澁澤龍彦『ねむり姫』

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫


 先日、今更ながら積読していた『異端の肖像』を読んで、ブックオフで買っておいたもの。あとは『高丘親王航海記』が買ってある。
 澁澤龍彦の作品で最初に読んだのは、大学生の頃に読んだサド『悪徳の栄え』だったと思う。そのあとに『ソドムの百二十日』と『新ジュスティーヌ』も読んだが、当時の自分には書いてあることは実感としてはわからず、ただ文章から立ち上る淫臭(興奮した若い童貞オタクの体臭だったかも…)にくらくらしながらページを繰っていただけで、内容はよく理解できていなかった。三作の違いもよく分からなかった。エロゲーと出会う前のことであり、ひょっとしたらAVとも出会う前だったかもしれない。なんだかすごくエッチなものを見つけてしまったと興奮したのかもしれないが、周知のとおりサドの小説はエッチといっていいのかわからない代物だ。時代的にはロマン主義にかかっていたはずだが、恋愛や純情よりも快楽と肉欲を賛美し、人間とその精神を徹底して即物的に扱うことで精神の勝利のようなものをパフォーマティブに行うサドの創作活動は自分にとっては異質すぎた。
 それからしばらくして、やはり大学生の頃に『さかしま』を読んでいたく気に入った。世紀末芸術に一番はまっていたころだ。たぶん読みやすい澁澤訳だからはまったのだと思う。
 それから他にも何か読んだかもしれないが、20年くらいして今更『異端の肖像』を読んだのだった。取り上げられた登場人物はすでにどこかで聞いたことがある人ばかりだったが、語り口と語りの深度や文体がよかった。そして評論だけでなく創作も読んでみる気になりブックオフに行ったら、おあつらえ向きに近代以前の日本が舞台の作品があったのだった。象徴主義時代の作家や詩人がエキゾチズムを求めて古代や中世、異文明を好んで扱ったように、澁澤龍彦なら日本の中世や近世をよい意味でのスタイリゼーション(様式化、文体模倣)のネタに使うだろうと期待できた。折口信夫の『死者の書』とかそういうの。
 そして期待通りの粒ぞろいの短編集だった。前近代を扱うということは、近代的な価値観を無視してよいということで、これだけ男と女の愛の幻想譚を題材として扱いながらも、その愛は近代的な愛ではなく、あるいは近代文学的な描かれ方をする愛ではない。主人公とヒロインの恋愛や性愛が長々と盛り立てられてハッピーエンドを迎えるかどうかが焦点にならざるを得ないという点でワンパターンなエロゲー的価値観に慣れきってしまった自分としては、前近代の意識に通じる澁澤龍彦即物的で乾いた筆運びは新鮮だ。古い言葉や雅な言葉と軽いエッセイの言葉がまざった読みやすい文章もいい。男も女も割とあっけなく死んでしまうが、別にそれは暑苦しい悲劇ではない。物語の山場となる幻想的で官能的な場面が美しい言葉で語られてしまえば、あとは登場人物にどうハッピーエンドを与えるかではなく、登場人物をどう退場させるのかという語りの技法の問題になってくる。それはこれが短編集だからなのかもしれないけど。
 等身大の恋愛もたまにはいいけど、やっぱり非日常の彼方へと連れ去ってくれる幻想的な恋愛をみてみたい。その不可能性を情念的に湿っぽく描けばロマン主義文学になるけど、前近代的な道具を使ってさらりとした語りの工芸細工に仕上げると、「個人の内面」みたいなものに下品に肉薄はできない代わりに、語られなかったあれこれをぼんやりと想像して美しい絵を鑑賞するように楽しむことができる。近代人が前近代を描くときには、語ることと語らないことは文学的(あるいは文学外的)制約により選択する(正確には、選択の余地なく決まっている)のではなく、芸術作品としての効果や美意識に基づいて仕掛けられたものなので、実際には作者と読者の間のゲームとして回収されてしまうことが多いのだろうけど、それでもどこかここではない彼方を垣間見せてくれるのが幻想文学であり、その加減がここちよい短編集だった。表題作で最初に置かれている「ねむり姫」が一番ヒロインを美しく描いていてよかった。最後に置かている「きらら姫」ではヒロインはまったく登場せず、エピローグで「そんなおっかない女なんかに会わなくってよかったなガハハ」「ガハハ」みたいな落語のような落ちで終わっており、それまでの作品のような美しい姫様の登場に期待しているとアンチクライマックスで一本取られてしまうのだが、幻想をそうやって奥まったところに大事にしまっておくような手法に面白さも感じた。

花咲くオトメのための嬉遊曲 (75)

