滝本竜彦『ライト・ノベル』

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 まだ考えがまとまっていないというか、まとめる必要があるのかよく分からないので、書きながらどうするか決めよう。
 偉そうな物言いになってしまうが、歴史がない作品だ。スピリチュアル系の気配が濃厚だ。スピリチュアル系は文学外の絶対的な価値観を根底においているため、歴史と教養といった一般的な価値観、美と技術の積み重ねは二の次になり、しばしば一般的には稚拙で安っぽい技法も躊躇なく採用する。一般的な(という言い方が通用するのかという問いかけはひとまずおいておいて)読者は置いてきぼりにされ、何かを悟ったように語りは進み、終わる。
 そうなるとさすがに宗教小説のレベルなので違うが、本作にはそういう危うさがある。NHKにようこそ以来、読み物としての面白さはキャラクターの一貫性にも繊細な文体によっても保障されていたが、本作では(少なくとも一読した限りでは)複雑すぎるキャラクターの入れ子構造や、文学外に飛び出した図式的・数学的で無味乾燥で「下手くそ」な記述や言語感覚で、言葉の芸術としての作品はところどころ破綻している。「読者に光を届けるために精緻に作りこまれた小説」という説明は、評価軸によっては一瞬で崩れ去りそうだ。キャラクターたちが苦労してみつけたそれぞれの大切なものも、とても壊れやすいようにみえるが、わざわざ壊れる場面を描くのも無益なのでこれで正解なのだろうか。
 本作の元になった文章は滝本氏のサイトで以前公開されていた。NHKにようこそを出してからも道が定まらずいろいろ苦労していた中で、スピリチュアルに「はまって」いたと仄聞することもあったが、滝本氏のブログからはあっち側に軸足が移ってしまった感が出ていて勝手な失望感のようなものを抱いた。滝本氏は言葉の芸術家として技術を磨き、質の高い文学作品を生み出す、なんていう悠長なことをやっている余裕はなく、もっと即物的な救いを捜し求めた結果、「教養」を身につけまいまま、半分文学の外に飛び出してしまったわけだ。そしてそれはスリリングなことだ。
 本作では言葉では芸術として伝えられないことが描かれている。芸術として伝えられないから、「情報」として表示されている。めたとんの不思議な言葉や絵、主人公の母親が哲学に淫して辿った垂直的な宇宙遍歴、美沙のチラシ裏小説群。それらの凄みは言葉で表現され切っていない。確かに一部は美しい言葉で表現されているが、どこかで諦められている。この未充足感は、仮に優秀なクリエイターによってアニメ化されたり「メディアミックス」(このNHKにようこその時代を感じさせる言葉が無反省に出てくるところも遠近感がなくて面白い)されたとしても、きっと同じように満たされることはないだろう。それは欲望の残滓であり徴候だからだ。

 光は僕たちの体の細胞の隅々、心の部屋の隅々、その中にあるいくつもの物語の隅々に流れ込んでいった。

 こういわれたらそう受け止めるしかなく、それを表現する言葉の巧拙の問題は消えてしまう。作者による言葉の暴力といってもいいのかもしれないが、この作者はその暴力をひたすら読者に「光」や「温かさ」にようなものを伝達するために行使するのである。作者が修めたらしい催眠の技法と同じだ。光や温かさは外部からの入力による感覚の一種だが、内部器官の問題でもあるので確かに自分でも主観的に多少はコントロールできる。でも小説がそんなに功利的なものであってもいいのだろうか。本作に見られる混乱というか、散らかった感じは、滝本氏自身がその点についてまだ答えを出していない証拠のようにも思える。本当に悟ってしまったら文学作品はもはや不要になり、教義書で十分になってしまうかもしれないからだ。
 でも分からない。僕の頭はまだ濁っていて、きちんとこの作品を受け入れていないのかもしれない。これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない。この作品に対する誰かの解説や、さらには作者による解説は、果たして必要だろうか(僕は読みたいだろうか)。この作品を読んだ後に残るもの、得られるものはなんだろうか。大切なものの弱さと寂しさの感覚であり、その感覚が許される空間が存在しているということを知らされた安堵感なのかもしれない。弱いからこそ言葉や何かの温もりにすがりつき、小さな光を手にしたいという夢を抱くことができる。
 なんだかNHKへようこそやその他の滝本小説と似たような感想になってしまった気がするが(以前にサイトで公開されていたときの感想とか:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150802 )、同じ作者なのだから当然なのかもしれない。違うところを目指しても同じところに帰ってくる。それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。僕にとっても何か大切なものがあるところなのだろう。

もののあはれは彩の頃。 (60)

