するくだりがあったけど、この二分法にはこだわらないでほしいなと思った。最近人から勧められて村山由佳『星々の船』、三浦しをん『光』といった直木賞作家の小説を読んだけど、勧めてくれた人との関係を除いて小説そのものとしてみれば、こうした広く大衆に向けて書かれた(?)現代人の心(?)を扱った作品は、何だか人間の暗くて嫌らしくて疲れた部分を集めてあらかじめハードルを下げた上で感動を描いているようで(おそらく昔ソログープの『小悪魔』もそういう批判を受けた)、僕の好きなライトノベルエロゲーに比べて時代遅れで低級な文学であるように思われた。こんなふうな見方は社会主義リアリズム批評だと言われるのかもしれないけど。あと、唐辺作品のような暗い作風も好きだし、それは直木賞作家に近いのかもしれないな。いずれにせよ、ラノベは「男子中学生」向けに書かれているなんていう認識は無能なラノベ出版社のたわごとだと思いたいし、ラノベが描ける「若さ」の質は一般文芸よりも先鋭で特権的なものだと思いたい。石川先生の文章の美しさや抒情性は趣味的なものなのか、悲劇に根ざさない美というのは存在しないのか、ということに関しては、先の四人制姉妹百合物帳が答えの一つだと思うし、そもそもそんな問いを無意味にするような小説をこれからも書いていってほしいと思う。

大迷宮&大迷惑 (65)

 そこにはいつも本があった。
 自分が物心ついてから本の世界に引かれていったのには、ファンタジーの導き手があった。最初は母親に読んでもらったナルニア国物語とかエルマーの冒険とかだったかな。それから自分でもはてしない物語とか読んでみた。小学校2年生くらいの頃にドラクエ2が出て、ファミコンを持っている友人の家に見に行っていた。小学校3年生くらいの頃にドラクエ3が出て、まもなく自分もファミコンを買ってもらって、クリスマスプレゼントでサンタさんに3をもらった。ドラクエ3のプレイは、僕たち兄弟にとっては神聖な儀式となり、赤色の公式ガイドブックは枕頭の書だった。ドラクエ4の頃にはそれほどの熱はなくなっていて、主に弟がプレイしていたが、僕は2や3のゲームブックや小説を読んで、ゲームの外や隙間に広がる冒険の世界に驚いていた気がする。ファイファンも3ははまったけど、アダルトな感じにどこか距離を感じていた。
 中学生になって、何かの偶然で、町の本屋さんの片隅に置かれていたロードス島戦記を手に取った。自分がファミコンの中に求めていた世界が、こんなにもどんぴしゃで濃密に広がっていてびっくりした。深淵が広がっていた。初めてエロゲーに手を出したときと同じで、こんなにも欲望の解放されたものがあってよいのかと罪悪感すら感じた。ロードス島は後に文体に問題があることに気づいたけど、クリスタニアソードワールドシリーズも含めてけっこう読んだ。同時にフォーチュンクエストにもはまった。TRPGD&Dをはじめとする海外ファンタジーという更なる深淵があることも知ったが、中学・高校当時は富士見ファンタジア文庫のコーナーにこそこそといくのがやっとで、さすがにそこまで踏み込む勇気はなかった。雑誌を買ったり、罪深いファンタジー小説について人が話しているのを聞く機会などなかった。世の中にこうした小説を買う人が存在していることが信じられないまま、自分はエロ本を買うようにこっそり買い続けていた。こわもてのトールキンの小説ですらいかがわしかったし、ハリーポッター(未読)がブームになったのには戸惑いを覚えた。


 とまあそんなわけで、辿り着くべくして辿り着いた大迷宮、ジ・アビスだった。やり始める前は特に意識していなかったけど、さすがは希氏の作品ということで、作品名からしD&Dだし、最近のいわゆる異世界転生物などとは一線を画した、古典的なハイファンタジーTRPG(僕はレベルの低い冒険者なので想像でしか知らないけど)の楽しさを詰め込んだゲームになっていた。魔的詩人なんて聞いたことなかったけど、昔本屋に大量の翻訳ファンタジー小説があって、その広がりに溜息をついたことを思い出した。星継駅シリーズもそうだけど、こういう懐かしいファンタジーやSFって、多分歴史的にはそんなに古くないのだろうけど(せいぜい戦後か)、僕にとってはその源泉が分からなくて、とても不思議な存在に思える。
 しかし、そういう個人的な感慨を除くと、今の僕から見るとこの作品はいろいろと問題が多くて、手放しで喜べるようなものではなかった。何よりもまず、どうにも若々しさがなくて、くたびれた感じが拭いきれていないように感じた。以前にレイルソフトのデビュー作である霞外籠逗留記をやったときの感想にも書いたけど、あれをもっとひどくしたような感じだった。ファンタジーなのに何だか落語でも聞いているような台詞回しが多くて参った。
 その厳しさは音声で増幅されていたように思う。ハクメイ丸と黒塚の声はそれ自体としてはよいのだけど、やはりセリフが厳しくて、落語的なボケとツッコミやオチの流れが多くて参った。声そのものも厳しいニコライトは、正直なところ苦痛だった。あのだみ声で姉さん女房ヒロインをやられると破壊力がありすぎる。エッチシーンでは残念ながら音声をオフにした(キャラの顔のデザインはすっきりしているので、音声を切るとだいぶ違った印象になる)。救いはアーテだけだった。
 また、この作品で攻略対象になっているのはダンジョンであり、ヒロインではないのも参った。ヒロインは既に攻略済みであり、エッチシーンはちょっとくたびれた夫婦の営みを見せつけられているようで盛り上がりに欠けた。
 ビジュアル演出も厳しかった。冒険者の話なのでアクションシーンが多いのだが、戦闘にしてもドタバタにしても、数少ない絵を手で動かしているような貧弱な演出で盛り上がらず、文章に負けすぎていた。Fateシリーズというかなりがんばっている例もあるけど、基本的にエロゲーのビジュアルシステムはアクション向きではなく、恋愛物語向きなのだということを再確認。それをいったらTRGPなどはもっと絵がないのだが、あれは能動的にプレイするものだから違うんだろうなあ。
 あと、希氏以外の人が書いたと思われるパート、特に最後のシナリオのダイジェスト感がひどかった。せっかくの締めなのに残念な二次創作のようになってしまっていた。
 基本的に文句ばかりの感想になってしまったが、どのシナリオも終わり方は爽やかで、冒険者という実在しない(らしい)人々の生き方が眩しくみえる物語だった。僕がファンタジーを見つけてしまった頃とは世の中の成り立ちも僕自身の世界観も大きく変わってしまったようだけど、こういうファンタジーの世界はまだどこかに息づいているのだと思いたい。