 セーブデータを見ると震災直前の2011年2月に手をつけて止まっていた。8年前だ。
 春にアニメのハチナイをみて、ゲームを始めて、ようやくこれを思い出した。当然だが、ハチナイよりも野球描写やそもそものモードというか心構えの部分が濃くて、その意味では読んでいて楽しめた。ほとんど野球の描写しかなく、いわゆる日常シーンはすべて野球をしているか野球の話をしている場面ばかり。そもそも日常シーンなんて意味のない概念だけど。
 野球を描くということは、これまでもにいろんな作品で無限に近いほど行われてきただろうけど、たぶん一般的なのは野球の個々のプレイを再演し、熱量を込めて体験しなおすことだろう。この作品はそうしたある意味でだらしのない野球作品ではなく、個々のプレイを記号として支配しているような描き方だ。思ったように体は動く。意思が体を制御し、意思が体に先行している。相当に練習を積めばそういう境地に至ることもあるのかもしれないし、この作品の世界では練習ですらもそういう感じだから、ここを上達させたいと思った時点でほぼ達成されている。だから野球はデータと思考を駆使する将棋のようなスポーツになっていて(実際にそういうところもあるスポーツなのかもしれない)、個々のプレイは心理の読み合いであり、なんだかよくわからない気合とかでどうにかなったりはしない。あるいは、試合の中でそのように見える瞬間だけが意図的に拾われて描写されている。それだけでも劇的になるくらいには野球には無限に近い選択肢があるので、描写はいくら理知的になろうとしてもなりすぎることはない。みんなが自分をコントロールしているように見えるけど、それは見えるだけで、実際にはどう転ぶかは誰もわかっていない。
 そういう描き方だからこその主人公の造形なのだろう。交通事故で野球をできなくなったという意味で去勢されているが、言葉によって自分や世界を制御しきれているので、自分の障害を冗談のネタにできるし、女の子に対して擦れた物言いをするし、エッチシーンではおっさんみたいに下品にヒロインを攻め立てる。すべての男はエッチの際にはおっさんになるとうそぶき、自分は純粋ではないと自虐しつつ。露悪的で結構不快なところがある主人公なのだが、自分からは語らないけどやっぱり若者らしいギラギラしたところがあるのも言動の端々からうかがえるようになっている。
 僕は野球をやるのではなく、見ている。選手であるヒロインたちは見られている。見られているのは彼女たちの心理や感情であるのと同時に、野球をやっている身体だ。その身体はすがすがしいほどに女性的な色気とは関係なく、野球をやるための筋肉として描かれているし、ヒロインたち自身も野球をやるための身体を作り上げていくことに最大の喜びを見出しているらしいという恐ろしい環境であり、絵もそういうごつい女の子を素直にごつく描いて恐ろしいのだが、そういう動くためにある身体が動いて喜んでいるのを見ると(スポ根的に苦しんでいるのではなく、ギリシャ的というかソビエト的に喜んでいる。実際、絵柄はデイネカの絵のように社会主義リアリズム的な働く女性の身体を強調している)、こちらもその充実感に感染する部分がある。そして、おっぱいがある(なぜか母乳も出るが、これも充実感が充実しすぎているからだろうか)。そう考えると、野球という進行の遅いスポーツは、身体をゆっくりと、舐めるように鑑賞するのに適した芸術であることを意識せざるを得ない。おっさんたちがやっているプロ野球をおっさんたちが観るのが好きなのは、不健全であると言わざるを得ない。本当はプロ野球は美少女がやるべきなのだが(『後宮楽園球場』でも実証されている)、おっさんたちはそこに底なしの美の深淵があることを無意識に理解して恐れているので、おっさんたちを見ることで踏みとどまっている。あるいは、古代ギリシャ人のように男の動く身体の方が女の身体よりも美しいと思っているのかもしれないが、僕はそういう話はしたくない。プロ野球よりも女子高校野球の方がある種のレベルは高いのだ。
 ヒロインたちの身体は、口よりも雄弁だ。紅葉の心は小学生の頃のまま、野球をする主人公の姿にとらわれて惚れ込んでおり、主人公の不快な性格など見えていないが、彼女の身体の方はもう完成されている。そのギャップは青春の一時期ものであって、やがて心の方も成長だか成熟だか老化だかしてしまうのだろうけど、そんな未来のことなど想像もできないまま彼女は現在の中にある。
 身体に目を奪われているということは、記憶の中ではなく、現在という瞬間の中に意識を固定し続け、目の前の現在を生き続けていることのように思える。でも、彼女たちの若くて美しい身体はこのときのだけのものであり、彼女たちはその現在を惜しげもなく野球に捧げているし、主人公が野球をする彼女たちといられる時間も人生の中のほんのひと時に過ぎない。エピローグはどれも、ヒロインとは完全に溶け合って一つになることはなく、肩を並べたり背中を合わせたりしながら、燃焼していく現在をかみしめているものばかりで、幕切れの文章がうまいので読後感がよいものばかりだ。バッドエンドもそういう時間に対する賛歌のようなものになっていて素晴らしい。この作品で一番印象的な絵は、女の子たちが打ったり投げたりしている絵や立ち絵を除けば(この辺とか明らかにエロゲーの絵の文法と違っていて見入ってしまう)、バッドエンドの寝そべって肌を焼きながら心の中を覗き込むような目でこちらを見上げている紅葉(と紅葉のおっぱい)の絵だ。15年前に発売された作品を8年ぶりにプレイした。この作品の中の現在はとっくに流れ去っており、僕はもはや週末でさえもめったに体を動かさなくなってしまった中年のおっさんだ。そんな自分を遠い過去からこんなふうに見つめてくる彼女のまなざしに心がざわめく。おいていかないでと言っているようだが、おいていかれようとしているのはこちらだと思い知らされるからだ。

マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』『パラークシの記憶』

 ブックオフで何かの小説を探していて偶然手に取って買った。訳者解説が熱が入っていたからかもしれないし(SFの解説はそういうのが多い)、表紙のイラストがよかったからかもしれない。特に『ハローサマー、グッドバイ』の方はヒロインのブラウンアイズが可愛いし、青い色もきれいだ。 

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)


 ハローサマーの方はサリンジャーの小説に出来るようなアウトサイダーな感じの少年の初恋を描いた恋愛SFで、少年の苛立ちとかときめきとか、田舎の港町の夏休みの雰囲気がよかった。少年はある種のエリート市民だし、ヒロインは庶民(居酒屋の看板娘)だし、現代のオタクとしてはリボンが救われなかったこと、ハーレムを維持できなかったことは看過できないし、そうはいってもなんだかテンプレ的なツンデレ表現が古いイギリス作家の小説から出てきてしまったことにやや困惑したし(訳者の文体が軽いことにも原因はある。確かイーガンも訳している有名な人だと思うが、訳文は文字の美しさやリズム感もいまいちだった)、できすぎたようなボーイ・ミーツ・ガールがちょっと軽いと言えないことはないけど、ハッピーエンドの瞬間をぎりぎりまで引き延ばしたのはよかったと思う。きっと作者はその後の話を書き継ぐこともできたのだろうけど、小説としての完成度のためにはあそこで終わっておくのがよかった。 

パラークシの記憶 (河出文庫)

パラークシの記憶 (河出文庫)


 次のパラークシの方は、1990年代に書かれた続編だそうだ。舞台設定は見た目こそ19世紀の地方をモデルにしたという前作から中世くらいに後退してファンタジーに近づいたけど、実際にはインターネット時代の情報処理と倫理を感じさせるものになていて、語り手もサリンジャー的少年からより後の時代の無個性で安定感のある少年探偵みたいになっていた気がする。前作のリボンと比較するなら、ファウンにもっと三角関係的な意味で頑張ってほしかったが、なんか妙に積極的に性描写があったりするという意味でも結構世俗的な作家だなと思った。
 SF設定の一つに過ぎないので単なる仮定の話しかできないが、先祖の記憶を完全に引き継ぎ、再生するように生きなおすことができるというのが面白かった。確かに社会の進歩を止めたり、近親相姦と表裏一体の性欲の喪失(動物レベルまでの後退)が起きてしまったりするけど、嘘をつく意味が消滅し、子孫に見られているという感覚から倫理観が強化され、なによりも人生の素晴らしい瞬間を最高の再現度で何度も反芻できるという嬉しい能力だ。本を読むこと、エロゲーを楽しむことにも通じる、瞬間と継続、反復と固有性の問題系だ。恋人との最高の瞬間、恋人の最高に魅力的な表情を、記憶の中で完全に呼び出せる喜びを地球人である読者に語りかける主人公が素直にうらやましい。
 前作で我慢していたご都合主義的なストーリーテリングは、今回は結構節操ないハッピーエンドになってしまったが、こんなふうな現代的な感性の作品なので仕方ないと納得することもできる。しかし、こういう箱庭的な創世神話を上演する作者はそれに満足するのだろうか、上演を魅せられた読者は満足すればいいのだろうか、という問題は残る。『アバタールチューナー』ではそこらへんは劇的なアクション展開と感情の振れ幅の大きさで押し切っていたような気がする(あまり覚えていないが)。コーニイ作品では恋愛物語としての情感と上記の記憶の魔法の魅力だろうか。