 時間は必ずしも線状のものではなく、分断された断片から断片へと飛躍したり、他の断片がオーバーラップしてきたり、どこかが引き伸ばされて高密度になっていたり、どこかが抜け落ちて希薄になっていたりする。そのことを実感するのは「思い出す」という行為を通じてであり、同時にその行為によって時間が線状であるべきであることも再認識させられる。
 双六はそのような時間の機構を露出させるシステムであり、価値としての時間はそれを認識し、統合する主体の問題に還元され、線状ではないので時間の断片を双六のシステムのせいにして好きなように並べ替えられる。本作は複雑なサイコロの盤面がある凝ったゲームのように見えるが、実際にはサイコロを振って運任せにストーリーが進むわけではないので(設定の調整を除けば)けっこうシンプルであり、それを複雑な物語のように見せているのはうまく感じた。時間の流れはどこかに終点を仮構するからこそ感じられる。本作では登場人物が死に飲み込まれようとしている人ばかりであり、賽の河原や反魂法の説話、サイコロという突然死を意識させる決まりもあり、「もののあはれ」の空気が常にどこかに漂っていたような気がする。秋は華やかな彩りが忍び寄る死の陰影を帯びる季節であり、京都という歴史の町は死者の空間であることを意識させる。
 ただし、みさきルートは双六/時間物要素が薄まって、Fateのような古典的な団結&異能バトル展開になってしまったのでやや興ざめだった(最終ルートはさらに大味でひどかった)。その中でも面白かったのは、大誠と縁の対峙のシーンで、ぽっちゃりしたサブキャラの大誠が縁の凶器でミンチにされながらも一瞬で復活するシーンが立ち絵と文章だけで何回も繰り返されながらも、大誠がまさかの本気の説教で縁を救ってしまうというシュールなマゾ展開がよかった(縁の渾身の「寄るなァッ」に切実感があった)。それはともかく、みさきは声がきれいなので話すのを聞いているのは心地よい。
 反対に一番よかったのは、琥珀との橋の上でのシーンだった。琥珀は少し目をそらすことが多いのだが(猫はまっすぐ見られると恐怖を覚える生き物だ)、ここではまっすぐこちらを見て、少しずつ静かに言葉を吐き出す。背景の夕暮れの橋と川と紅葉は、ひんやりと鮮やかに色づいているけれど、死の気配もにじませている。琥珀と何を話したのか覚えていないけど、言葉が揮発しても空気感や琥珀の吐息と声のトーンだけが記憶に残っている。一言ずつ噛み締めながらゆっくり話し、本人が意図しなくても寂しそうなトーンになってしまうのがよい。あえてたとえるなら、オーラがあったときの綾波レイのようだ。その声でエッチシーンというのは楽しいし癒される。とかく裏を読みがちなこの作品のキャラクターの中で、シンプルで大切なことしか話さないのが心地よかった。確認したら、声優の白雪碧さんという方はらぶおぶのイサミさんの人だった。琥珀シナリオは(クレアシナリオも同様だけど)、終わりの気配を漂わせながら双六をあがるのが印象的だったのかもしれない。
 ついでに、本作は涼しげな寂しさと幽玄の気配を湛えた音楽が結構よかった。フレーズが短くてすぐ繰り返しになってしまうので曲数が少ない印象になるのが残念だったが、のん気な日常ともバトル的なやかましさとも違う、秋の空気を感じさせる曲が多かった。双六によってシーンが断片化されていても、すんなりと空気感を作り出していた。こういうのは生演奏でも電子音楽でも変わらないし、むしろ電子音楽のほうが神秘的かもしれない。
 悪かったのはエッチ関連。ストーリーから切り離されていたので高まった末ではなく、平和になった日常で他にやることがないから告白してエッチという流れになったのはいただけない。本編での繊細なやりとりはなんだったのか。かといって本編では落ち着いてエッチもしてられなかっただろう。本編後に回すにしても、もう少し工夫するわけには行かなかったのか。
 ただし、そもそもエッチシーンというのは初回は別にしてもある程度物語から切り離されたコンディションで迎えざるを得ないことが多いので(一気にプレイする時間が取れなかったり、間隔が短かったりして日を改めなければならないことが多い)、ある意味で双六のコマのように前後から独立してしまっていて僕も感情の流れやキャラを忘れかけていることがある。だからエッチパートになってヒロインたちが急にエッチになってしまっても非難できないし、お互いに忘れてしまっているのでさっさとエッチに突入するというのは、現実的でそれなりに味わい深いことなのかもしれない。物語の興奮や感動は遠く置き去ってしまった。目の前のヒロインの自己同一性を保障するのは、その遠く離れ去ったものの影や名残を絵と声と音楽が伝えるからだ。エロゲーはそもそもそういうフラットなものであり、現前するヒロインのまなざしの中に「奥行き」を勝手に読み込むためのものであるはずだ。だからこのエッチシーンの構成は一つの形になっているのかもしれない。…「俺はただ黙々と、この可愛い尻を掴みながら陰茎をひたすらに抽送している。」
 不思議な場面があった。そういえば物語中でも、物部を引き摺り下ろした後のプレイヤーはどうなっているのか、僕たちは主人公たちに憎まれるべき存在なのではないのかということには触れずに流してしまっていたなあ(触れるとHAIN作品になるというのは一つの答えだろうけど)。