甘夏アドゥレセンス (40)

 テキストが壊滅的なので楽しめる人はかなり限定されるけど、自分はかろうじて対象になったかな……。ナツというヒロインが、ロックが嫌いだといわれて「もうっ、ロックが嫌いってなんなのぉ!! それって同じ人間なのっ?!」と癇癪を起こしたり、ロシアで道行く人にボルシチピロシキとかいいながらハイテンションで話しかけようとするんだけど、そういう残念さに満ちた作品だった。ロシアのロックバンドの話は一切出てこなかったけど、そんな贅沢は言うまい。エロゲー作品にキリル文字が出てきただけで、我々はその恩寵に頭を垂れて感謝しなければならない。
 そのロシア語だが、ひょっとしたらロシア人の協力も仰いだのかもしれないけど、きちんとチェックしていないからиとнが混同されていたり、スパイが通信の最後に「高き志の為に。Пока」(Покаはフレンドリーな別れの挨拶)といってみたり、ロシアネタっぽい歪なコミュニケーションにうならされる。ソ連やその中での生活の現実に失望して自殺したマヤコフスキーと同じ名前の人が大統領で、プーチン政権に人間国宝扱いされて天寿を全うしたカラシニコフと同じ名前の首相にクーデターを企図されるというなにやら思わせぶりな設定は筋書き以上のものではなく、その筋書きもなにやらロシアというよりはウズベキスタントルクメニスタンのような独裁者の小国家を思わせる。そのウズベキスタンでは昨年亡くなったカリモフ大統領がボクシングを嗜む荒くれ者だったので、首相が顔に青あざをつけて執務していたという逸話があるが、そういうおとぎ話のようなステレオタイプだけで構成された解像度の低い現実は、へぇと思いはしても流し読み程度の距離感である。マトリョーシカのようなお土産物というか。没入していって恋愛物語を楽しむのはなかなか難しい。小倉結衣さんのロシア語を聴ける貴重な作品ではあるのだが。小倉さんに限らず、声優はみなさんしっかりしていて、絵もまあまあよいので、シナリオの機能が後退するエッチシーンだけは普通の作品並みに達していた。あと、掛け合いがなくストーリーが動かず、小倉さんの声だけを堪能できる特典ドラマCD「サーシャママのロシアよりバブみをこめて」もよかった(作品に45点をつけたが、そのうち15点分くらいはこのCDだ。サーシャが甘やかしてくれるという内容も悪くないが、特にサーシャが30秒くらいロシア語で歌うレールモントフ作詞の「コサックの子守唄」の1番である。多少思い入れのある詩なので驚いた)。同じロックでもキラ☆キラはライターの個性がロックのテーマとよく合っていて引き込まれたが、こちらはロックの反骨精神とは無縁(?)のすべてを許す「バブみ」。そのありえなさに見出せるのはロックというよりはエロゲーの業なのだろうか。ちなみに、ロック(рок)はロシア語で「運命」を意味する言葉だったりする。

泉鏡花『由縁の女』

 読み始めたのは何年前だったか。トノイケダイスケの書くのろけシーンのような文章が、トノイケダイスケの文章のような鷹揚なテンポで続いていくのについていけなくなり、いつの間にか挫折していた。今回は2か月くらい前に読み返し始めて、モスクワに向かう機内でようやく読み終わった。分厚い小説だからあのまま冒頭のトノイケ的文章が続いていたらと思うと良い意味でも恐ろしいが(泉鏡花なので当然、地味豊かな字面をどうにか追っていくだけでもある程度楽しめる)、まもなく物語が動き出して、のろけた掛け合いが延々と続くのではなく、終盤に向かって空間的にも時間的にもどんどん日常から逸脱して、折口信夫死者の書のような凄みのある話になっていって引き込まれた。
 この小説は誰に勧められたんだったか。泉鏡花の本を何か読みたいと思ってたまたま古本屋にあったのがこれだったのかもしれない。いずれにせよ、一度挫折した僕が言うのもなんだか、エロゲーマー必読の作品ではないでしょうか。解説の種村季弘も書いているが、物語は4人のヒロインが順番に登場する一本道ルートのエロゲーのような構造をしており、ヒロインの属性は日常・現実から次第に非日常・幻想へと移っていく。
 読むべきと言っておきながら、ネタバレ的な感想を書く。最初は妻のお橘で、これはいわばトノイケダイスケの幼馴染ヒロインのシナリオのような章だ。トノイケ作品では過去と未来が後退して現在ばかりが延々と続くように、妻との掛け合いが顕微鏡的な細かさで描かれる。2番目は人妻となった幼馴染のお光で、お店を切り盛りする勝気なヒロインだ。子供時代のほのかな感情のやり取りが回想される。どのライターとははっきり言えないが、青山ゆかりの声が似合いそうな感じもする。3番目はエタサーの姫という感じのマージナルな娘・露野。子供時代から苦労を重ね、ぎりぎりの日常を過ごしながら、主人公と再会したことで日常の外側に出てしまう。この辺から舞台は墓掘りたちの部落民コミュニティや避難所としての寺、山家の集落への道行きへと移っていく。強いて挙げるなら、ねこねこソフトの描くようなヒロインだ。当然ながらエッチシーンはないが、色気のあるシーンが多く、エロゲー化したら映えそうな感じがする。最後は子供のころに憧れていた娘で、今は人妻となって奇病に罹っているお楊で、ここでは現実は思い出と神秘に侵食されていて、舞台も山の中や夜ばかりの印象だ。そして、まるでヒロインたちを描くことで目的を達成したかのように、物語は急に終わってしまう。エピローグで描かれるのもヒロインたちだ。
 これをいまさらゲーム化しなくても、すでにこの作品にかなりインスパイアされたらしい希氏の「花散峪山人考」があり、山岳民俗学の可能性の豊かさを感じさせる。
 とはいえ、設定とストーリーだけ追っていても仕方なく、この作品の魅力は何といっても泉鏡花の文体でエロゲー的な物語が展開されているところにある。僕にとってははっきりとわからない語彙が多く、語りのリズムも半分江戸時代みたいだったりして独特に思えるけど、もちろん同時代の人にとっては違った風に見えたはずで、反対に視点のトリックや英詩や民謡の引用、方言や様々な社会階層の言語に敏感というモダニズム文学の仕掛けも同時代の人には違った風に見えたと思う。僕としては、同じくモダニズム作家で女性的なものを愛した象徴主義者だったアンドレイ・ベールイの、(特に後期の)いかれた小説を文体ごと日本語に訳したら泉鏡花みたいになるのかなとふと思った。
 鏡花の小説はまた暇を見て読んでみたい。