薬屋のひとりごと

 田中ロミオのシミルボンで紹介されていたのがきっかけで、「薬屋のひとりごと」お盆の前から読み続けてようやく最新話まで来た。長編のなろう小説を読むのは「幻想再帰のアリュージョニスト」(途中で読み止し、いつか再開したい)以来だ。
 「後宮楽園球場」もそうだったけど、後宮小説というジャンルの心地よさが素晴らしい。ファンタジー小説みたいなものかな。「Dragon Buster」のような中華ファンタジーの心地よさもあるのかもしれない。とうの昔に陳腐化してしまった西洋風ハイファンタジーとは違って、新鮮な感じがする。合戦とかRPG的な王国政治とかの代わりに、後宮若い女官たちの日常生活という小さな世界を細密画的に描き込んでいくのがよい。ロミオ氏も書いている通り、女官たちの日常というそれだけで華があるので、強いて大恋愛を劇的に描きたてる必要もなく、オタク的ファンサービスを過剰に入れる必要もなく、薬学をはじめとする中世の博物学的なネタのミステリーと女官たちの悲喜こもごもを描いていくだけで心地よい絵になる。といっても、楼蘭妃編の劇的で目まぐるしい展開と妃の運命が一番印象的だったかもしれない。子翠と猫猫がわずかな時間しか一緒に過ごせなかったのがさみしい。もっと温かいエピソードも堪能したかった。
 最初の後宮編が終わると砕けたネットスラングや現代ネタも交じり込むようになり、キャラクター描写にもラノベ的テンプレが入ってきたりしてちょっと残念に感じる部分もある。コミカライズもされているそうで、キャラクターデザインをちょっと見た感じはそんなにおかしくはないようだが、やっぱりこの小説はイラストなしか、あるいはキャラクターイラストなしで読んだほうが想像が膨らんで楽しめるような気がする。マンガ的キャラデザをみるとそれにイメージが引っ張られてしまう。例えば壬氏は作中であれだけ常人離れした美貌だとされていながら、マンガだと普通の美形キャラになってしまうだろう。猫猫の冷めた表情にしてもマンガやイラストではあまり見たくない気がする。といっても、雀くらいキャラクターとしてデフォルメされてしまうと(ほとんど化物語シリーズを読んでいる感覚)、もはや正しくライトノベル的にキャラクターを楽しむ読み方をするしかなくなってしまう(雀は好きなキャラの一人だ)。なんだかんだいって女官たちが華でいられる時間はそう長くはなく、だらだらといつまでも書き続けてほしいシリーズである一方で常に時間の流れの無常さの影を感じられるのが素晴らしい。これこそがファンタジー時空の醍醐味だ。
 こういう小説をたくさん読んでいれば僕も少しは王朝女流文学とか好きになれていただろうか。

エヴァとハチナイ

エヴァQ
 エヴァンゲリオン新劇場版Q(2012年)を観た。
 あまり評判は良くなかった気がしていたが、観てみたら結構よくて、中だるみも感じず最後まで見入ってしまった。エヴァの世界で何か新しいことをやろうとしても、たとえそれが公式のものであったとしても、すべてが二次創作のように見えてしまう環境の中で、今までのエヴァを裏切らないものを作ろうとすればこうなるかもしれないと納得できるものだった。かつてのような圧倒感を体験することはもはやなかったけど、それも含めての続編ということだと思う。結局、エヴァは単にストーリーで語られている出来事の連なりとしての物語なのではなく、それを作ったことや観たことも含めての作品という祝福された創作物だ。
 印象に残ったのは、陰鬱や廃墟や暗い巨大構造物(ロボットや選管も含めて)の物量感だ。エヴァが世に出てからの年月、僕がエヴァを初めて観てからの年月、いつの間にかここまで大量にグロテスクなものが堆積し、撒き散らかされてしまったかという感慨だ。旧劇場版でも巨大な綾波の残骸のようなグロテスクなものは描かれたし、テレビ版の頃から内臓をぶちまけたオタクのような痛ましさはあったわけだが、今回はそれが造形美的なインパクトを失って時間がたち、薄暗さが皮膚感覚になってしまったような世界になっていて、まったく居心地は良さそうではないのだけど、これなんだよなと安らげそうなものを感じた。夢の中の感覚に近いのかもしれない。レイがいないことで悪夢のようになった世界なのかもしれないけど。
 登場人物たちもみんなどこか疲れたみたいで、シンジに説明するのも億劫で(チョーカーのボタンを押せなかったミサトを好意的に解釈すれば、シンジをこれ以上巻き込まないためにみんながわざと彼と距離を置いているのかもしれないが)、誰も元気に笑ったり和んだりする気力がない。(マリを除けば)元気があるのはアスカだけだ。この作品にはシリーズを通していろいろとモチーフの反復や対称があって面白いが、最後のアスカがシンジの手を引っ張って歩いていくというモチーフには、破でレイを引っ張り出したシンジや、旧劇場版の最後で手を触れることなく気持ち悪いと言うしなかったアスカと対比したくなる良さがあった。映画の古典的な手法だろうが、最後に遠くに歩いて行って小さくなっていく終わり方もよかった。

八月のシンデレラナイン
 アニメがあまりによかったので(ひいきにしている野球チームが今期はいいとこなしなのでフィクションは一層爽快に感じられる)、ついに初めてソシャゲーに手を出してしまった。といっても何がソーシャルなのかよくわからず(まとめブログ「ハチナイ速報」を楽しめることだろうか)、ひたすらいろんなパラメータを理解して数字の最適化を目指すパズルのような作業を続けるだけで、それで週末の時間の大半がつぶれて生活に支障が出るのだけど、そんな無意味な作業をやりながら高速で明滅するヒロインたちの絵や声(大半は単純な反復)の流れに身を浸していると、これは東方シリーズにおける弾幕と同じようなものだと思えてくる。大量の数字に身を浸し、明滅する花火を眺めている。ある種のデータ浴のようなセラピーなのだろう(作品のコンセプトである「青春・女子高生・高校野球」のよさや各キャラの可愛さを堪能した上で)。長時間やっていると逆に疲れるが。ちなみに現在の僕のチームは評点が約1万5000、キャプテンは宇喜多茜、ピッチャーは岩城良美、最強に育てたいのは野崎夕姫。無課金でどこまで飽きずに続けられるかはわからないけど。

ウィザーズコンプレックス (75)

 マルセルさんのおすすめや討論会のおかげで結構事前の期待値が高まってしまったけど、やはりアイリスと学園長の関連が一番面白かったかな。といっても、先達の言葉に飲み込まれないようにと意識したせいで、かえって少し限定された読み方になってしまったかもしれない。他にはamaginoboruさんの整理の仕方が参考になった。

