欲張りなモニタと控えめな演出

 年末に秋葉原に行ってPCを買い替えて、10年くらい使った小さなノートPC(15.6インチ)からバカでかいモニタ(23インチ)のデスクトップPCになってゲームを堪能する環境が整った。家で仕事をするときはブラウザのタブを50個くらい一気に開いたりすると言ったら、店員に少しパワーのあるものをと勧められて買ったやつだ。中古で合計4~5万くらい、さらに大きなノートPC(出張用)も中古で3万円くらいで買った。どれも新品同様のぴかぴかのパソコンで、いい時代になったものだと思いながら、でかい袋を抱えて家まで持ち帰るところまで含めて秋葉原に通っていた昔を懐かしんだのだが、そこで満足してしまって新しいPCにエロゲーをインストールしていないこともあって、すっかりプレイが止まってしまった。
 久々にやってみたエロゲーはマルセルさんが楽しんでおられるはぴねす2の体験版。前作はその昔体験版をやって断念したのだが、2の体験版をやってその時の違和感を思い出した。僕はこのメーカーの立ち絵の使い方が好きになれないということだ。テキストはそれほどストレスなく読めても(体験版の範囲ではまったりと可愛い女の子を愛でるだけの必要にして十分なゲームという印象で、唯一主張らしい主張があったといえば、花恋のシャツのボタンの隙間がひっそりと開いていて大変すばらしかったということで、高校時代の思い出を昇華してくれた)、立ち絵で割と台無しにされてしまう感があった。すなわち、はっきりしすぎた表情とそれをさらに強調する漫符(ハートマークとか)だ。もっと曖昧で中間的なはずのヒロインの心理状態がデフォルメされてしまう。そのデフォルメされた顔がいくらかわいかったとしても、やっぱりデフォルメ(変形、単純化)なのだ。それをいったらわずか数種類から十数種類の立ち絵であらゆる状態を表すというエロゲーの立ち絵のシステム自体が原理的にデフォルメなのだが、もう少し中間的な表情やニュートラルな表情だってある。ある立ち絵から別の立ち絵への切り替わりは0から1への切り替わりであり(滑らかに動いて変わるように見えるすばらしい技術もあるが)、1つの立ち絵自体は静的である。動きは原則的には複数の立ち絵が切り替わることによって、あるいは複数の立ち絵を想像することによって、複数の中の一つの顔という形でとらえられる。ところが、立ち絵が優れていると、単に止まって瞬きすらせずに凍り付いた絵であっても、ヒロインがかすかに呼吸しながらこちらを見つめているように感じることもあるものだ。そういう息づいている感じがこのメーカーの絵や漫符の演出ではあまり感じられなくて、読んでいて没入が難しい。立ち絵がひょこひょこ動くのも好きではない。システムで漫符を消せれば少しは落ち着きそうな気がするけど、残念ながらそんなボタンはないようだ。というわけでハードルが高いメーカーなのだった。
 昨日ノラととのおまけシナリオが出たとのことで、久しぶりにまたエロゲーをちょっとだけやった。人気投票の結果によるリポーターの小話と、シャチアフターのちょっといい話だ。シャチは高いポテンシャルを感じさせるのにシナリオが短くてもったいないヒロインなので、短くてもこんな風に補ってもらえたのはありがたい。そしてシャチとの花見をこっそり楽しむという話もよかった。なんだかシャチの声が囁き声のような発声ばかりで、それが意図的な演出なのかどうかわからないけどとてもよかった。桜を背景にそんなシャチと向き合うと、自然とメッセージウインドウを消して立ち絵と声を鑑賞せざるを得なくなる。大きなモニタ万歳である。花見というよりはシャチ見になる。令和の宴会から1000年以上経って、こんなにささやかで美しい花見をひっそりと楽しめる時代に感謝だ。肝心の花見のシーンは5分くらいしかなくて、二人は風邪をひかないようにとすぐに帰るのだけど、そうした日常、またいつでも来れるから欲張らないという控えめな喜びが心地よい。シャチといつでも散歩できるなんて実際はとんでもない幸せなのだ。