Бесконечное лето (Everlasting Summer) (85)


 公式サイトSteam公式ブログファンダム
 たぶんロシアで最初の本格的な美少女ゲームということで、開発段階から楽しみにしていたんだけど、できた頃(2013年くらい)には忘れてしまっていて、昨年に気がついてから少しずつ進めてようやくクリア。
 Steamで配信されているゲームで英語版があるので、既にプレイした日本の方も多いらしいけど、少し紹介的なことも交えた感想にしておこう。


○あらすじ
 ネット廃人・引きこもり気味の20代の青年。ある日、冬の町に出てバスに乗って居眠りすると、目が覚めたら夏の平原を走るバスの中。到着した先はラーゲリ(子供用サマーキャンプ場)「ソヴョーノク」(“フクロウの子”)で、ソ連時代そのままのピオネールたちがキャンプしていた。主人公もソ連時代のピオネールに若返っており、集団生活を送りつつ、ヒロインたちと接近する……というタイムスリップ物のエロゲー
 なぜ自分がタイムスリップしたのか分からず、世界がどのような時空にあるのかも分からないまま(他のキャラクターたちは答えをはぐらかし、主人公も内向的なのでなかなか真っ直ぐ聞こうとしない)、ミクという初音ミクそっくりの音楽好きでおしゃべりのヒロインが出てきたり、昔の核シェルターのような場所に迷い込んで男友達が発狂しかけたり、一瞬現代に意識が戻ったり、世界がループ構造であることをほのめかす主人公の分身に出会ったり。7日で1周してキャンプが終わることになっており、迎えのバスに揺られて居眠りすると現代に戻っているというパターンのシナリオが多い。


オタク文化ミーム
 ミクというヒロインもそうだが(ボーカロイドを使ったBGMもある)、キャラクターの造詣にオタク文化ミームが見受けられて興味深い。ロシアのオタクスラングでオヤシ(ОЯШ)という言葉があって、「普通の日本の学校生徒」という言葉のイニシャルなのだが、これは「一般的なラノベまたはアニメ主人公的な平凡な高校生で、平凡とか言いつつも羨ましい状況にいる人間」を意味しており、この作品の主人公もそんな位置づけの掛け合いをヒロインたちとする。
 ロシアのようなマッチョなメンタリティの国で日本のオタク的なずるい性格設定がどこまで通用するのか気にしたくなるところだが、ロシアと日本という国と国の比較をしてもあまり意味はない。ロシアでもそういう感性に反応する人たちはいるけど、あちらではやはりあちらの文化的土壌があって、日本と同じようにはいかないことがことあるごとに感じられて、ちょっとした異化効果を始終感じられる。通常は僕らにとっては、こうした異文化要素はPretty Cationのレーチェやこころリスタのメルチェのように留学生ヒロインという設定を通して触れられるが、本作は外国人が作った外国人のためのゲームなので濃度が段違いになっている。


○グラフィックなど
 技術的な部分を見ると、立ち絵は改善の余地ありで、姿勢や表情がオーバーでテクストあっていなかったり、一枚絵は全体的に質が低くて悲しいので、いつかリメイクして欲しいのも本音だが、味がある、といってもよいくらいには慣れてしまう。Steamなのでエッチシーンはないのだが、ちょっとファイルをいじるとエッチ絵は開放されることに終わってから気づいた。といってもきれいな絵に甘やかされた目にはちょっときついし、テクストがなくてブラックアウトするシーンに一瞬差し込まれるだけなので、物好きな紳士のための心配り程度だ。活字信仰が強かったロシア文学は昔から禁欲的で、象徴主義の時代にはさすがに婉曲的な官能表現は広まったけど、基本的に豊かな放送禁止用語は口承文学の財産であり、プーシキンが書いたポルノ詩もきちんとした活字になったのは20世紀末になってからだったくらいなので、急にロシア語の喘ぎ声だらけのエッチシーンとか読まされても困る。奥ゆかしさはかえってありがたかったのかもしれない。いつかは、という期待はもちろんあるけど。
 他方で背景画のレベルは相当高いといっていいと思う。僕はあまり詳しくないけど、日本のメーカーでこの水準に達しているところはあまりないような気がする。背景画に本気を出しすぎて、キャラ絵がおろそかになった感があるくらいだ。テーマがテーマだけに、カバコフの絵のタッチとか色合いが近いように思えるが、いずれにしても背景画というよりは一幅のソツアートっぽい風景画という感じがするものもある。そういう画風で、ラーゲリの広場に立つ銅像がゲンダという革命家(?)のもので、メガネをくいっと持ち上げる碇ゲンドウだったりするので感心する。
 音楽はロックっぽいものが多くて僕の好みとはずれているが、overdriveのBGMみたいにエモーショナルものも一部あったりしてけっこうよかった。サントラは70曲くらいある。
 ついでに画像を少し。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22