 「(私、きみ)は運がいい」というのはロシア語では「(私、きみ)に運んでいる(везет)」、過去形の「運がよかった」は「(私、きみ)に運んだ(повезло)」という。誰が何を運んだのかは明言されない。日本語でも「運」であり、本人が感知できない(あるいは言語化することが禁忌である)何かが何かを運んだ結果、幸せな結果が生じたということだ。たとえそれがいかに作為的であっても、人生にはそういう瞬間があるのだろう。それが大切な人を見つけるきっかけになれば幸せなことだ。

石川博品『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落" 〜Godspeed You! RAGNAROK the Midknights〜』

 久々に石川博品の傑作を読んだ!ネルリ以来だ!と思ったが、そういえば後宮楽園球場も四人制姉妹百合物帳も平家さんと兎の首事件もあたらしくうつくしいことばも傑作だったので、ネルリ以来ではなかった。いい小説をたくさん書く人だ。ビッとしている。
 しかしネルリ以来と思えるくらいにすばらしい小説だった。言葉に対する感度が高い作家だから、異世界物といってもファンタジーという異世界、暴走族という異世界、Jポップ風乙女という異世界、青春という異世界が多層的に重なり合って、美しい言葉の工芸細工のようになっていた。文体や表象だけでなく、カズパートとリコパートの間の絶妙なずれ、というか余白が時には滑稽で、時には切なく、惚れ惚れとする。
 パロディ文体の奇形的な進化はニンジャスレイヤーで限界に達したと思っていたが、石川センセの暴走族文体がまた別の到達点になった。中盤は少し中だるみしたように感じた瞬間もあったが(「俺また何かやっちゃいました?」的な展開がベタに出てきているように思われた)、見事な終盤でどうでもよくなった。リコのモノローグだけの部分で終わったということは、カズがどのように振舞い、何を考えていたのかは正確にはわからないし、わかる必要もないということだ。むしろ、カズは途中から「陰キャ」から神話的な暴走族へと変貌しているように思われる瞬間もあったりして、実はリコサイドが現実で、カズの目に移る世界がウソなのではないだろうかと思いがよぎったこともあった。「藪の中」の美しい応用であり、美しい真実は現実を侵食できるものだと思えた。男と女の世界観はこれほどまでにかけ離れているという比喩のようにも思われたが、これだけかけ離れているのにむしろすがすがしい。かけ離れているからこそすがすがしいのかもしれない。いずれにせよ、そう思わせる魔法のような作品だ。
 羅愚奈落や他のヤカラの皆さんの人物描写は浅かっただろうか。人間というよりは記号として描かれていただろうか。人間というよりは、異常な言葉を話す怪物だっただろうか。言葉は動物の鳴き声のように種類が少なくとも、動物の鳴き声のようにうそ偽りなく、全力で発せられる。そんなトロい人間性など暴走族には必要ない。速度の中で生きているのだ。後に残るのは美しい幻だけだ。

花色ヘプタグラム (70)