〇学園長と作品の枠組み
 学園は教育施設なのだけど、基本的には放任主義だ。学園長はパッシブな教育者であり、大枠を定めただけで、あとは学生たちが勝手に何かを学んだり得たりするのを待っているだけだ。学園は教育を受ける場ではなく、疑似的な社会であり、そこで多少無茶なことをしても物事を解決できるという陽性体験を与えることが、事後的に教育となる。大戦制度が学生に悪い影響を与えたとしてもそこから何かを学んでもらえれば結構だし、大戦で死者が出るような惨事が起きたとしても(生き残った学生たちが)そこから何かを学んでもらえれば結構、今度は自分がその罪を背負って生きていくだけだ、とまでは考えていないかもしれないけど、多分惨事が起きることは想定していないし、これはハッピーエンドを約束されたエロゲーなので実際に起きない。反対にすべてが安全地帯で健全な教育的配慮の下で行われるのは生ぬるいし、少しばかり傷ついても人はその傷を抱えて生きていくべき、というイデオロギーを背負わされたのが学園長だ。
 アイリスルートの終盤でやや唐突に挿入される過剰な母子の感動シーン。ここでは学園長は母親的なものイデオロギーを背負わされて人格が消えているようで、ストーリーラインを突き抜けた不気味なぬくもりと化している。だからこそ、5戦目で授業をさぼらせるルールのゲームを設定して教育者としてはタガが外れた行為を行い、自分も大戦に参加して楽しみ、批判もされ、あわよくば罰せられたいというはた迷惑な願望を抱いたのではないかと想像したくなるような余白がある。大戦制度について「仕組みが悪いんじゃない。使い方が悪いだけ」というアイリスは、学園長を代弁しているようにも弁護しているようにも思えた。そしてそんな風に弁護されてしまう学園長の残念さがよい。学園長本人はそこまでは考えていないかもしれないし、考えていたとしても一連の流れに抵抗せず、受動的なキャラクターであり続けているところにアイリスと同じ宿命が感じられて、ときどきアイリスが学園長と似た表情をするのをみて、それがエッチシーンにもあったりするとますますほっこりした。
 エロゲーではプレイヤーはクリックしていくことしかできないのだから(あとはエッチシーンで主人公と同時に達することくらいか)、勧善懲悪の隙のないこじんまりした作り話を見せられてもちょっとむなしい。欲望は割れ目や隙間に惹きつけられる。アイリスをはじめとするこの作品のキャラクターたちのように、どこかに不連続なものや暴力的なものを感じさせる日常に浸されながら生きていくのがちょっと現実的でいいような気がする(この辺の感覚は作中ではシャリーにもあった)。作品外も含めたコンプレックス、複合体としての作品だ。

〇アイリスと自他の境界
 作品との距離がそんなだとヒロインを好きになったり信じたりすることは難しくなるのかもしれないけど、そこはオタクなので絵や声を媒介に都合よく処理できたりする。というわけで、一度共感してしまうとよっぽどのことがないとアイリスを嫌いになることはないし、そのよっぽどのことは起こらなかった。言動があまりに幼かったりしても基本的には温かく見守るだけだ。そんなセリフは聞き流せばよいのだし、それは僕だって成長しなくてもよいのだということを保証してくれるあそびの部分だと考えてもいい。
 アイリスのどうしようもなさはアイリスの可愛さで中和され、さらには昇華されるので、別にアイリスが好きだという散歩をするのを眺めているだけでも心地よい(部屋の中を立ち絵がシュールに水平移動するのが素晴らしい)。アイリスは歩いていると何も考えないでいられるので散歩が好きだというが、こうしたプチ体育会系快楽主義はトルストイが農業に精を出したのと同じだ(性欲魔人だったトルストイに例えるのはアイリスに失礼か)。月光浴が好きだというのにも、そうしたひんやりとした小さな快楽主義が感じられる(こんな書き方をしてしまっても絵を見ればアイリスのきれいな感情が伝わる)。アイリスの魔法属性は光。浄化するもの、消失するものとしての光は、破滅と浄化を望みながらも空虚であるアイリスによく似合っており、僕の汚い欲望や同一化のまなざしもきれいに吸い込んでくれる。ママ……。
 アイリスが告白したシーンはきれいな流れだったと記憶している。いつものぐずぐずとしたためらいがなくて、「好きです」から始まって思い切りよくどんどん踏み込んできて驚いた。字面を見てもエロゲーとしては標準的な告白のセリフなのかもしれないけど、あのアイリスが言葉を詰まらせずに「私に頼っていいよ」と言い切ったり、「その言葉、信じていい?」と聞いてくるのはじわりとくるものがあった。
 アイリスルートの、主人公が実は異邦人で外国人的な立場にあるという指摘にどれだけ意味があったのかはわからないけど、仮に他のルートではそんなことには気づかなかったとしても、いろいろと不安定なこのルートでそのことに気づいたのは適切なのかもしれない。このルートでは主人公は一番ヒロインに似て声が小さく(主人公なのだからある意味で当然だが)、似た者同士だったと思う。主体性が発揮されたのはアイリスに寄り添うという行動のときのみだ。アイリスにとっては必要なのはあからさまな他者(王子様)ではなく、自分によく似た他者であり、自分の一部として自己愛に近い感情で愛せ、しかも頼れる人だ。
 そんなわけでアイリスは最終的には少し調子に乗りすぎて失敗するくらいが可愛い。ほのかとの一騎打ちの最後の一手とか、最後の閉会式で唐突にお付き合いしてますと発表するところとか微笑ましたかった。ちなみに、閉会式でアイリスとほのかがようやく念願を果たすシーンでは、二人の特徴的な立ち絵が使われていて、アンドレイ・ルブリョフの三位一体の天使たちのイコンによく似ている。ここにはいないもう一人の天使は学園長の立ち絵がしっくりきそうな気がするがやめておこう。あと、一言付け加えるなら、「おっぱいが大きくて元気な私」は実はアイリスのもう一つの姿だ(謙遜しているだけで相当大きくてよい)。

〇ほのかと女の子の概念
 ほのかはキャラクターとしてはどちらかといえば苦手だった。アイリスの言葉を借りて言うとこんがらかるかもしれないけど、「恵まれている」女の子過ぎて、ついていける自信がなくなるからだ。ちょいフランス語とか、序盤でなんかよくわからない皿とか紅茶の葉っぱの話が出てきて、こりゃだめかもと思った。「女の子っぽい」にも僕にとってよい「女の子っぽい」とよくない「女の子っぽい」があって、我ながら自分勝手だが、ほのかと恋人同士になったとしても、竜胆家のご両親(上品で朗らか)ともお近づきになるのは大変だし、自分のいろいろなところを否定していかないとだめなのだろうなと思われる。「王子様」になるには歳を取りすぎたかも。ほのか自身には何の罪もないし、むしろ一葉がいなかったらいろいろとあらぬ誤解を受けて人生苦労しそうな人ではある。
 そんなほのかだが、告白からエッチまでが速攻すぎてやや面食らい、楽しくなった。そしてエッチシーンでは永遠に続くかと思われるような長い喘ぎ声。いや~、エッチなヒロインはいいですね。こんな感じで運命の相手と出会ってそのまま幸せを突っ走るというのもいいのかもしれないが、ほのかという女の子を魅せる展開というよりは、学園の制度を改革する話が多くてほのかの印象は薄くなった。印象に残った、というか笑ってしまったのは、アイリスとの戦いの美少女サンドイッチだ。その前にシャリーが魔力をすべて主人公に吸い取られて降参するというのもちょっとエッチだったが、このサンドイッチでなんだか苦しんでいるらしい主人公が楽しそうで、かなりかっこ悪くてよかった。エピローグで申し訳程度にコンプレックス要素(「大戦システムというコンプレックスを解消」)が出てきたこともよかった。