○ロシア語で記述されたエロゲー
 僕にとっては、エロゲー的な掛け合いや恋愛をロシア語で描くとどうなるのかというのが、というのが大きな関心の一つだった。語学的な意味でも、言葉に付着した文化的な引力に対人関係の距離感や思考の筋道が引きずられるという意味でも、エロゲー的な物語文法とロシア語のモノローグ文体はマッチするのかという意味でも。昔、ロシア語を勉強し始めてインターネットに触れた頃、ドストエフスキーの言語である聖なるロシア語が、別の意味で聖なるエヴァンゲリオンを熱く語るのに用いられているのをみて驚いたものだ。その後、ロシアの新聞やニュースを頻繁に読むようになってからも同じで、おっさんくさい日経新聞の記事を面白く読めるようになったのは、ロシアの経済紙でロシア語によるビジネスニュースに親しんで身体を慣らしたからだった。そういう新たな回路を開く体験をできるのが外国語の醍醐味の一つだ。
 結論としては、論理的でありながら柔軟で瞬発力もある(語順の自由度や一語の表現力など)というロシア語の長所は、エロゲーでも十分威力を発揮していて読み物として楽しめた。モノローグがややくどく感じられるところもあったけどオヤシなので仕方ないといえるし、引きこもりのダメ人間の設定とは裏腹に、モノローグも掛け合いも結構ウィットが効いていて飽きなかった。ロシアでは別にプロの物書きでなくても雄弁・能弁な人が多いが、本作のライターもそうした例に漏れず地力の高さを感じられた。なんでもないやり取りにどれだけ神経を通わせられるか。言葉の流れとBGMが心地よいうねりを作っているように感じられた場面も少なくなかった。多分、僕が外国人だから、ロシアのハーレクイン的な小説のシャブロンや日本のアニメのフレーズの露訳であっても、新鮮に思えてしまったところもあるかもしれないが、そのせいで僕が損するわけでもない。どんだけエロいかとか、エッチシーンが見たくなるかとか、そういう直接的な欲求とは別に、このヒロインとずっと他愛のないけど退屈しないおしゃべりをしていたい、疲れたら一緒にごろっと寝たい、と思えるような親密さの雰囲気があった。ロシア語の掛け合いは、芸人の漫才のようなネタをいじって演じている感がなくて、純粋に対等に頭を使って、言葉を転がしたり飲み込んだりしているようで、健康的でやさしい感じがした。
 舞台として想定される1980年代のソ連。その想像の彼方のピオネール少女たち。ロシア人にとってのアニメ的な楽園は隙が多くて、皮肉の対象にもなってしまう品質の楽園なのだとしたら、今の若い人たちにとってはアニメの世界と同じく遠い世界となったソ連レトロの中の夏の少女たちとの距離は、遠いとはいっても近いのかもしれない。異国文化としてのアニメとは嫌が応にも距離があって、その距離を埋めるのがアイロニーの手続きなのだとしたら、ピオネール少女たちは国産品であり、自分たちのものだという喜びがある。そうした明るさがラーゲリの日差しにも感じられるように思えた。本作にはファンによるmodがたくさんあったり、スピンアウトのアイテム調合RPGトラヴニッツァ」(The Herbalist)があったりして、ループ世界との別れという作品のテーマに沿った楽しみ方をされているのもよい。製作中の次回作はソ連時代の日本を舞台にしたロシア人が主人公の話だそうだが、正直なところテーマの選択に関しては本作のほうがずっと洗練されていると思う。


○ヒロインたち
 ネタバレありで。
 シナリオ展開は割と手堅く古典的な感じで、各シナリオがかぶらないようになっていて飽きない。アリサはレーナとの三角関係と現実帰還後の音楽での出会い、レーナはヤンデレ展開とラーゲリ世界に残ってその後の半生、ウリヤーナはいたずら騒ぎと現実帰還後の復学と再会、スラーヴャは優等生振りとつかみどころのない大胆さが現実帰還後も続いてそうな結末、ミクは性格反転の劇中劇的ホラーシナリオ、ユーリャはハーレムシナリオと対の最終ルート。
 恋愛ゲームとしてヒロインとのやり取りをリラックスして楽しめたのは、どちらかというと絵も安定していたスラーヴャとユーリャだったかな。他は読み物としては退屈しなかったけど、最後のシーンをのぞくと疲れる展開が多かった気がする。スラーヴャは最後まで謎めいた感じがして引き込まれた。ユーリャは主人公との立ち位置の近さと無防備さがなじみの感覚だった。最後のシナリオだから楽しみ方に慣れたということもあるかもしれないが。すべての並行世界に同時に存在する不思議なヒロインが、原作者がチェブラーシカと同じの国民的アニメ「プロストクワシノ村」(邦題「フョードルおじさんといぬとねこ」)のセリフを知らずと引用して、身近な女の子になる。そういう小さな発見を積み重ねていく喜びに僕も与らせてもらったような気がした。僕は外国人なのでロシア人のようには楽しめないだろうけど、ロシア人がエヴァンゲリオンでおかしな電波を受信してしまうように、僕もこの作品に浸りきることができる。いつにも増して孤独な作業だからこそ、静かで自由な没入を楽しむことができる。