ブログだけどダイアリー

 はてなダイアリーからはてなブログに移動したので、とりあえず何か書いておこう。たまには日記らしい日記でも。
 今日は久々に親に顔を見せ、外食をしてきた。あまり話し込むことはできなかったが、初めてロシア料理を食べさせてウォッカで乾杯することはできた。近くにある職場を見たいというので、鍵を開けて見せた。こんなことで多少でも孝行になるのならありがたい。
 この冬は週末はほとんど鍋なのだが、今日は生スケソウダラを入れようとしたら寄生虫だらけで妻が泣いてしまったので、なぐさめたりからかったり、ネットをみたりしているうちに夜になった。
 やらなければならないことは何一つ捗っていないけど、やった方がいいことはいくつかやった一日だった。
 平日は帰宅が24時くらいのことが多い。小さな生活だ。
 仕事で名前が売れるのが鬱陶しくなってきた。今年こそは仕事を減らして趣味の時間を少しは取り戻せるかな。このままでは脳のある回路が死んでしまいそうだ。でもこのブログの自分は死なない。ここは現前する文章の国だ。適当でもいいから続けていこう。

ボンジュール鈴木

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

 たまらず「やがて君になる」のOPを買ってしまい、ほどなくこのアルバムにも手を出してしまった。完全に「フィット」するわけではないことは分かっているはずだけど、僕はこういう買い方、すなわち何か曖昧な雰囲気みたいなもののにつかまってその幻影を求めてアルバムを買ってみてそれは幻影に過ぎなかったことに気づくような買い方ばかりしている。といってもあまり音楽は買わないほうだけど。
 思い返してみると、「ユリ熊嵐」のOPも耳に残っていたし、OPとEDがなかったら最後まで見ていなかったかもしれないくらいだったし、「くまみこ」のOPと「宇宙パトロールルル子」のEDも印象があった。だからアルバムにたどり着く前に手順は踏んでいたようだ。
 若い頃にジュディマリやチャラ(正確にはあいのうた1曲)にはまったが、好きだったのは声だった。歌詞とか美的センスとかはダメだった。嫌いというわけではないが、どう考えてもオタクの男が入り込んでよい世界ではないからだ。自分は存在してはならず、純粋な耳になるしかなかった。考えてみれば、それは百合の世界を干渉する男オタクと構図的には似ている。
 ボンジュール鈴木もこの系列になる。ある意味でさらに先に進んだようで喜ばしいのかもしれない。キラキラした伴奏の音色は閉塞感があってエモーショナルで、神聖かまってちゃんの音楽を女の子っぽく(実在しない空想上の女の子っぽく)して、しかもサビの部分は大半がかすれた裏声で歌っている(気がする)。技術的に歌唱力があるとかないとか、そういうことはどうでもよくなるような濃密な質感がある。ラップによる歌い出しが多いが、嫌いなラップでさえもこの声、このテーマならかなりすんなりと受け入れられることに気づいた。
 とはいえ歌詞はやはり「素面」で聴くのは難しそうだ。今朝、出勤前にアマゾンで買ってダウンロードし、通勤電車で聴いてみてが、いくらボンジュールといったって朝から聴くにはこってりしすぎている。以前に買ってしまってから何度も聴いている「ヨナカジカル」(「ステラのまほう」ED、これも百合的な雰囲気を持つ作品だ)と同じで、仕事が終わってから聴くべき歌、きわめてボンソワールな音楽だと思う。
 特に一番の目当てだった「あの森で待ってる」の歌詞は救いようがなく非実在的だ。例えば、「5番目のpupee "コレット"」のように丁寧に変態チックであれば、エロゲー的な世界観に近いので受け入れやすい:

毎週水曜日にハートマークして
ショーケースの中で ずっと待ってるよ
壊れちゃうまでいい子のふりしてあげるから
恥ずかしい言葉でも 何だって言うし なんだってやるよ