〇一葉と愛の構文
 一葉のセリフは、同じくらいの長さの文が多くて、あまり緩急がない。「~だけど、でも~ね」といった2つのブロックがセットになっている印象で、主語が長いことが多い。日本語は主語が長いと重たく感じる。一葉の言葉はそうした自制の言葉であり、語彙も硬い。偶然にも本作のヒロインと名前が同じノラとと2のアイリス・ディセンバー・アンクライの声優さんだが、アイリスは元気でコミカルで声の幅が広いヒロインだったのであまり気にならなかったが、一葉は割とモノトーンなサムライガールなのでちょっと重苦しい印象がある(ちなみにノラととのパトリシアの声優さんがこちらのアイリスになっていたせいで、アイリスの深刻なセリフにもどこか愛嬌が感じられてしまったかもしれない)。そのことは本人も自覚があったのかもしれない。一葉は愛の言葉を囁けない。主語が長い構文は向いていない。でも囁きたい。他の言い方ができないけど、でも言っておきたい、という気持ちがせめぎあっている言葉であり、発声のように聞こえる。
 だからこそ、エッチシーンでは窮屈な一葉が窮屈で甘美な言葉の直後に開放的すぎるポーズをとってしまっていて微笑ましい。特に唐突感のある最後のエッチシーンの構図は、エロゲーとしてはそれほど珍しいものではないが、一葉という女の子を考えると濃密な秘教空間というか、一対一に包み込む幸せな空間であって、剣士・一葉の達人の間合いを堪能できるのであった。あと最後の海の絵も可愛かった。
 話が前後してしまったが、一葉の物語は、ほのかへの依存の話だった。「ほのかの隣にいること以外は何もする余裕がない」という自分への言い訳。そんな息苦しさを抱えながらもまっすぐな彼女が、お守りとかぬいぐるみとか、小物に自分の気持ちを託そうとする弱さをみせるのがよい意味で女の子らしかった。こんな子と素直に甘えあっていくことこそが幸せってもんだろうな。

〇鳴とキャラクターのサイズ
 キャラクターとしての完成度が高すぎてコメントをつけるのが難しい。セリフの引用を羅列しておいた方がましかもしれない。「女子としてそいつはだめだ!」「は~、やっぱあいつはダメだな。ここは、あたしがちゃんと恋愛について教育してやらないと……」「いやもう、背伸びすんのはむりだとつくづく思ったね」「ははは……とたんにキャラが男っぽくなったな。すっげぇリードされてる感じがする」「性的な目で見られるの、嫌いじゃない。エッチな目で視姦されたら、報われるって感じるんだ……」
 こういったことを素直に口に出してしまっても決して男臭くはならない。でも単に羅列しても、鳴の声や表情がないとだめっぽいようだ。鳴の楽しさは、しいて例えるなら、『最果てのイマ』の子供時代のあずさや『こころリスタ』のまりぽ先輩、あるいは赤毛のアンの楽しさと近い。「あんた」という主人公への奇妙な呼びかけは、「おたく」が起源なのかもしれないけど、慎重さと気楽さと雑さが鳴なりに混ざった独特のニュアンス、距離感になる。腕を組む思案顔の率直さ、裏表のなさちんちくりんさ。目はそらしても顔はそらさない。ぶっきらぼうな語尾だけど丁寧な突込み(愉快なオタク)。告白も思い切りがいいし、すごく嬉しそう(a, b, c, d)。
 鳴の物語はキャラクターが完成しているので何であってもよかったのかもしれないが、とりあえず「ガチ勢とエンジョイ勢の物語」だったとしておこう。もともと素直な言動の子だから、ターニャのように拗らせすぎることはなかっただろうし、鳴がガチ勢に紛れ込んでしまった方が間違いだったのかもしれない。鳴にとってはそれは子供らしい全能感のモードと同義なのだろうし、病的なほどに去勢された人でなければ、人は誰でも自分の中に多少のガチの分野とエンジョイの分野くらいは持っているだろう。それを無理やり自分の生き方だと思い込んでしまったことによる喜劇という程度の話だったといったら鳴に失礼かもしれないが、そんな軽くてさわやかな読後感だった。エピローグの「じゃ、ゲームでもするか」の絶妙な軽さ。
 一言、奇妙なパラレルスピークの魔法についても。事前情報でキャプチャーを見て、『ギャングスタ・リパブリカ』を引き継いでこういうのがどのルートでも延々と展開されるのかと思っていたけど、このルートにちょっとあるだけだった。「強大権力生徒会(オリガルヒ)」にニヤリとしてしまったが、これも含めておおむねこっぱずかしいラップバトル(?)だった。念のため無粋なつっこみをしておくと、オリガルヒはどちらかというとネガティブな言葉なので本人たちが自らオリガルヒと名乗ったことはないし、90年代の遺物であって2000年代以降にはプーチン政権に牙を抜かれてしまったので政治力は有しておらず、その辺を勘違いしているターニャのナイーブさを愛でるしかない。パラレルスピークはパロールエクリチュールを同時に作用させるものとのことだが、「パロール」の英語も「エクリチュール」の日本語もこっぱずかしかった。でも鳴はそういうことも素直に言える子なんだな。

 序盤を進めながら思ったのは、これは鬱病者としてのアイリスがストレスにさらされ続け、周りを気にかける余裕もないまま苦しむのを眺める作品であり、こういうぎりぎりの人間はまわりに迷惑をかけながら生きていくしかないし、まわりはそれを許してあげなくてはいけないということを説く病理的な物語であり、でもアイリスは天使のように可愛いので僕の現実認識に対する癒しであるという結論なのかな、とやや物騒なことを考えていた。でもアイリスはどうやら幸せを見つけたみたいだし、繰り返しになるが、実はおっぱいも大きくて元気なアイリスにもなりえる存在だった。もっと幸せな物語はいくらでもありえたのかもしれないけど、このアイリスが一番なのだと思う。

・あとはおまけシナリオを少しずつやって追記かな。

 

屈折と没入の時空間 (2019年11月3日追記)

 最近は本の感想ばかり書いていたが、ようやくおまけシナリオ(エッチシーン集)が終わったので、せっかく文化の日だし、エッチシーンについても少し書いておこう。といっても最後に終えたアイリスの最後のシーンについてだけだ。本編ではなかったサブキャラのシナリオもあったが、他のはだいぶ前に終えたので印象が薄れてしまっているし(手元の一言メモには「ターニャ:思い込んでからがっつくのが早すぎる」「シャリー:勝手に話を進めて思い込むという女の面倒くささ、でもエロいし可愛い」とあるがこれを感想とするのは申し訳ない)、感想を書くためにエッチシーンを見直すというのも本末転倒だ。

 アイリスは勉強して看護婦のコスプレをしてエッチすることを決心して提案したわけだが、主人公は医師という設定になっており、アイリスはなぜかいきなり主人公に性的診察をお願いする流れになるので、看護婦のコスプレをした意味がない。助言したという鳴と一緒に何か勘違いをしたようだ。これが屈折のひとつ目。

 構図がよかった(これは寄ったもので、もう少し引いた構図の方が分かりやすいがいろいろなものが映ってしまう)。といっても線や肌や衣服の描き込みに特に気合が入っているわけではなく、もっと煽情的で官能的な絵は他にあるのだが、この作品で最後に終えたエッチシーンがこれでよかった。おそらく普通の遠近法よりも下半身がやや大きめに描かれており、上半身はやや小さめだが、顔は(アニメ絵なので目が大きくて)遠くにある感じはしない。アイリスは主人公に後ろから挿入されているのだが、アイリスのやさしい表情や声のおかげで寝取られ感や窃視感は希薄で、プレイヤーである僕の視点はアイリスの背後と正面に二重化して存在することになる。少なくとも視点が3つに分裂している(アイリスの下半身、上半身、目に合わせて;アイリスのうなじなどとして物理的に描かれてはいないが、エロゲー文法的にはアイリスの背後に第4の潜在的な視点も想定できる)、おなじみのイコン的な逆遠近法だ。これが屈折、というか非連続性と跳躍のふたつ目。ここまではエロゲーではよくあることで、アイリスのやさしい顔ときれいな声に魅入っているうちに目的が達せられて終了しても別に不満はない。