総括とそれをすり抜けるもの

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

 一応、今年は7本クリアできたのか。こころナビとこころリスタと出会えたのでよい1年だったのかもしれない。秋以降に急に生活環境が変わって、最近はほとんどゲームをプレイできていないので(Бесконечное летоが止まったままで、他にも積んだままの作品がいくつか)、今年のことではないように感じられる。本もあまり読めておらず、仕事の資料以外の情報といえば、帰宅して寝る前に見るアニメとまとめサイトくらいで、ツイッターすら最近はあまり目を通せていなかった。時間を捻出しようと思えばできたのかもしれないが、仕事みたいにきつきつにこなしていくのはあまり気が進まない。ゆるく付き合っていきたい。
 独りに戻り、肉親と死別し、また婚約した。子供の頃の自分や家族、成人してからの自分を細切れに、生活の合間に振り返る。仕事バカになって残業代で給料が1.5倍になり、いやな緊張感から解放されないまま正月も家で仕事をしたり、婚約者のご両親に挨拶に行ったりする。バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、あるいは並行世界物のエロゲーか小説のように、いくつもの時間の中を行ったり来たりしているような気がする。自分の属性を増やし、足場を増やし、逃げ道を作っていくことは、生きることを楽にしてくれる。でもそれぞれの属性をうまくつないで回していく余裕がなくなると、頭を切り替えていくだけで精一杯で、それぞれの属性を実感を持って生き、伸ばしていくことができなくなって、責任を背負いきれなくなり、人格を統一しきれなくなり、多極性に復讐される。言葉や欲望は実体がないから無限に増幅していけるものだけど、物理的な自分はついていけない。何かを雑にしなくてはならなくなり、何かや誰かを傷つけてしまう。それを許してしまう雑な人間が自分だ。
 年末年始のつかの間の休日に、久しぶりに学生の頃の感覚を思い出させてくれる本を読んだ。本というよりは雑誌か。「ゲンロン4」。仕事の資料を買いに行った本屋で偶然手に取った。ゲンロンカフェには昔一度用事があって顔を出したことがあるけど、それきりだった。2001年から現在までの批評の特集。2000年代半ばからはてなダイアリーエロゲーの感想を書いている者、しかも動物化するポストモダンを読んで何かこじらせた挙句にエロゲーを始めた者、その後の彼のオタク批評活動に救われた者、そのような残念な青春にしがみつき続けている者、東浩紀スレやファウストゼロアカ道場の盛り上がりを「観客」として横目で見ていた者、オタクとしての自覚を深めながら必ずしも愉快ではない同時代性の感覚のぬるま湯につかっていた者、今は思うようにオタク活動に邁進できていない者にとっては、ちょっと感慨深い本だ。この15年間、いろんなものが生まれたり、生まれかけたりして、そして死んでいったのね。そんな風なら、僕はせいぜい観客でしかありえない。なにしろ世界や社会だけでなく、自分の人生に対しても観客になっちゃっている。ストリートの思想は確かに自分とは縁がなかったし、今も近寄りたいとは思わないけど、でもKeyの物語が進んでいったのはそっちのほうだったよなと思う。だからこそ、「運動」、共同体が中心に据えられる前の、OneとかKanonとか方が美しいと感じられるのだろうか。田中ロミオは単にサバイバル物が好きというよりは、時代の空気を器用に読んでいるのだなとか、「運動」や社会から身を守る砦としての聖域、ユートピアを果敢に描いた最果てのイマはやはり美しいなとか思う。東浩紀は15年前のようにはじけてはおらず、この先もはじけることはないかもしれない。共同討議の他の参加者たちは、何だか東フォロワーみたいな小粒な人ばかりで、討議の対象もあまり前向きとはいいがたく、新しいものの誕生の予感はない。何かを横断することは難しくなくなったのだろうけど、今残っているのは安全な横断ばかりだ。そんな中から新しいものは生まれてこず、文学や社会学より経済学や政治学の方が重要だと浅田彰は言う。誰もワクワクしていないけど、それでも東浩紀が楽観と責任感を捨てようとしないから、観客たちはまだ待つことができるのだと思う。特集以外のいくつかの連載は、質も文脈もバラバラで、問題意識に多少の共通性が見られる程度の雑誌のコンテンツだ。韓国やタイやロサンジェルスは少なくとも僕にとってはまったくアクチュアルには感じられない。東北もだ。知的さざなみやグローバリズムの幻想に過ぎない、というと言いすぎか。自分はロシアのことばかり知ったかぶっているだけだし。雑誌というのは個々のコンテンツはバラバラでも、一冊の中にまとめると何だか単純合計以上のものを表しているように見せてしまう器なので当然ではある。とはいえ連載や寄稿の種類はそれほど多くなく、雑誌としてはミニマムだ。発行部数が少ないだろうから仕方なく、その辺の厳しさが垣間見えるのは切ないが、東浩紀にはそんな瑣末なことは気にしないでほしい。巻末の海猫沢めろんの小説(時代性を無視したロックな衝動の小説。バタイユのような衝動を現在ぶちまける意味があるのか不明だが、ロックにとっては時間は現在でしかありえないので、そんな問い自体が意味がない。)くらいやけくそでもいい。何かと叩かれることが多いし、確かに失敗もしただろうし、大抵の批判は間違っていないのだろうけど、2000年代に彼よりも夢のある仕事をした批評家、夢のある課題に体当たりでぶつかっていった批評家は僕にとってはいない。それがすべてだ。彼がオタク批評でやらなかったことは別の誰かがやるしかないし、実際にやった人もいるだろう。そういう意味では僕にとっても過去の人なのかもしれないが、過去は現在の中にも潜んでいる以上、そのことはあまり問題にはならない。そうして2017年はやってくる。

こころナビ (80)