 ……というか、これは男オタクの存在が少し許されている世界か。それもまたありがたい。
 フランス語を使うクリエイターらしいが、突き抜けた「不適切さ」はフランス語やフランス的なセンス(?)を加えれば不思議と適切なところ(距離感)に収まるのかもしれない。ちなみに、歌のPVを観てしまう誘惑に抗うことはできなかったが、当然ながら観て後悔した。出来が悪いとか、ボンジュールさんの容姿がどうとか、そういう問題ではなく、そもそも実写の事物は映りこむべきではない成分で構成された歌なのだ。
 それにしてもきれいな音だな。好きな音を並べている。夢中で。夢の中で。こういう女の子的なナルシシズムはいいな。


 どんなふうに評価されているアーティストなのか知らずに書いた感想だったけど、音楽メディアでも似たような語彙で説明されているみたいで驚いた。個人的な発見のあったのでそれだけで十分だ。
http://veemob.jp/2015/11/30/boujoursuzukiinterview/
http://meetia.net/music/bonjour-suzuki-best/

滝本竜彦『ライト・ノベル』

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 まだ考えがまとまっていないというか、まとめる必要があるのかよく分からないので、書きながらどうするか決めよう。
 偉そうな物言いになってしまうが、歴史がない作品だ。スピリチュアル系の気配が濃厚だ。スピリチュアル系は文学外の絶対的な価値観を根底においているため、歴史と教養といった一般的な価値観、美と技術の積み重ねは二の次になり、しばしば一般的には稚拙で安っぽい技法も躊躇なく採用する。一般的な(という言い方が通用するのかという問いかけはひとまずおいておいて)読者は置いてきぼりにされ、何かを悟ったように語りは進み、終わる。
 そうなるとさすがに宗教小説のレベルなので違うが、本作にはそういう危うさがある。NHKにようこそ以来、読み物としての面白さはキャラクターの一貫性にも繊細な文体によっても保障されていたが、本作では(少なくとも一読した限りでは)複雑すぎるキャラクターの入れ子構造や、文学外に飛び出した図式的・数学的で無味乾燥で「下手くそ」な記述や言語感覚で、言葉の芸術としての作品はところどころ破綻している。「読者に光を届けるために精緻に作りこまれた小説」という説明は、評価軸によっては一瞬で崩れ去りそうだ。キャラクターたちが苦労してみつけたそれぞれの大切なものも、とても壊れやすいようにみえるが、わざわざ壊れる場面を描くのも無益なのでこれで正解なのだろうか。
 本作の元になった文章は滝本氏のサイトで以前公開されていた。NHKにようこそを出してからも道が定まらずいろいろ苦労していた中で、スピリチュアルに「はまって」いたと仄聞することもあったが、滝本氏のブログからはあっち側に軸足が移ってしまった感が出ていて勝手な失望感のようなものを抱いた。滝本氏は言葉の芸術家として技術を磨き、質の高い文学作品を生み出す、なんていう悠長なことをやっている余裕はなく、もっと即物的な救いを捜し求めた結果、「教養」を身につけまいまま、半分文学の外に飛び出してしまったわけだ。そしてそれはスリリングなことだ。
 本作では言葉では芸術として伝えられないことが描かれている。芸術として伝えられないから、「情報」として表示されている。めたとんの不思議な言葉や絵、主人公の母親が哲学に淫して辿った垂直的な宇宙遍歴、美沙のチラシ裏小説群。それらの凄みは言葉で表現され切っていない。確かに一部は美しい言葉で表現されているが、どこかで諦められている。この未充足感は、仮に優秀なクリエイターによってアニメ化されたり「メディアミックス」(このNHKにようこその時代を感じさせる言葉が無反省に出てくるところも遠近感がなくて面白い)されたとしても、きっと同じように満たされることはないだろう。それは欲望の残滓であり徴候だからだ。