 温泉街や温泉旅行というものの意義を実感できたことは多分ないと思う。身体と精神の保養の場所ということは頭では分かっているのだが、子供の頃から温泉に何度かいったことがある体験に照らしてみると(特に夏休みに親の実家に帰省したとき)、あまり温泉で癒されたという体験がないからだと思う。癒されるためにはまずは疲弊しなければならないが、温泉に行くための疲弊はせいぜい車での長時間移動によるものであって、疲弊の質としては低級なものに属するし、子供にとってはその程度では疲弊にならない。学生の頃にサークルの合宿とかあったが、湯治場というよりは単なる民宿の風呂だったし、たかだか運動するだけなのにこれほど時間とカネを使うことに対する不満もあったので、正直あまり楽しくなかったように記憶している(一番の問題はまだオタクとして開花しておらず気のあう友人もいなかったことだろうが)。夏に家族で富士山に上り、帰りに山梨の温泉に寄っていったことがあるが、おそらくそれが一番温泉を楽しめる機会だったと思う。しかし、やっぱりちょっと寄っていく程度ではだめだし、家族なのでそれほど楽しくもなかった。そもそも温泉というもの自体が軟弱な感じがして好ましく思えないし、温泉どころか風呂も大して好きではなく、癒しというよりは汗と脂を洗い流してさっぱりする場所という認識なのでシャワーのほうが好きで、冬でも湯船に浸かるよりは長時間熱いシャワーを浴びるほうが好きでお湯を使いすぎだと家族に怒られたこともある。誰の得にもならないおっさんエロゲーマーの風呂情報を共有してしまい申し訳ない。
 温泉や風呂に何の価値も見出さないことは、ある種の男性的な価値観としては大して珍しくもないと思う。アニメやエロゲーに出てくる「温泉回」的な価値観は、温泉を尊ぶキャラクターにも、そのキャラクターを尊ぶ視聴者・読者にも本当の意味では共感できていないと思う。とはいえ、フィクションとしての温泉・風呂には自律的な価値体系もできようものだ。語り方の問題になるからだ。エヴァで風呂は命の洗濯をするところだとセリフを聞いたときにははっとしたし(当然、風呂シーンが単体として印象的に描かれていたというだけではなく、作品の文脈の中で印象的だったからだ)、霞外籠逗留記は(入浴のシーンはあまりないが)旅籠での逗留という文化抜きには語れない。とはいえ、いずれにしても温泉物は湯に浸かるという以外には積極的には何もないジャンルであり、受動的にならざるを得ない。何かを追い求めるような、ぎらぎらした精神性や渇望とは対極にあり、思考を減速してぬるま湯にほぐしていくしかない。それは怖いことのように思える。無用な比喩を用いるならば、ドストエフスキーの文章の代わりに日本の有象無象のだらしないグルメエッセイを無理やり頭に押し込まれるような恐怖。この点で、温泉や風呂は、個人的には食事と同じカテゴリーの事象といえる。以前にマルセルさんに「温泉に浸かっているうちに何でも解決してしまう話」として花色ヘプタグラムをお勧めしていただいたときも、そのような特徴にはあまり惹かれなかった。まあ、欠点が多いよりは何もないほうがまだましかな、という程度だ。マルセルさんはネタばれを避けるために敢えてセールスポイントを強調しなかっただけかもしれないし。というわけで、僕は大した期待もせず、主に絵がきれいだったからこの作品を買ってみた。音楽も温かみがあって不快でなかったのはありがたかった。
 前置きが長くなったが、本編として言いたいことはあまりない。
 この温泉という「何もなさ」、物語のなさをうまく昇華しているなと思えた瞬間がいくつかあった。ひとつは、明日香シナリオでクライマックスともいえるシーンが、一枚絵が出ずに背景画と簡単な説明だけで終わってしまったときだった。あれほど気にかけていた八華。結局、幻は幻であり、今の彼女と築いたこの現実の中では背景に過ぎない。でもそのシーンでは音も鳴り止んだようで、ある種の無を見るような静かな儀式になっていたのがよかった。明日香というヒロインの人柄にも、この作品の雰囲気にも合った処理だったと思う。いづきの暑中見舞いの葉書もそうだ。特にそれらしい一枚絵はなかく、劇的なことは何も起こらないが、とてもよいエピソードであり、それを二人が大切にしていたこともすばらしかった。それから玉美の誕生日のお祝い。主人公の手料理、子供の頃の思い出を再現した親の料理、友達からメール。ほとんどお金がかかっていない、大した手間もかからない思いつき。絵もない、劇的なことは何もない、だけどタイミングだけでこれほど人を喜ばすことができる。洗練された演出だ。玉美シナリオは最後もよかった。幸せな誕生日を過ごし、次の誕生日に二人で思いをはせる。二人で下校した夕方、なんとなく楽しい気持ちになって、子供の頃のように影踏みをする。影踏みのシーンはラストだったしが絵があったけど、こういう何もないふとした瞬間を最後に持ってくるところがよかった。ちなみに、反対に残念な一枚絵がひとつあった。一番最後の絵だ。主人公こっちみんな。
 この、一枚絵のなさというのは、予算的な事情の可能性を除くと、立ち絵の美しさでおつりがくるほどに補われている。作品名に合わせるならば、どのヒロインも特に表情が崩れていないときには花のように美しく華やいだ絵になっていて、ヒロインとお話していると同時に鑑賞しているという感覚がある。例えば、このへん:а, б, в。(逆に言うと、一枚絵のエッチシーンは立ち絵の延長という感じで、やや淡白で淫靡な吸引力が足りないように感じられる。それでも十分にエロいし、日常の延長というのも悪くはない)。玉美はやや地味だが、表情と声がすばらしいのでやはり優しい気持ちになる。誕生日祝いのときに玉美が目を潤ませ迫ってくるシーンは純粋でなんとも雰囲気がよかった。純粋といえば、いづきはシナリオ全体を通して三島由紀夫潮騒のようにストレートでシンプルで美しかった。丁寧語なのもすばらしかった。声も高めでややかすれていて、澤田なつさんのように少し吐息が入るのもよかった。ついでにいうと、声は他にも特に玉美とみゆりがよかった(しかし、明日香の人は感情を出す演技が上滑りしていていまいちだった)。みゆりに関しては、エッチをすると記憶が回復して大人の声になってしまうが、「子供」の頃のほうが可愛いし作中のすごす時間も長いという困ったことになっている。中間の時期もあり、それわそれでやがてうつろい過ぎていく可愛さがある。最後の一枚絵は不出来だが、最後から2番目の神社のみゆりの絵はすばらしく、シーンのさりげなさもよいのでここで終わってもよかった。
 まとめると(別にまとめる必要はないが)、特に温泉的な価値観に共感できるようになったわけじゃないし、御式村の住人にはなれないだろうなと思うけど、そこで咲く七華のように何もないものの上にこれだけ美しいものを作り上げられるのは不思議に思う。最後のみゆりの話で端的に言及されていたように、この御式村の不思議な美しさは維持されていたものであり、やがてヒロインたちは離散してただの温泉保養地になる。温泉はやっぱり背景であって、それ自体にファンタジーはない。それでも女の子を美しくする何かはあるようだ。年寄りくさい物言いになるが、年をとると生み出すことだけでなく生み出しながら守ること、維持することにも気を使わなければならなくなり、分かりやすく生み出す機会が減る。保養の価値観は維持の価値観であり、女の子の美しさも実は維持されている部分があるが、男はそのことに気づかない。エロゲーの女の子は化粧などしないし、基本的に美容に気を遣わない。それはありえない花の美しさであり、そんな花の世話をしているいづき自身の美しさだ。そこに温泉のファンタジーがあるのだろう。