 とてもいいゲームだった。
 起動してOPムービーが流れてすぐに引き込まれた。溝口哲也さんという方の作る音楽が好きということもあるのだろうけど、多分、この作品で描かれているようなネットの未来が好きなのだろうと思う。それは音楽にも現れているし、作品が作られた頃のネットの雰囲気を感じられるところにもある。2003年といえばはてなダイアリーが始まった年だそうで、アニメではラストエグザイルが、前年にはあずまんが大王灰羽連盟最終兵器彼女が放映されたという。牧歌的な個人サイトの時代はもう終わりかけていたかもしれない。といってもまだSNSはなく、代わりにエロゲーをやるような人は2chに入り浸ってキャラのスレやらトーナメントやらを楽しんでいた。この作品の感想やレビューを、それこそ個人サイトも含めて漁ってみたりすると(最近はESにリンクを登録する個人サイトが減ってしまったようだけど、この時代の作品にはたくさんある)、発売当時から作品のシステムそのものや作品内で描かれている世界が古いという反応があったようだ。個人的には、ラウンダーのキャラデザやIRIS内の背景、あるいはラウンダーというシステムそのものに、伺かの時代の空気を感じさせられる(コナの太い手足や、信じきったように微笑む舞耶ちゃんの目や眉や口の形)。2003年には伺かのブームは少なくとも下火になっていただろうし、僕はリアルタイムではそのブームを知らないので思い込みなのだけど、この作品のコナやセルフラウンダーは、伺か運動の夢をさらに推し進めたようなものだと思う。5年後を舞台にしたこころリスタでは、IRISはすでに非アンダーグラウンド化した上で埋もれてしまったマイナーなサービスになっていたというのも、寂しいけど現実的な設定だったと思う。主人公の部屋の背景が大きく変わっていて、5年でこの差は主人公の家の経済力の差なのかと勘違いしたくなるような寂しさもあった。
 脱線したが、640x480サイズを全画面化した少し暗い画面に流れるOPや、ゲーム冒頭の背景画やBGMの音色から、そういう時代(あるいは少し前の時代)の空気が一気にドバァっと吹き付けてくるような気がして、何かそれだけでほろりと来る。そう、パソコンの画面ていうのは今みたいにシャープではなく、字がギザっていたりしたのだった。プレイ中に切り替えると他のブラウザの画面も一瞬640x480サイズで映ったりして、昔の視界が甦るようで懐かしくなる。作品は実際に古いのだから(たった13年前だけど)、別にノスタルジーを狙っているわけではなくて、あくまで最先端の未来のイメージとして描かれている。それなのに薄暗い画面で、ワクワクするような明るいネット世界の冒険にいざなっているんですよ。繰り返すけど、OP「こころつなげて」はよい。

会いたい 信じたい 感じたい 探していた 恋する気持ちを 歌おう オーロラ揺れる 夜空見上げながら 誰に合わせることもないよ 触れよう 自然の流れ 優しくなれるから たとえ 雨に凍えていても 近いのに遠い二人 ここでは繋がってる 夢でも現実でも 心は一つ あなたに出会えて 感じた全てを 特別だと思えるから 神様に願わなくても 迷いなんてない いつでも会いたい 知りたい あなたの 世界中にキスを ほらクリックして あすへ飛び出そう 信じていて 思いは届くよ