 光は僕たちの体の細胞の隅々、心の部屋の隅々、その中にあるいくつもの物語の隅々に流れ込んでいった。

 こういわれたらそう受け止めるしかなく、それを表現する言葉の巧拙の問題は消えてしまう。作者による言葉の暴力といってもいいのかもしれないが、この作者はその暴力をひたすら読者に「光」や「温かさ」にようなものを伝達するために行使するのである。作者が修めたらしい催眠の技法と同じだ。光や温かさは外部からの入力による感覚の一種だが、内部器官の問題でもあるので確かに自分でも主観的に多少はコントロールできる。でも小説がそんなに功利的なものであってもいいのだろうか。本作に見られる混乱というか、散らかった感じは、滝本氏自身がその点についてまだ答えを出していない証拠のようにも思える。本当に悟ってしまったら文学作品はもはや不要になり、教義書で十分になってしまうかもしれないからだ。
 でも分からない。僕の頭はまだ濁っていて、きちんとこの作品を受け入れていないのかもしれない。これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない。この作品に対する誰かの解説や、さらには作者による解説は、果たして必要だろうか(僕は読みたいだろうか)。この作品を読んだ後に残るもの、得られるものはなんだろうか。大切なものの弱さと寂しさの感覚であり、その感覚が許される空間が存在しているということを知らされた安堵感なのかもしれない。弱いからこそ言葉や何かの温もりにすがりつき、小さな光を手にしたいという夢を抱くことができる。
 なんだかNHKへようこそやその他の滝本小説と似たような感想になってしまった気がするが(以前にサイトで公開されていたときの感想とか:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150802 )、同じ作者なのだから当然なのかもしれない。違うところを目指しても同じところに帰ってくる。それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。僕にとっても何か大切なものがあるところなのだろう。

もののあはれは彩の頃。 (60)