 ところがここでさらに一つの屈折、ひとつ小さなひねりが入る。アイリスが聴診器で自分のおなかの音を聞いて実況し始めるのである。診察に看護婦と医師がいれば、聴診器を使うのは普通は医師なのだろうが、なぜかアイリスが勝手に聞いている。はじめはおなかを突かれる音らしいのだが、やがて子宮口を押す音や、角度を変えたときのゴリゴリいう音、中で動くときのぐちゃぐちゃいう音となっていくと、僕は聴診器で聞いたことがないのでわからないのだが、そのうちにアイリスが伝えてくれるのは実際に聞こえている音ではなくて、物理的な音を超越した何かなのではないか、だからアイリスは次元の壁を越えて僕に伝えることもできているのではないかという気がしてくる。描かれたものや聞こえている音が制約性のあるかりそめのものに思われてくる。アイリスの言葉に倍音が混じり始める。コスプレっぽい下品なピンクの看護婦服の色合いも、気がつくとやさしくて温かい色に見えている……。

 本編の感想では書き漏らしてしまったが、BGMにも触れておきたい。「濡れ光る唇」という官能小説みたいな残念なタイトルなのだが、寂寥感と閉塞感を透明な光や風に溶かし込んだようなよい曲だ。これも別にエロゲーのBGMとして珍しいタイプではなく、ONE、Kanon水夏あたりにあったような少し古い感じの曲で、僕のエロゲーのエッチシーンの原風景にもつながっている。本編でもこの曲のおかげでエッチシーンの質がずいぶん上がっていたが、このおまけシナリオでも活躍している。アイリスの顔や声に魅入りながらこの曲を流されると、深い没入感で少しトリップしたようになり、やはりエロゲーは麻薬であったと喜びをかみしめざるを得なくなる。

 ……と賢者モードの僕は書くのだが、現実には身体の衰えを感じ始めている中年のおっさんである(今日は少しジョギングしたい)。でもエロゲーをやっているときの僕は今も主人公の年齢(あるいはエロゲーを始めた20代半ば)に一瞬で戻ることができて、それはこの先何十年経っても変わらない。そういう感覚を抱けるのが没入するということだ。

今度は、どんなこと、してもらおうかな……」 たとえ実際には何にもできなかったとしても、だからこそ描かれえない実際では何だってしているし、「今度」は同時にすぐ近くでも何十年先でもあるような、あるいは永遠のいつもでもあるような位相の時間なのだ。

古いこと

エヴァ

エヴァンゲリオンがネットフリックスで配信開始というニュースとともに、ロシアの古参オタクたちがエヴァの思い出を語るエントリが流れてきた:

https://otaku.ru/all/evangelion-in-memories/

エヴァのロシアで最古のファンサイトとやらも:

http://nge.otaku.ru/index.htm

いくつか動画も流れてきたが、新劇場版のPVは今更ながらきれいだ:

www.youtube.com

なんだかいろいろ懐かしくなって、ダメ押しで「序」を見返して、「破」はためらっているところだけど、「Q」のDVDをついにポチってしまった。破を映画館で見た段階で(もう10年前になるのか…)もう新劇場版はあせって観る必要はない、観たくなった時に観ればいいと思って少し距離を置いたけど、Qは公開から7年経って、Beautiful Worldを買ってみたり新劇場版の絵柄や空気感でさえも少し懐かしさを感じられそうなくらいなのでそろそろいいのかもしれない。序を観て、絵がきれいだから見ていてじんわりと懐かしい快感があるように思えた。

 われながら成長がないが、こういう自分にとって大事な作品を持っているのはいいことだと思う。

 

 古事記

 和香様をプレイしてから久々に読書したくなってブックオフで見つけた本。不勉強で知らなかったけど、当然ながら折口信夫以降にもそういう問題系の研究は続いていたし、日本神話についてもこういう読みやすくて面白い本は出ていたのだった。例えば、アマテラスとスサノオの二項対立についてもすっきり説明されていたし、スサノオ自身についても和香様の文脈でも消化できるような気がした。あとウィキペディアを見たら著者の中西先生は「令和」の発案者で憲法9条改正反対論者だと書かれていて頼もしく思った。

和香様の座する世界 (75)

 ビックリマンシールは僕が小学1~3年生くらいの頃に流行っていた気がする。大量に買ってチョコをゴミ箱に捨てる問題も話題になった直撃世代だった。一番かっこいいのはヘッドロココ。ホログラムの迫力があったのは魔肖ネロ。ググってみたら、他にもサタンマリアとか聖フェニックスとかシャーマンカーンとか懐かしい画像が出てきた。ヘッドシールのきらきらした背景装飾は、あの時代に子供だった自分には宝石のようにきれいだった。ビックリマンチョコはそんなにたくさん買った覚えはないし、買えるほどお小遣いがあったわけではなかったけど、気がついたら最終的には1000枚くらいはあったと思う。飽きた人からもらったりしたのかな。それも中学生の頃にはなくなっていた。
 どこかから来て、どこかへと去っていった小さな神々たち。裏の変な説明文は全く意味が分からなくて、何かの呪文のように個々の単語から断片的に雰囲気を感じ取っていただけだった。確かマンガとかアニメとかあった気がするが、そちらには関心は向かなかった(ビックリマンシールのキャラクターが動いたり、声を出したり、自我があったりするということがなんだか不気味だった)。