起動するたびに見てしまう。単に三拍子(でいいのかな)の曲が好きということもあるが。はじめの「歌おう オーロラ揺れる」の母音の連続から流音の連続に移る鳥の歌声のようなところがよいとか、そんな細かい話だけでなく、全体の雰囲気がとてもよい。
 それでゲームをスタートしたら、すぐにこころリスタの好きなBGM「モノクローム」の原曲が流れ始めてじーんとくる。こころナビのファンの人がこころリスタをやって「モノクローム」が流れたときに何を感じたかは分からないけど、僕はこころナビを後にプレイして順番が逆だったとは思わなかった。むしろ正しい順番だった。主人公がつけたPCのモニタが液晶ではなくブラウン管みたいに丸みを帯びているのを見てその思いを強くした。僕もはじめは誰かのお下がりのブラウン管のモニタでエロゲーをやっていたし、ネットも見ていたんだった。PCの駆動音も何かあんな感じだった。主人公がホームページを作るときのワクワク感も懐かしい。説明入りのリンクページを作って、リンク先のサイトに報告の挨拶をしたり(僕もリンク先サイトの紹介文とか熱心に読んでたなぁ)、カウンターや掲示板やチャットルームを設置して常連を迎えたり(掲示板のログとかも熱心に読んでた)、イラストを描ける人が誰かに絵を贈っていたりとか。こんなふうに入り込んでいたところにBGM「Heart starter」が流れ始めると、本当にハッとしてテンションが上がってくるものがあった。
 こうした雰囲気を担保しているのが、主人公のナイーブさだろう。夢がある明るかった時代にふさわしい純朴なオタク少年で(イベントCGでけっこうガタイがよくてびびった)、臆病だけど爽やかであり、女の子たちも優しいので、ネットにワクワクしていた時代に帰れる気がする。
 もう一つ重要なのが、主人公の名前を変更できることだ。この作品ではハンドルネームも変更できるので、僕はブログで使っているものを設定する。すると、こんな感じやりとり延々と続いて幸せになれる。パートボイスの作品で、声優さんたちがかなり棒読み気味だったので(関西弁のみまりは比較的よかった気がするが)だいたいオフにしていたため、本名&本HNプレイのフィット感はかなり高かった。全画面で読み進めていたが、メモを取るなりしようとして画面を切り替えると、ブラウザ「こころナビ」から別のプログラムに切り替わるというところも作品にシンクロする。というか、最近はエロゲーのプレイ速度が落ちてきているので、プレイしながら忘れないようにメモ帳にストーリーや気に入ったセリフをメモしたりしながら進めることが多いが(昔は一気呵成に進めて勢いで感想も書けるだけの時間と集中力があった)、この作品にいたってはあまりに本名やdaktilと呼ばれる嬉しいシーンや、名前を呼ばれなくても文章に味があったり、立ち絵の表情が可愛かったり、立ち絵と文章の組み合わせがよかったりする瞬間が多くて困った。はじめはプリントスクリーンボタンを押してペイントに貼り付けて名前を付けて保存していたけど、20枚くらい保存したところでこれは無理だと思い、エロゲー暦12年目にしてようやくスクリーンショット連続保存ソフトをインストールする羽目になった。結局、全体で500枚以上の画像を保存した。当時はもっと保存した人もたくさんいただろうと思う。Pretty Cationのときは主人公がヒロインの裸を撮影したり、日常シーンでも撮影機能があったりするのが好きではなかったけど、こうして主人公ではなくプレイヤーとしてなら狂ったように撮りまくってしまうのはおかしな話だ。そうした視点の問題だけでなく、絵とテキストの組み合わせのよさも重要だったりするのだろう。音声がないので、時間性が弱くなっていることも関係があるのかもしれない。
 全体的に立ち絵が素晴らしく、どのヒロインにも可愛さで殺しにかかってくる瞬間があった。例えば、小春:???、夢:???、みまり:???、アイノ:???、ルファナ:?、凜子:????
 小春は顔を赤らめているときの表情や、無防備な正面向けの顔がよかった。
 夢はメガネがとても正しい四角で素晴らしく、斜めの絵可愛かったのはマリポ先輩の元祖だからだろうか。
 みまりは目と眉と口のバランスが素晴らしく、笑うと垂れ目気味になるのが反則であり、頬に朱がさしたときが素晴らしく美人だった。巫女服を着た佇まいもきれいで、私服時の微かに澄ました感じの目元も素晴らしい。関西弁キャラが苦手な自分としては、視覚的なところからどうにも目が離せなくなっていった。
 アイノは俯き気味のポーズがよかった。あと、横向きになって頬が膨らんだようにも見える表情で、目が切れ長に伸びて寄り目気味になるのが美しい。
 ルファナは割と普通なのだけど、制服バージョンになったときが可愛さが増した。
 凜子は照れたときもよいが、それよりもちょっと不安そうこちら窺っているときの顔が妹感(というか眼差しの子供感・肉親感)が強くてどきりとした。
 ラウンダーでは特に舞耶ちゃんが可愛かった(繰り返し)。
 あと、立ち絵が2段階、さらには3段階で表情を変えたりするのがよかった。現在のゲームのはっきりしすぎていてデフォルメ気味の表情ではなく、もっと汎用性のある表情が多いので上品で、この時代のゆっくりした表情の切り替わり(切り替わるときに一瞬メッセージウインドウが消える)も変化をきちんとみることができて好きだ(ONEの立ち絵もこの点で素晴らしい)。音声がないので、この切り替わりの動きが時間性を担うものとしてのウエイトが増している気がする。立ち絵が人形劇みたいに画面の中をヒョコヒョコ動き回らないのもよい。そして、セリフにそろえて表情をあてがっているというよりは、セリフと表情が組み合わさって一つのシーンを作っているような感じ。
 全体に関する感想は大体こんな感じなので、後はプレイ順に個別の雑感を書いておこう。感想というより鑑賞になってしまったが、この作品なら仕方ない。


【小春】
・寝相がよい。そして背景画に映っている寝姿が死体みたいに静物化していて怖い。
・みはは。ほにいちゃんに通じるものがある。
・主人公と一緒に野球をやって、応援したかった子供時代。
・主人公と一緒に帰るために遠くからダッシュしてくる。すごく幸せそうな顔。
・告白シーン。眠ってしまってうまく告白できなくて焦るのが可哀そう。そして泣いてしまう。告白というより白状になってしまう。とても美しい告白シーンだ。
・舞耶ちゃんにも恋を体験させてあげたい → なぜかお医者さんごっこ思い出図書館
・舞耶ちゃんにお医者さんごっこという鬼畜の所業に罪悪感。
・小春に対する浮気の罪悪感も。幼馴染というのはつくづく傷つけられる存在だな。急に女として見られることになった小春が戸惑い、いったん距離を置くのも仕方ないのかな。
・他ルートにいく場合は最初に振らなくてはいけないし。
・そんな幼馴染だからこその舞耶ちゃんなのだった。
・エピローグ。プロ野球選手としての2年間の輝き。それを描かなかったのもありかな。思う(あるいは想像する)ものとしての思い出の力に対する信頼がある。


【夢】
・マリポ先輩がツボだった自分としてはガード不能だった。
・本当はない部活。この飼育部がこころリスタではああなるのかという感慨。
・絵を描くのが好き。「現実ではうまくいかなくても、ここでは、みんな私の絵で何かを感じてくれるわん。いつまでも頼ってちゃいけないけど……今はもう少し、ここで練習するの」。本番ばかりの社会人になってしまうと、この練習という言葉に甘い響きを感じる。絵、見てみたいなあ。
・ウサギの交尾 → 命の大切さを理解するために飼育部に入ってもらうよ。
・野菜のくずをもらいに行ったり、親を母ちゃんと呼んだり、弁当を作ってきてくれたり。話しているとエセ不良ではなくなってくる。
あの変な可愛い中国服。下のスカート(?)がどんな形なのか最後までわからなかった。
・「告白すると決めたけど、どうしてもギャグっぽくなっちゃうんだよな」。
・そのくせ自分も告白前にコンドームを買ったりしている。
・あたいは不良なので愛し合っていても付き合えないが、不良なのでエッチは教えられる。
・キスをすると四角いメガネがぶつかる。不良なのでめげない。
・「不良は…これくらいじゃ…なんとも……んくぅ!」
・ウサギに見られる差分という謎のサービス。
・嬉しくてラミューに全部報告、ラミューが話してしまってラウンダーがばれる。二人とも可愛い。
・ペットショップの前で。こんなふうに将来を夢見てみたい。