 時間は必ずしも線状のものではなく、分断された断片から断片へと飛躍したり、他の断片がオーバーラップしてきたり、どこかが引き伸ばされて高密度になっていたり、どこかが抜け落ちて希薄になっていたりする。そのことを実感するのは「思い出す」という行為を通じてであり、同時にその行為によって時間が線状であるべきであることも再認識させられる。
 双六はそのような時間の機構を露出させるシステムであり、価値としての時間はそれを認識し、統合する主体の問題に還元され、線状ではないので時間の断片を双六のシステムのせいにして好きなように並べ替えられる。本作は複雑なサイコロの盤面がある凝ったゲームのように見えるが、実際にはサイコロを振って運任せにストーリーが進むわけではないので(設定の調整を除けば)けっこうシンプルであり、それを複雑な物語のように見せているのはうまく感じた。時間の流れはどこかに終点を仮構するからこそ感じられる。本作では登場人物が死に飲み込まれようとしている人ばかりであり、賽の河原や反魂法の説話、サイコロという突然死を意識させる決まりもあり、「もののあはれ」の空気が常にどこかに漂っていたような気がする。秋は華やかな彩りが忍び寄る死の陰影を帯びる季節であり、京都という歴史の町は死者の空間であることを意識させる。
 ただし、みさきルートは双六/時間物要素が薄まって、Fateのような古典的な団結&異能バトル展開になってしまったのでやや興ざめだった(最終ルートはさらに大味でひどかった)。その中でも面白かったのは、大誠と縁の対峙のシーンで、ぽっちゃりしたサブキャラの大誠が縁の凶器でミンチにされながらも一瞬で復活するシーンが立ち絵と文章だけで何回も繰り返されながらも、大誠がまさかの本気の説教で縁を救ってしまうというシュールなマゾ展開がよかった(縁の渾身の「寄るなァッ」に切実感があった)。それはともかく、みさきは声がきれいなので話すのを聞いているのは心地よい。
 反対に一番よかったのは、琥珀との橋の上でのシーンだった。琥珀は少し目をそらすことが多いのだが(猫はまっすぐ見られると恐怖を覚える生き物だ)、ここではまっすぐこちらを見て、少しずつ静かに言葉を吐き出す。背景の夕暮れの橋と川と紅葉は、ひんやりと鮮やかに色づいているけれど、死の気配もにじませている。琥珀と何を話したのか覚えていないけど、言葉が揮発しても空気感や琥珀の吐息と声のトーンだけが記憶に残っている。一言ずつ噛み締めながらゆっくり話し、本人が意図しなくても寂しそうなトーンになってしまうのがよい。あえてたとえるなら、オーラがあったときの綾波レイのようだ。その声でエッチシーンというのは楽しいし癒される。とかく裏を読みがちなこの作品のキャラクターの中で、シンプルで大切なことしか話さないのが心地よかった。確認したら、声優の白雪碧さんという方はらぶおぶのイサミさんの人だった。琥珀シナリオは(クレアシナリオも同様だけど)、終わりの気配を漂わせながら双六をあがるのが印象的だったのかもしれない。
 ついでに、本作は涼しげな寂しさと幽玄の気配を湛えた音楽が結構よかった。フレーズが短くてすぐ繰り返しになってしまうので曲数が少ない印象になるのが残念だったが、のん気な日常ともバトル的なやかましさとも違う、秋の空気を感じさせる曲が多かった。双六によってシーンが断片化されていても、すんなりと空気感を作り出していた。こういうのは生演奏でも電子音楽でも変わらないし、むしろ電子音楽のほうが神秘的かもしれない。
 悪かったのはエッチ関連。ストーリーから切り離されていたので高まった末ではなく、平和になった日常で他にやることがないから告白してエッチという流れになったのはいただけない。本編での繊細なやりとりはなんだったのか。かといって本編では落ち着いてエッチもしてられなかっただろう。本編後に回すにしても、もう少し工夫するわけには行かなかったのか。
 ただし、そもそもエッチシーンというのは初回は別にしてもある程度物語から切り離されたコンディションで迎えざるを得ないことが多いので(一気にプレイする時間が取れなかったり、間隔が短かったりして日を改めなければならないことが多い)、ある意味で双六のコマのように前後から独立してしまっていて僕も感情の流れやキャラを忘れかけていることがある。だからエッチパートになってヒロインたちが急にエッチになってしまっても非難できないし、お互いに忘れてしまっているのでさっさとエッチに突入するというのは、現実的でそれなりに味わい深いことなのかもしれない。物語の興奮や感動は遠く置き去ってしまった。目の前のヒロインの自己同一性を保障するのは、その遠く離れ去ったものの影や名残を絵と声と音楽が伝えるからだ。エロゲーはそもそもそういうフラットなものであり、現前するヒロインのまなざしの中に「奥行き」を勝手に読み込むためのものであるはずだ。だからこのエッチシーンの構成は一つの形になっているのかもしれない。…「俺はただ黙々と、この可愛い尻を掴みながら陰茎をひたすらに抽送している。」
 不思議な場面があった。そういえば物語中でも、物部を引き摺り下ろした後のプレイヤーはどうなっているのか、僕たちは主人公たちに憎まれるべき存在なのではないのかということには触れずに流してしまっていたなあ(触れるとHAIN作品になるというのは一つの答えだろうけど)。


 「(私、きみ)は運がいい」というのはロシア語では「(私、きみ)に運んでいる(везет)」、過去形の「運がよかった」は「(私、きみ)に運んだ(повезло)」という。誰が何を運んだのかは明言されない。日本語でも「運」であり、本人が感知できない(あるいは言語化することが禁忌である)何かが何かを運んだ結果、幸せな結果が生じたということだ。たとえそれがいかに作為的であっても、人生にはそういう瞬間があるのだろう。それが大切な人を見つけるきっかけになれば幸せなことだ。

石川博品『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落" 〜Godspeed You! RAGNAROK the Midknights〜』