昔のアニメ

 最近、放送20周年だとかでserial experiments lainの話題をみて、久々に見返してみた。観たのは3回目くらいか。最初に観たのはエロゲーを始める前の頃、エヴァンゲリオンで受けた衝撃というか傷を再び受けたくて安倍吉俊氏関連の作品を漁っていた頃、海賊版だか海外版だかよく分からないアニメのDVDをヤフオクで買っていた頃だ。今回は初めて話が割りとすっきりと飲み込めた。ネットワーク用語に関する知識がようやくアニメに追いついたからだと思う。そうしてみると、説明的なせりふを最小限に省き、言葉よりも目や顔のアップや風景などのイメージに語らせようという姿勢が強いのがよくわかり、ずいぶんとよく練って作っていたのだなと思った。インフラの変容が社会の変容につながる物語。唐突に思えた一つ一つのイメージもずいぶんと論理的で雄弁であるように思えた。神話としてのlainと一人の小さな女の子としての玲音はきれいに統合されることはなく、玲音自身の不可避の選択によってほとんどlainのみが残る結末だが、そういう残酷な終わり方にこそ惹かれてしまう。どうにもならないすれ違いだ。今のネットワークはたとえ飛び交う情報は不透明だとしても生態系としてはずいぶんとクリアになってしまったように思えるが、そんな環境でlainという神話が必要とされるかはよく分からず、だからこそ空気のように透明になったlainの痕跡を時折思い出したくなる。
 2週間後、時間が取れたのでついでに灰羽連盟も見返してしまった。こっちは割りと昔見たときの印象に近かった。

幻月のパンドオラ (60)

 こころリスタとこころナビは大変楽しませてもらったが、こちらはいまいちだったかな。この2作にとっての電脳世界に比べると、本作でのゲーム世界はあまり魅力的に感じなかった。個人的にそれほど豊かなゲーム体験を持っているわけではなく、アクションゲームは好きではないので仕方ないか。エロゲー以外で思い入れのあるゲームといえばドラクエ3ファイファン3くらいだが、RPGは本作にはあまり関係なかった。どんなことでも楽しめる精神をウニ先輩は説くが、そこまではちょっとついていけなかったっす。そういうことも含めて、ウニ先輩のまっすぐな若さはよかったけど、口癖とCVがいまいちだった。真切役の成瀬未亜さんはさすがで、安心して聞いていられた。魅力的な女の子として描かれていたし、絵も大変きれいでした。特にベランダに座っている一枚はいいですね。
 最後に途中まで撮っていたスクリーンショットでも貼っておくか。а, б, в.
 次は姫さま凛々しく。他のもやりつつのんびり進めていきます。