 ビックリマンのシステムが周到に考え抜かれた凝ったものだったと知ったのは、ビックリマンなどすっかり忘れていた大学生の頃、大塚英志の本を読んでだった。どんな趣旨だったか詳しくは忘れてしまったが、体系的な情報をあえて断片化して「大きな物語」を想像させる技術としての疑似的な神話、みたいな話だったと思う。ビックリマン世界の全貌を示す必要はない。おおもとのストーリーで勝負するのではなく(ストーリーは終わってしまうのでビジネスとして問題がある)、ディティールで何となく気を引く。日常の細部に溶け込んだ風習。思い出してみると、ビックリマンでかっこよかったのは西洋風の名前や格好をしたキャラクターたちばかりだった気がする。和風のキャラクターもいたが、マージナルなのが多かったと思う。
 そういうどこかインパクトが弱い存在が、日本の八百万であり、ぬらりひょんや都市伝説に出てくる妖怪たちだ。そのおおもとである古事記の神々など子供の日常では全く聞くことがないし(少なくとも我が家では)、聞いたとしても、例えば天照大神が何をやった神なのかよくわからない、というか聞いてもピンとこない。せいぜい浦島太郎や桃太郎みたいな昔ばなしが記憶に残るくらいだ。だいたい神様は神様であって、神様に固有名があるということ自体が奇妙に思えた。
 そういうよくわからない神々の話を、古代世界における歴史の書き換えや宗教学・神話学的な要素のずれやねじれを発見しながら再構成していくのは、世界の裏側を覗き見るような面白い作業であり、もっと眺めていたかった。そして小さな疑似的神話であるこの作品にビックリマンシールシステムが導入されているのは巧みな仕掛けだ。
 もう一つの思い出は、高千穂牧場だ。高校生くらいの頃だったかな。一家及び祖父母と夏の高千穂牧場(宮崎県)に行って、散歩してアイスクリームを食べてきた。それだけ。起伏に富んだ緑の草地が遠く広がる、明るくて気持ちの良い場所だった。天孫降臨の地の碑文のようなものも見たかもしれないが、当時は全く関心がなかったし、覚えていない。アイスクリーム以外で覚えているのは草木の緑と山、草地を渡る風といった自然だ。あれから20年以上がたち、祖父は亡くなり、祖母は寝たきりの痴呆。家族は散り散りになり、会えなくなった者もいるし、会っても昔のように気楽に笑えない。さして楽しかったわけでもないが、あの明るい高千穂に、若くて平穏だったかつての自分たちを思い出したくなる。遠くなってしまったけど、遠くはないような記憶。日本の曙の時代もそんな風に若くて平穏だったのかなという幻想。実際、日本人は昔から古事記万葉集を読んでそんな幻想を大切にしてきたのではないか。最初の和歌といわれる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は幻想の歌であって、僕にとっては行ったことのない出雲ではなく、記憶と空想の中の高千穂の風景とどこかつながっている。
 さらに付け加えるなら、僕が学生の頃に家族で登った富士山だ。このブログにも昔書いたと思うが、富士山でも日本の風景を神話と結び付けられる。頂上は月面のクレーターのようなので風情があるというよりは異界じみているのだが、それでも美しい女神だという木花之佐久夜毘売を祭る神社がありご褒美となっている。家族にとっては最後の大きな旅行だった。当時、家族はすでにばらばらになりかけていたが(僕もまもなく一人暮らしになった)、あの山頂の時間と空間を共有したのは意味があったと思う。
 もう一つ思い出した。ザ・モモタロウだ。確か小学校4~5年生くらいの頃に連載していたと思う。当時はプロレスなんて子供のじゃれあいとしてしか知らず、興行としてのプロレスシステムにはまったく関心がなかったが、僕にとってザ・モモタロウは絵柄にしてもギャグにおいてもお色気においても教養や情報においてもちょっと背伸びして読める最高の教科書だった(ドラゴンボールは背伸びが不要だし、他には身の回りにはギャグが面白いマンガはなかった)。特に印象に残ったのは、うらしまマリン編とシュテンドルフ・ヤマトタケル編だった。うらしま編は元ネタが、シュテンドルフ編はそれ自体が、いずれも時間をテーマにした少し悲しい話で、今に至る自分の好みの一部を形成している。
 他にもまだ何かあるかもしれないが、僕と日本の神話のつながりはこんなものだと思う。あとはすべて成人してから本を読んで得た知識だ。日本神話は僕の日常生活からはあまりにも遠い。結婚して妻の実家に行ったら、床の間に天照大神を描いた日本画の掛け軸みたいなのがあって、本当に一般人が日常的に跪拝しているのだ知ってびびった。こうしたことのすべてが詰め込まれ、僕にとっては重層的になっているように見えるのがこの『和香様の座する世界』だ。
 やっと前置きが終わった。が、他に書きたいことはもうあまりない。
 一つあった。江の島だ。江の島や湘南といった地名は僕のようなオタクにとっては最も縁遠い場所のように思われるし、今でも基本的にはそう思う。しかし、妻と出会って初めて出かけたのが江の島だった(というか、それ以外にはほとんどデートをしなかった)。カップルがいっぱいいてうざいだろうけど(自分もその一部なのだがとてもそうは思えない)、そんなに遠くないし、いっかという程度の気持ちだった。実際、江の島には何かとても美しいものやとんでもないものがあるわけではなく、ちょっとした散歩ができるだけだ。あとは水族館があるので、間が持たないということはない。まあ、当時はそんな知った風なことをいえる余裕もなく、ただ単純に相手が自分に関心を持って、楽しく話そうとしてくれているということだけで驚きであり、ちょっと感激していたわけだが(今はお互いわがままになった)。
 今考えてみても、江の島は特に厳かであるとか、神気に満ちているとかいうことはない。ただのデートスポットだ。狭い島に狭い道があって神社がごちゃごちゃしているので、何かしらの運動の感覚はあるし、島までの細い道を渡るという水平運動もあるので、適度に疲れるのだが、何しろ人が多いので空気が緩んでいる。そんなわけだから、あんなふうにべんてん様が江の島を愛していると考えると優しい気持ちになれる。神様との緩いきずなだ。そういうきずなを和香様も受け入れている。僕は人の多い行楽地の空気が嫌いだし、もう好きになることもないだろうが、そういうストレスの中だからこそ記憶に残るような楽しい瞬間や温かい気持ちってのもあるんだよな。
 たぶんギリシャ神話も同じような温かさを持つのだろうが、僕はギリシャ語が分からないので神の名や事物のニュアンスを感覚的に受け取ることができない。今回『和香様』を進める中でウィキペディアやら何やらを見ながら、日本神話にも(様々な編集を経たにせよ)きちんとした設定があってストーリーもあったんだと知って勉強になった。
 神々と同じ時間の流れの中を生きるというのは、僕たち人間の、あるいは日本人のオタクの、一つの夢だ。神話の再演はそのようにして古代から延々と続けられてきた。そもそもは、ままならない世界の物理に介入し、世界や自分を解釈しなおすことでコントロールするための技術だ。それは世界や自分を安定させるための功利的な技術だが、他方で、本当の神話の中に埋没して沈殿してしまいたいという思いもどこかにあったと思う。巻き込まれ、巻き取られようが、都ちゃんとの国生みや琉々葉様との竜宮や地上での穏やかな暮らしに安らぎをみる。神代とはいつまでも続いてほしい時代であって、現在へとつながってほしくはない。それはこの物語が鏡の中の物語として閉じ込められていることで達成されているのかもしれない。海の神、不老不死のニライカナイのイメージは、和香様たちに似つかわしい。タイトル画面の和香様と琉々葉様は、赤く染まった空の光の中にいるが、あれは若さに満ちた古代の曙の光だろうか。それとも去り行く神々の黄昏の光だろうか。どちらにしても、神様たちはそのなかで頼もしく不敵な笑みを浮かべている。

 