 久々に石川博品の傑作を読んだ!ネルリ以来だ!と思ったが、そういえば後宮楽園球場も四人制姉妹百合物帳も平家さんと兎の首事件もあたらしくうつくしいことばも傑作だったので、ネルリ以来ではなかった。いい小説をたくさん書く人だ。ビッとしている。
 しかしネルリ以来と思えるくらいにすばらしい小説だった。言葉に対する感度が高い作家だから、異世界物といってもファンタジーという異世界、暴走族という異世界、Jポップ風乙女という異世界、青春という異世界が多層的に重なり合って、美しい言葉の工芸細工のようになっていた。文体や表象だけでなく、カズパートとリコパートの間の絶妙なずれ、というか余白が時には滑稽で、時には切なく、惚れ惚れとする。
 パロディ文体の奇形的な進化はニンジャスレイヤーで限界に達したと思っていたが、石川センセの暴走族文体がまた別の到達点になった。中盤は少し中だるみしたように感じた瞬間もあったが(「俺また何かやっちゃいました?」的な展開がベタに出てきているように思われた)、見事な終盤でどうでもよくなった。リコのモノローグだけの部分で終わったということは、カズがどのように振舞い、何を考えていたのかは正確にはわからないし、わかる必要もないということだ。むしろ、カズは途中から「陰キャ」から神話的な暴走族へと変貌しているように思われる瞬間もあったりして、実はリコサイドが現実で、カズの目に移る世界がウソなのではないだろうかと思いがよぎったこともあった。「藪の中」の美しい応用であり、美しい真実は現実を侵食できるものだと思えた。男と女の世界観はこれほどまでにかけ離れているという比喩のようにも思われたが、これだけかけ離れているのにむしろすがすがしい。かけ離れているからこそすがすがしいのかもしれない。いずれにせよ、そう思わせる魔法のような作品だ。
 羅愚奈落や他のヤカラの皆さんの人物描写は浅かっただろうか。人間というよりは記号として描かれていただろうか。人間というよりは、異常な言葉を話す怪物だっただろうか。言葉は動物の鳴き声のように種類が少なくとも、動物の鳴き声のようにうそ偽りなく、全力で発せられる。そんなトロい人間性など暴走族には必要ない。速度の中で生きているのだ。後に残るのは美しい幻だけだ。

花色ヘプタグラム (70)