森薫『乙嫁語り』10巻

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。
 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。
 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。
 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い。
 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴル・トルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりとショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域は工芸のメッカでもあり、絨毯、刺繍、陶器、はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏な外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。

息抜き

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活や人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーやアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジアの歴史とか、ロシアの旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築やゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰の歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。
 エロゲーには自由と安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月のパンドオラ』(Q-X、2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲーの自分の生活や人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲーの価値を否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。
 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウトに編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。
 人生はやりかけの連続で、そんな無責任に復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章や作品だったり。仕事でお金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由で無責任な創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分のクローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしのエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的な価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由に解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲームと読書と家族の時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味でエロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲーの主人公がヒロインに生活や価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公とヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーのヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

ノラと皇女と野良猫ハート2 (75)

 前作の感想は何だかやや中途半端なままになってしまい、その後、マルセルさん、残響さん、こーしんりょーさんとの討議(残念ながら中断)でも個人的に準備が不十分だったのだが、続編である本作は期待したとおりの佳品だった(特に言葉と詩的イメージが元気なアイリスルート)。2017年にクリアしたのはわずか3作(+ロシア製1作)。2018年は積みゲーを崩すだけで、1本も買うことすらなく終わる可能性もあるが、噛み締めてプレイしていきたい。とりあえずは聴き飽きなそうなOP曲とピアノアレンジ曲集にも感謝。


アイリス
 本が好き、勉強が好き、絵本を声に出して読み聞かせたときに立ち上がってくる場が好きなエクリチュールのパトリシア。彼女が目指すものと同じものに、別の入り口から近づいていくのがパロールのアイリスというとりあえずの対置。


−−ねぇってば、ねぇおぼえてる? おぼ? ねぇおぼ?


 音声としての記憶は、固定するための媒体を持たず(再生装置はエクリチュールのような多様性を持たないまがい物として、過去の亡霊として示される)、雪に吸い込まれて消える。消えるたびに新しくやり直し、「よろしくお願いしまーーーーす!」 声と印象とぬくもりが全ての生き方であり、CV花園めいさん(アニメの方で多少なじみあり)の元気な声がよく合っていた。雪とぬくもりの特別な関係については前にも「雪影」の感想とかで書いたけど、この笑顔と声と格好のアイリスではコントラストが一層強まって印象に残る。金髪娘的な露出スタイルが好みに合わず何とかしてくれと思う一方で、肌寒さと元気さの奇妙なバランスが取れている。それは単に気温的なものだけではなくて、時としてアイリスの心が感じる寒さを視覚的に表してしまっているように思える。記録ではなく記憶という不安定なものに存在を規定されていることは、生きた感覚的なものを優先する存在だという一面もあって、生き生きとした幽霊という両義性を見せてくれる。即物性と抽象性を行ったり来たりする。正確には、アイリスの性格からして生き生きの方が中心で、幽霊はその周りを漂う気配のようなものに過ぎないけれど。


−−もし涙がヒトの鳴き声なら……それは目に見える音なのだから……/あなたはそれが瞳からこぼれても、決して大地にこぼれないよう、すくってよ


 文字(形)を持たなかったために歴史を残さなかった文明というのがあって、それは存在しない歴史のロマンをかきたてる。歴史が語り継がれたものを意味する言葉であるなら、語り継ごうという欲望をかきたてるものは歴史未満のもの、弱者のものであると同時に、歴史化されたものから切り捨てられた欲望であり、何か本質的なものを含んでいるように思える。毎年訪れる雪にかき消される痕跡。消えるぬくもり。冥界のあり方としてはアンクライ家の方が本質的であり、エンド家はアンクライ家に対して派生的/反省的に存在するもののように思える。その関係はそのままパトリシアとアイリスの力関係に反映されているようでいて(「バカはきらい!」)、その点からするとむしろ恋愛物語のヒロインとしてはどうしようもなくアイリスが魅力的に見えてしまう。隙のなくきまった立ち絵のポーズはあまりに隙だらけで、弱くて、惹きつけられる。


−−アンクライの涙は、忘却のしるし。あなたの涙は呪いすらも忘却させる


 雪の白さと青さ、アイリスの金色の髪と白い肌と青い目は、エロゲーでこそ美しく表現できるように思えた。


ノエル
・エッチシーンの絵がよい(表情とか姿勢とか)。
・元々声がかわいい系らしいので崩れたときがきれい。
・見せ場に恵まれていないな。
・ノエルのエピソードも含め、ヒロインによっては箸休め程度のボリュームしかないことは残念がっても仕方ない。前作メインヒロインについては、それだけ前作の完成度が高かったのだと思いたい。