【みまり】
・気さくでくだけた人かと思いきや、巫女に対する思いが真剣。
・掃除や稽古などの地味な暮らし。後で歳を知ると、どんな気持ちで日々を過ごしていたのか、あんなふうに気持ちのよい人柄なのか、かえって気になってくる。(若い頃は)成績優秀で恋にも一生懸命だったという。その頃のみまりもちょっと見てみたい。
・「エッチとかなしでも相手してくれるの?」 これを本気で言っている美しさ。
・そしてハンバーガーをほおばる絵の可愛さ。つかず離れずの距離感に関西を感じる。
・自分の名前は好き?から自然に下の名前で呼ぶ流れに持っていくお姉さん。
・付き合うことは結婚までの準備期間と明言する、変わったヒロイン。
・「しばくよ」。
婚姻届のやり取りは緊迫感があった。目が潤んでますよちゃんと歩ける?。本当に変わった子だ。これで24か。
・廃病院でのシーン。これで目覚めるのだろうか。
・エピローグ。歳を気にしちゃうヒロインの可愛さよ。


【アイノ】
いきなりお嫁さんで参った。
自分の国を紹介するために、一人でひっそりホームページを作ったり、クリスマス仕様を準備にしたり。
・ザリガニを肴に正体不明になるまで一緒にウォッカを飲みたい。一緒にスケートもしたい。
・ちなみに、スオミはペテルブルクと国境を接していて、ペテルブルクにはスオミデベロッパー会社が何社か進出してマンションを建てたりしている。そのうちの1社にレミンキャイネン(アイノと同じくカレワラの登場人物に由来)という会社があって、「アイノ」という名前のマンションをワシリエフスキー島に建てている。というわけでアイノと一緒にアイノに住んで、白夜のペテルブルクで散歩したり、スオミに遊びに行ったりできたらいいだろうなと夢想。
・「あの………性交……してください…っ」
・次の日にいきなり日本に。この間の描写がないのがよい。
謹聴
・「ワタ、ワタクシと………せ、性交……ひい…
見惚れるいいのですカレワラかな
アイノ小さいなあ


【ルファナ】
・データくずの花火で一人で遊んでいる。
・デートとしてのサイトめぐりっていいな。
セックスをするのです
・外の世界に出て、雪を見て。部室で待っていてもらって。こころリスタがオーバーラップしてくる。
異なる重力が働いている。
・転校生としてやってきて学園エヴァもどき。でもひたすら明るい。別れのキスの場面の対照的な構図、ベクトルのダイブ
・リーヒラーティってインド人か何かかと思ったら、フィンランドの苗字だった。ルファナならインド人でもいいけど。開発者としてのイリス、リナックスを生み出した国としてのフィンランドのイメージだったか。


【凜子】
・部屋でDVDを焼いている。中身はなんだろうか。
・子供の頃、ペットのインコがタンスの隙間に落ちてわんわん泣いたことがある。そういう記憶があるからあの真顔の表情がいいんだよな。プールで子供相手にネットは男とも対等に戦える舞台だと語ったり、ネットの万能性を割りと信頼してしてそうなところに、凜子の危うさとか傷つきやすさがあるように思える。ストレスフル・エンジェルの管理人としては鼻で笑うのかもしれないけど。
・しかしお弁当を作ってくれたり頭がよかったりテキパキしていたりとハイスペックで、兄ちゃんは兄貴面することしかできない。凜子からするとそれがめんどくさいけどいいところなのだろうか。
・結局、凜子の方から好きだと強く言い出すことはなくて、こちらを受け入れてくれた形になった。そこをつついて凜子をからかうのは野暮で、口に出さないで何となく了解しておくのがいいんだろうなあ。
ランファンを通して見える凜子。「ワタシと……心の恋愛……しませんか?」といった時の凜子は、兄ちゃんのことを何とも思っていなかった可能性もある。エロゲーの文法的には、この時点で兄のことが好きで、ラウンダーを通じた「研究」は一種の絶望感からの逃避だったと見るのが正しいのかもしれないが、正体を明かしあったときの「驚いたね ……本気?」という反応を素直にとれば、兄と結ばれる可能性なんて想像したこともなかったように受け止められるけど、その後で速やかかつ冷静に「男嫌いだけど……家族には適用されないわけで。ま、別にいいんじゃないの?」とまとめてしまったところを見ると、感情は抑えているけどやっぱり嬉しいのかなと思う。切り替えが早すぎるところに、兄ちゃんを掴まえておきたいという焦りすら見たくなる。この辺のどちらに転ぶか分からないような緊張感が凜子との会話の面白さでもある。実際に選択肢を外してお風呂シーンを逃したときはがっかりした。
・お風呂でもこの緊張感。凜子自身どうしたらいいのか分からず戸惑っているのかもしれないけど、何もしなければそっけなくなってしまうキャラなので損をしているのかもしれないがそこがいい。会話しながら石鹸を全身に手で塗っていく。甘え方が分からない、というかこの兄ちゃんに甘えるなんてできないと自分を追い詰めてしまい、結局、兄ちゃんに「好きだよ」と言われて見事に一瞬で昇天。損な子だ。
・だからこそ、サーバーの中に自分の部屋を再現した独立スペースを持っていて、そこに入れてくれるということに淫靡さ、あるいはそんな凜子の可愛さにくらっとする。ここから先の畳み掛け(蘭煌との意識の混淆、ブラウン管越しのやり取り、通販、涙、輸血の話)は素晴らしかった。こころリスタで変奏されたのも頷ける。
空が晴れすぎていて気が遠くなる。
・「一人称をあたしに変えようかな」


うむお願いします