 温泉街や温泉旅行というものの意義を実感できたことは多分ないと思う。身体と精神の保養の場所ということは頭では分かっているのだが、子供の頃から温泉に何度かいったことがある体験に照らしてみると(特に夏休みに親の実家に帰省したとき)、あまり温泉で癒されたという体験がないからだと思う。癒されるためにはまずは疲弊しなければならないが、温泉に行くための疲弊はせいぜい車での長時間移動によるものであって、疲弊の質としては低級なものに属するし、子供にとってはその程度では疲弊にならない。学生の頃にサークルの合宿とかあったが、湯治場というよりは単なる民宿の風呂だったし、たかだか運動するだけなのにこれほど時間とカネを使うことに対する不満もあったので、正直あまり楽しくなかったように記憶している(一番の問題はまだオタクとして開花しておらず気のあう友人もいなかったことだろうが)。夏に家族で富士山に上り、帰りに山梨の温泉に寄っていったことがあるが、おそらくそれが一番温泉を楽しめる機会だったと思う。しかし、やっぱりちょっと寄っていく程度ではだめだし、家族なのでそれほど楽しくもなかった。そもそも温泉というもの自体が軟弱な感じがして好ましく思えないし、温泉どころか風呂も大して好きではなく、癒しというよりは汗と脂を洗い流してさっぱりする場所という認識なのでシャワーのほうが好きで、冬でも湯船に浸かるよりは長時間熱いシャワーを浴びるほうが好きでお湯を使いすぎだと家族に怒られたこともある。誰の得にもならないおっさんエロゲーマーの風呂情報を共有してしまい申し訳ない。
 温泉や風呂に何の価値も見出さないことは、ある種の男性的な価値観としては大して珍しくもないと思う。アニメやエロゲーに出てくる「温泉回」的な価値観は、温泉を尊ぶキャラクターにも、そのキャラクターを尊ぶ視聴者・読者にも本当の意味では共感できていないと思う。とはいえ、フィクションとしての温泉・風呂には自律的な価値体系もできようものだ。語り方の問題になるからだ。エヴァで風呂は命の洗濯をするところだとセリフを聞いたときにははっとしたし(当然、風呂シーンが単体として印象的に描かれていたというだけではなく、作品の文脈の中で印象的だったからだ)、霞外籠逗留記は(入浴のシーンはあまりないが)旅籠での逗留という文化抜きには語れない。とはいえ、いずれにしても温泉物は湯に浸かるという以外には積極的には何もないジャンルであり、受動的にならざるを得ない。何かを追い求めるような、ぎらぎらした精神性や渇望とは対極にあり、思考を減速してぬるま湯にほぐしていくしかない。それは怖いことのように思える。無用な比喩を用いるならば、ドストエフスキーの文章の代わりに日本の有象無象のだらしないグルメエッセイを無理やり頭に押し込まれるような恐怖。この点で、温泉や風呂は、個人的には食事と同じカテゴリーの事象といえる。以前にマルセルさんに「温泉に浸かっているうちに何でも解決してしまう話」として花色ヘプタグラムをお勧めしていただいたときも、そのような特徴にはあまり惹かれなかった。まあ、欠点が多いよりは何もないほうがまだましかな、という程度だ。マルセルさんはネタばれを避けるために敢えてセールスポイントを強調しなかっただけかもしれないし。というわけで、僕は大した期待もせず、主に絵がきれいだったからこの作品を買ってみた。音楽も温かみがあって不快でなかったのはありがたかった。
 前置きが長くなったが、本編として言いたいことはあまりない。
 この温泉という「何もなさ」、物語のなさをうまく昇華しているなと思えた瞬間がいくつかあった。ひとつは、明日香シナリオでクライマックスともいえるシーンが、一枚絵が出ずに背景画と簡単な説明だけで終わってしまったときだった。あれほど気にかけていた八華。結局、幻は幻であり、今の彼女と築いたこの現実の中では背景に過ぎない。でもそのシーンでは音も鳴り止んだようで、ある種の無を見るような静かな儀式になっていたのがよかった。明日香というヒロインの人柄にも、この作品の雰囲気にも合った処理だったと思う。いづきの暑中見舞いの葉書もそうだ。特にそれらしい一枚絵はなかく、劇的なことは何も起こらないが、とてもよいエピソードであり、それを二人が大切にしていたこともすばらしかった。それから玉美の誕生日のお祝い。主人公の手料理、子供の頃の思い出を再現した親の料理、友達からメール。ほとんどお金がかかっていない、大した手間もかからない思いつき。絵もない、劇的なことは何もない、だけどタイミングだけでこれほど人を喜ばすことができる。洗練された演出だ。玉美シナリオは最後もよかった。幸せな誕生日を過ごし、次の誕生日に二人で思いをはせる。二人で下校した夕方、なんとなく楽しい気持ちになって、子供の頃のように影踏みをする。影踏みのシーンはラストだったしが絵があったけど、こういう何もないふとした瞬間を最後に持ってくるところがよかった。ちなみに、反対に残念な一枚絵がひとつあった。一番最後の絵だ。主人公こっちみんな。
 この、一枚絵のなさというのは、予算的な事情の可能性を除くと、立ち絵の美しさでおつりがくるほどに補われている。作品名に合わせるならば、どのヒロインも特に表情が崩れていないときには花のように美しく華やいだ絵になっていて、ヒロインとお話していると同時に鑑賞しているという感覚がある。例えば、このへん:а, б, в。(逆に言うと、一枚絵のエッチシーンは立ち絵の延長という感じで、やや淡白で淫靡な吸引力が足りないように感じられる。それでも十分にエロいし、日常の延長というのも悪くはない)。玉美はやや地味だが、表情と声がすばらしいのでやはり優しい気持ちになる。誕生日祝いのときに玉美が目を潤ませ迫ってくるシーンは純粋でなんとも雰囲気がよかった。純粋といえば、いづきはシナリオ全体を通して三島由紀夫潮騒のようにストレートでシンプルで美しかった。丁寧語なのもすばらしかった。声も高めでややかすれていて、澤田なつさんのように少し吐息が入るのもよかった。ついでにいうと、声は他にも特に玉美とみゆりがよかった(しかし、明日香の人は感情を出す演技が上滑りしていていまいちだった)。みゆりに関しては、エッチをすると記憶が回復して大人の声になってしまうが、「子供」の頃のほうが可愛いし作中のすごす時間も長いという困ったことになっている。中間の時期もあり、それわそれでやがてうつろい過ぎていく可愛さがある。最後の一枚絵は不出来だが、最後から2番目の神社のみゆりの絵はすばらしく、シーンのさりげなさもよいのでここで終わってもよかった。
 まとめると(別にまとめる必要はないが)、特に温泉的な価値観に共感できるようになったわけじゃないし、御式村の住人にはなれないだろうなと思うけど、そこで咲く七華のように何もないものの上にこれだけ美しいものを作り上げられるのは不思議に思う。最後のみゆりの話で端的に言及されていたように、この御式村の不思議な美しさは維持されていたものであり、やがてヒロインたちは離散してただの温泉保養地になる。温泉はやっぱり背景であって、それ自体にファンタジーはない。それでも女の子を美しくする何かはあるようだ。年寄りくさい物言いになるが、年をとると生み出すことだけでなく生み出しながら守ること、維持することにも気を使わなければならなくなり、分かりやすく生み出す機会が減る。保養の価値観は維持の価値観であり、女の子の美しさも実は維持されている部分があるが、男はそのことに気づかない。エロゲーの女の子は化粧などしないし、基本的に美容に気を遣わない。それはありえない花の美しさであり、そんな花の世話をしているいづき自身の美しさだ。そこに温泉のファンタジーがあるのだろう。