 感想のさらに余白に。
・和香様と琉々葉様の神様モードの装束が非常に残念。
・最後にやはりいい一枚絵が欲しかった。
・全体的にせっかく古代や神々が題材なのだから、Fateみたいなアクションの絵ではなく、もっと大人向きの幻想的な景色やシーンの絵などが欲しかった。
・冒頭の和香様がポンと飛び出してくる絵は好き。
北都南さんと一色ヒカルさんと青山ゆかりさんは神代の声優。僕のエロゲー神話時代の息吹を感じた。
・久々に男声ボイスも切らずに聞いた作品だった。
・なかなか仕事をさせてくれないエッチシーン(都ちゃんを除く)。恋人というよりは上司だから、あるいは家族だから、という感じでドキドキがない。テキストも照れ気味で中途半端であり、ロミオ作品にしてはフェチシズムがあまりなかった気がする。神々のエロスはからっとしていて、文章で表すのは難しいのかな。メーカーの方針で男っぽいヒロインが多いというイメージだが、そのせいで僕の好みから外れているのかもしれない。
・これまでやった古代日本に取材した作品だと、『天紡ぐ祝詞』と『うたわれるもの』だが、『和香様』も含めて、どれも寂しさと優しさを感じられてよい。自分にとって初めての古事記ファンタジーがこの作品だったのは幸せだ。大ボリュームの続編や外伝も読んでみたいけど、きりがないかな。
・無理に他のロミオ作品と比較する必要はないが、苦労して自分の空間を作り上げようとした『最果てのイマ』とは対照的に、群像劇物の『和香様』では空間は多少の分節を含みつつもどこまでも連続しており、その中を神や人が招き招かれ自由に行き来している温かい世界。
・他にも良質な日本神話ファンタジーを読んでみたい。いつか出雲など古代の聖地に行ってみたい。江の島は次に行く時が楽しみ。

・八重垣の歌の作者とされるスサノオの本作での立ち回りはショックといえばショックだが、このスサノオにはまた違う物語があったのだと思いたいところだ。思えば目から生まれたとされるアマテラスとツクヨミと比べると、鼻から生まれたスサノオは動物じみていて、前半生の乱暴者と天界追放・ヤマタノオロチ退治以降の神はもともとは別人でそれを一つの神につなげた神話であるか、あるいは動物的で精神的に病んだ状態からの回復を象徴する儀礼の神話なのか(ヤマタノオロチスサノオ自身という解釈)、あるいは何らかの編集がなされた神話のようにも思える。ものの本を読んだわけではないのでただの戯言だが。いずれにせよ、本作ではスサノオ本人は登場しなかったが、アマテラスのシナリオにより琉々葉様と藤子が再演した。八重垣の歌はそうしたことがすべて終わったあとのことだ。

欲張りなモニタと控えめな演出

 年末に秋葉原に行ってPCを買い替えて、10年くらい使った小さなノートPC(15.6インチ)からバカでかいモニタ(23インチ)のデスクトップPCになってゲームを堪能する環境が整った。家で仕事をするときはブラウザのタブを50個くらい一気に開いたりすると言ったら、店員に少しパワーのあるものをと勧められて買ったやつだ。中古で合計4~5万くらい、さらに大きなノートPC(出張用)も中古で3万円くらいで買った。どれも新品同様のぴかぴかのパソコンで、いい時代になったものだと思いながら、でかい袋を抱えて家まで持ち帰るところまで含めて秋葉原に通っていた昔を懐かしんだのだが、そこで満足してしまって新しいPCにエロゲーをインストールしていないこともあって、すっかりプレイが止まってしまった。
 久々にやってみたエロゲーはマルセルさんが楽しんでおられるはぴねす2の体験版。前作はその昔体験版をやって断念したのだが、2の体験版をやってその時の違和感を思い出した。僕はこのメーカーの立ち絵の使い方が好きになれないということだ。テキストはそれほどストレスなく読めても(体験版の範囲ではまったりと可愛い女の子を愛でるだけの必要にして十分なゲームという印象で、唯一主張らしい主張があったといえば、花恋のシャツのボタンの隙間がひっそりと開いていて大変すばらしかったということで、高校時代の思い出を昇華してくれた)、立ち絵で割と台無しにされてしまう感があった。すなわち、はっきりしすぎた表情とそれをさらに強調する漫符(ハートマークとか)だ。もっと曖昧で中間的なはずのヒロインの心理状態がデフォルメされてしまう。そのデフォルメされた顔がいくらかわいかったとしても、やっぱりデフォルメ(変形、単純化)なのだ。それをいったらわずか数種類から十数種類の立ち絵であらゆる状態を表すというエロゲーの立ち絵のシステム自体が原理的にデフォルメなのだが、もう少し中間的な表情やニュートラルな表情だってある。ある立ち絵から別の立ち絵への切り替わりは0から1への切り替わりであり(滑らかに動いて変わるように見えるすばらしい技術もあるが)、1つの立ち絵自体は静的である。動きは原則的には複数の立ち絵が切り替わることによって、あるいは複数の立ち絵を想像することによって、複数の中の一つの顔という形でとらえられる。ところが、立ち絵が優れていると、単に止まって瞬きすらせずに凍り付いた絵であっても、ヒロインがかすかに呼吸しながらこちらを見つめているように感じることもあるものだ。そういう息づいている感じがこのメーカーの絵や漫符の演出ではあまり感じられなくて、読んでいて没入が難しい。立ち絵がひょこひょこ動くのも好きではない。システムで漫符を消せれば少しは落ち着きそうな気がするけど、残念ながらそんなボタンはないようだ。というわけでハードルが高いメーカーなのだった。
 昨日ノラととのおまけシナリオが出たとのことで、久しぶりにまたエロゲーをちょっとだけやった。人気投票の結果によるリポーターの小話と、シャチアフターのちょっといい話だ。シャチは高いポテンシャルを感じさせるのにシナリオが短くてもったいないヒロインなので、短くてもこんな風に補ってもらえたのはありがたい。そしてシャチとの花見をこっそり楽しむという話もよかった。なんだかシャチの声が囁き声のような発声ばかりで、それが意図的な演出なのかどうかわからないけどとてもよかった。桜を背景にそんなシャチと向き合うと、自然とメッセージウインドウを消して立ち絵と声を鑑賞せざるを得なくなる。大きなモニタ万歳である。花見というよりはシャチ見になる。令和の宴会から1000年以上経って、こんなにささやかで美しい花見をひっそりと楽しめる時代に感謝だ。肝心の花見のシーンは5分くらいしかなくて、二人は風邪をひかないようにとすぐに帰るのだけど、そうした日常、またいつでも来れるから欲張らないという控えめな喜びが心地よい。シャチといつでも散歩できるなんて実際はとんでもない幸せなのだ。

ブログだけどダイアリー

 はてなダイアリーからはてなブログに移動したので、とりあえず何か書いておこう。たまには日記らしい日記でも。
 今日は久々に親に顔を見せ、外食をしてきた。あまり話し込むことはできなかったが、初めてロシア料理を食べさせてウォッカで乾杯することはできた。近くにある職場を見たいというので、鍵を開けて見せた。こんなことで多少でも孝行になるのならありがたい。
 この冬は週末はほとんど鍋なのだが、今日は生スケソウダラを入れようとしたら寄生虫だらけで妻が泣いてしまったので、なぐさめたりからかったり、ネットをみたりしているうちに夜になった。
 やらなければならないことは何一つ捗っていないけど、やった方がいいことはいくつかやった一日だった。
 平日は帰宅が24時くらいのことが多い。小さな生活だ。
 仕事で名前が売れるのが鬱陶しくなってきた。今年こそは仕事を減らして趣味の時間を少しは取り戻せるかな。このままでは脳のある回路が死んでしまいそうだ。でもこのブログの自分は死なない。ここは現前する文章の国だ。適当でもいいから続けていこう。