ノブチナ
 母親の不在あるいは欠損のモチーフが繰り返し登場する本シリーズにおいて、父親という本来エロゲーではタブーの存在が描かれたわけだけど(同じく父親が服役していたクラナドでも父は欠損した父親だった…)、その父親は半分母親としての父親であることが判明し、ノブチナに「親の指図に苛立つことはあるだろう。しかし、親の気持ちは察して行動すべきだ。子は親の信用というものを察して、行動すべきなんだ」とぶつけて巻き取ろうとする。黒木ルートのデフォルメされた親子関係よりも踏み込んだ親子関係の再演だ。信春がダメ人間として描かれていることはストレスを与えないための表面的な見せ方の問題であり、やっぱり本シリーズはこのテーマの変奏なのだった。ノブチナの場合は、「あ゛ーーーーーーー!! あ゛ーーーーーーー!」と暗い夜空に向かって叫び、夜空は空虚であり、だからこそ自由に呼吸できる空間があることを確認するような強い女の子であることを自らに背負わせていることが示される。
 息の詰まる(気を抜けない)空間である家の問題と対置される、夢のひと時としての文化祭の演劇。ネルリでも印象的だった構図だ。もともとノブチカたちとの日常はそういう時間だったのだろうけど。
 こちらを振り返るようにして話すノブチナの立ち絵が印象的。大事なことを話す時の絵だ。おちゃらけキャラであることをやめて素の表情を隠していないが、そのときも身体はどこか別の方向、外の世界に向き合っている。向き合っていることをプレイヤーに示している構図。色の強い赤髪であることがとても正しく思われる構図だ。ノブチナとアイリスは、立ち絵とセリフが補完しあっているように思えた瞬間が多かった。
 叱ってくれる親との邂逅というモチーフは、それだけ見ると陳腐かもしれない。まあでも、近年真面目に叱られ、心配され、助けられ、それでいてろくに孝行らしいことも面倒でしていない自分としては、ちょっと引き込まれてしまうのであった。本シリーズでノラはうっとおしいくらいに繰り返し母親への負債を語るわけだけど、それは一定の年齢に達したプレイヤーにとっては何がしかの問いかけにならざるを得ない原罪のようなものであって、もはや作品の巧拙とは関係ないとさえ言えるのかもしれない。お気楽な恋愛コメディ作品の根本にそれを据えたことの是非は、プレイヤーが個人の問題として処理するしかない。あと個人的に、他の家のことを他の文化として尊重する姿勢(漫才部の取材に対して井田とか田中ちゃんが不快感を示すとことか)に面倒だなと思った。ノブチナは面倒だと跳ね返せるけど、そんなに強くあることができない局面もあることを思い出して(自分が身につけた思考や文化がまったく通じない人々と親戚付き合いをしなければならなくなったとき、どちらをどう否定して顔を潰さず妥協させるかみたいな面倒な話)、ノブチナはいいなと思うのだった。
 まあ、それにしても。「付き合ってみるか。私たち」。えっ、これからノブチナと恋人になるの?という展開ではあった。こういう論理的必然性のない恋愛展開は、なんらおかしくはない。むしろ、感情の論理ではなく、人生のバイオリズムのような論理としてはしごく自然な展開といえるのかもしれない。「私が気持ちを伝えたのはな。お前が逃げなかったからだ。お前は一度も、私か逃げたことがない」。これで納得させられてしまうような真剣な女の子なんだな。というか、いまさらながらノブチカは女の子であるという文脈が持ち込まれてしまうんだな。持ち込まれたら仕方ない。ノブチカを見ていてもエロい気分になることはないけど、彼女の生き様は近くで見届けなくちゃいけないから……。だから、ノブチカが急にしおらしくなったりせず、肩車されて上機嫌になるような友達感覚の付き合いが続くことにほっとするのだった。「あなたはきっと、勇気の生まれ変わり。勇気は皆の足元を照らすし、あなたは前を見て進まなきゃ。そうでなくては、私はなぜあなたにノラを渡したのか分からなくなってしまう。不思議ね。私、あなたとそこまで遊んだことないのに。ずっと一緒だった気がする」。アイリスルートと並び、本作でもっとも熱量の高いシナリオで恋愛以上のことが物語られており、その意味で前作を正しく継承している。おっぱいは強調された飾りだからな。飾りがないとノブチナだからな。
 トラックのみにゲームは古いノートPCでやったこともあり、1時間くらいかかった。