昔のアニメ

 最近、放送20周年だとかでserial experiments lainの話題をみて、久々に見返してみた。観たのは3回目くらいか。最初に観たのはエロゲーを始める前の頃、エヴァンゲリオンで受けた衝撃というか傷を再び受けたくて安倍吉俊氏関連の作品を漁っていた頃、海賊版だか海外版だかよく分からないアニメのDVDをヤフオクで買っていた頃だ。今回は初めて話が割りとすっきりと飲み込めた。ネットワーク用語に関する知識がようやくアニメに追いついたからだと思う。そうしてみると、説明的なせりふを最小限に省き、言葉よりも目や顔のアップや風景などのイメージに語らせようという姿勢が強いのがよくわかり、ずいぶんとよく練って作っていたのだなと思った。インフラの変容が社会の変容につながる物語。唐突に思えた一つ一つのイメージもずいぶんと論理的で雄弁であるように思えた。神話としてのlainと一人の小さな女の子としての玲音はきれいに統合されることはなく、玲音自身の不可避の選択によってほとんどlainのみが残る結末だが、そういう残酷な終わり方にこそ惹かれてしまう。どうにもならないすれ違いだ。今のネットワークはたとえ飛び交う情報は不透明だとしても生態系としてはずいぶんとクリアになってしまったように思えるが、そんな環境でlainという神話が必要とされるかはよく分からず、だからこそ空気のように透明になったlainの痕跡を時折思い出したくなる。
 2週間後、時間が取れたのでついでに灰羽連盟も見返してしまった。こっちは割りと昔見たときの印象に近かった。

幻月のパンドオラ (60)

 こころリスタとこころナビは大変楽しませてもらったが、こちらはいまいちだったかな。この2作にとっての電脳世界に比べると、本作でのゲーム世界はあまり魅力的に感じなかった。個人的にそれほど豊かなゲーム体験を持っているわけではなく、アクションゲームは好きではないので仕方ないか。エロゲー以外で思い入れのあるゲームといえばドラクエ3ファイファン3くらいだが、RPGは本作にはあまり関係なかった。どんなことでも楽しめる精神をウニ先輩は説くが、そこまではちょっとついていけなかったっす。そういうことも含めて、ウニ先輩のまっすぐな若さはよかったけど、口癖とCVがいまいちだった。真切役の成瀬未亜さんはさすがで、安心して聞いていられた。魅力的な女の子として描かれていたし、絵も大変きれいでした。特にベランダに座っている一枚はいいですね。
 最後に途中まで撮っていたスクリーンショットでも貼っておくか。а, б, в.
 次は姫さま凛々しく。他のもやりつつのんびり進めていきます。

森薫『乙嫁語り』10巻

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。
 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。
 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。
 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い。
 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴル・トルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりとショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域は工芸のメッカでもあり、絨毯、刺繍、陶器、はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏な外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。