ルーシア
 物語としては割と薄くて、悪役も薄くて茶番だったりするけど、彼女の抱える問題や母親との問題が、何度も不器用に繰り返されることでそれなりの実感を持たせていた。「光などとは名ばかりで、立てる舞台もなく、堕ちた伝説しか与えられず、そうやって誰も彼もが!!あの子ばかりを選ぶんだ!!」「知らねぇよ!!そんなものよりも、俺と地上で!」 この「知らねぇよ」をはったりではなく、正面から言えるノラがうらやましい。「きっとあなたが来なくなったら、話しかけることをやめたら、わかっちゃうと思うんです。来てくれてたときのほうがよかったって。そういうものだと思うんです。そしてそれは、わからせちゃいけないと思うんです。あなたが生きている間は」。この手の刺してくるセリフは本作では家族関連のやりとりで多くて、イチャイチャするための恋愛物語にとっては必須ではないのかもしれないけど、ヒロインへの感情移入にとっては重要な役割を担っている。
 しかし、やはり姉さんのあのサクラメントの衣装にすべて持っていかれた。ウエディングドレスのスカート部分を履き忘れた花嫁みたいな露出度の高い衣装だけど、決して痴女ではなく、姉さんの本質はあの乙女チックな花をあしらったヴェールの方であることは明白。そもそものヘアバンドからして女の子らしい。下がパンツ丸出しになっているのは、少し喜びが大きすぎて開放的な気持ちになってしまったからにすぎない。多分姉さんはパンツ丸出しであることに気づいてもいない。そういう素敵な女の子なのだ。




−−ねぇ、これからたくさんお話しましょう!未来のこととか、今までのこととか、語り継ぐくらいたくさん、だってあなたは私を忘れないもの!


 印象的なシーンの一つに、共通ルートの最後のほうで、アイリスとパトリシアがお互いに一つだけ質問したはずが、なぜか海と空の色彩と、波の音の採譜と絵本の読み聞かせをめぐる問答になる流れがある。それはいずれも、「いのち」への驚きと「いのち」を見てみたいという願いのことなのだけど、そういう眩しさがつまった作品だ。

石川博品『先生とそのお布団』

 どこまでが事実でどこからが創作なのか厳密に考えてもしかたないので自分にとって自然で都合のよい読み方をするしかないのだが、飄々としているように石川先生がこれほど苦労しているのをみるのは正直なところ素直に喜べない。僕が好きなラノベ作家は寡筆であるか廃業気味である人が多く(秋山瑞人中村九郎唐辺葉介田中ロミオ)、石川先生も順調そうではないけど、それでも書くことに対しては純粋な気持ちを持ち続けていて、スランプなどとは無縁であるように思っていたいからだ。同人誌も含めれば佳作というわけではないし、売れっ子作家のように3ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されて枯渇されても困るので、今のようなペースであっても創作に集中できるような環境があってほしい。そのためには何が必要なのかはわからない(ちなみに、石川先生のラノベなら商業なら1冊1000円、同人なら1冊2500円くらいにしてもらってもかまわないけど、代わりに複数冊買うのは何だか気が進まない)。
 「先生」が四人制姉妹百合物帳を高く評価しているくだりがあって、これは異論ないと思った。平家さんもいい作品なので、読者にとっては同人と商業の差はない。どちらでもいいので後宮楽園球場の続きを待ちたい。
 あと、石川先生は「趣味(テイスト)の作家」、好きなものを外から集めてきて文章にする作家であって、内側に抱える大きくて重いテーマを何度も掘り下げていくような「宿命の作家」ではないと意識するくだりがあったけど、この二分法にはこだわらないでほしいなと思った。最近人から勧められて村山由佳『星々の船』、三浦しをん『光』といった直木賞作家の小説を読んだけど、勧めてくれた人との関係を除いて小説そのものとしてみれば、こうした広く大衆に向けて書かれた(?)現代人の心(?)を扱った作品は、何だか人間の暗くて嫌らしくて疲れた部分を集めてあらかじめハードルを下げた上で感動を描いているようで(おそらく昔ソログープの『小悪魔』もそういう批判を受けた)、僕の好きなライトノベルエロゲーに比べて時代遅れで低級な文学であるように思われた。こんなふうな見方は社会主義リアリズム批評だと言われるのかもしれないけど。あと、唐辺作品のような暗い作風も好きだし、それは直木賞作家に近いのかもしれないな。いずれにせよ、ラノベは「男子中学生」向けに書かれているなんていう認識は無能なラノベ出版社のたわごとだと思いたいし、ラノベが描ける「若さ」の質は一般文芸よりも先鋭で特権的なものだと思いたい。石川先生の文章の美しさや抒情性は趣味的なものなのか、悲劇に根ざさない美というのは存在しないのか、ということに関しては、先の四人制姉妹百合物帳が答えの一つだと思うし、そもそもそんな問いを無意味にするような小説をこれからも書いていってほしいと思う。