『神様になった日』

 作品としての品質の問題はいろいろあるが置いておいて(ひなとの日々はそんなに楽しくなかったように思われるし、「ひと夏の思い出」って他の言い方ないのかよと思うし、Airの後継だとか鬱ゲーやバッドエンドの美学だとかいろいろ言えるのかもしれないが)、作品外の文脈に大きく依存する作品だと思う。
 僕以外には全く必要のない情報で恐縮だが、結婚してよかったなと思うのは、例えば、休日とかにお互いに別の部屋にいて静かに過ごしていて、時折手を打ち鳴らして相手がいるか確認すると相手も手を打ち鳴らして応答するというようなとき、あるいは用はないけど単に顔を見に行って、5秒くらい一緒にいてまた戻るような、まったく意味ないやりとりがうまくいったときだったりする。恋愛とか大げさなものではなく、単に知っている他人の存在のぬくもりを確認するだけのような瞬間だ。あるいは、運動不足を解消するために腕立て伏せをやろうと思い立ち、妻に下に寝転がってもらって伏せるたびにキスするようなシステムはどうかと提案して無理やりやろうとしてお互いにドン引きして大笑いするような、何もないところから笑いを作り出せた瞬間だ。他人との生活はストレスフルだけど、そういう瞬間もある。最近では妻は僕が手で足裏マッサージをしないと安眠できないので、かなり面倒くさいがマッサージがそういう瞬間の契機になっている。
 そんな小さくて静かな幸せはいつ失われてしまってもおかしくなくて、その不安を抱えながら生きていても奪われる時には決定的に奪われ、奇跡は起きない。それは震災のような災害かもしれないし、大切な家族を襲う死や、生まれてくる子供の知的障害のようなものかもしれない。我が家はお互いに危なっかしい人間なのでそのような喪失の影が空気に漂っている気がする。喪失の痛みを描く物語は多いけど、それを奇跡やハッピーエンドでうやむやにせず、痛みのまま残すことで視聴者に与えられる傷もある。そうして受け取った傷の理不尽さは、その作品内で埋め合わせすることはできなくて、視聴者が自分の生活のどこかで埋め合わせるしかない。こんな話は求めていなかったのかもしれないけど、ひなを介護しながら車椅子を押す日々の厚みに思いをはせてみることは、この結末でなければ難しい。これを覆すような後日談や続編は必要ないように思う。この物語を見続けることは苦痛になりそうだけど、心のどこかにしまっておくことはできる。

滝本竜彦『異世界ナンパ』

異世界ナンパ 〜無職ひきこもりのオレがスキルを駆使して猫人間や深宇宙ドラゴンに声をかけてみました〜(滝本竜彦) - カクヨム

 165話の発表から1ヶ月以上経っているが、ライブとかあるので一休み中ということらしい。この直近のオークや闇の女神が出てくる話のあたりから、いわゆる燃え展開のようなインフレ異能バトル物になってしまって、小説としての面白さは薄れた。それまで偶発的に発動してしまったり後発的に獲得してしまったりしていた「スキル」を意図的に使いこなせるようになった結果、普通のなろう小説っぽくなってしまったというのがあるし、女体化した主人公が……という展開に引いたというのもある。来年1月に第三部「現世編」連載開始ということらしく、果たしてまた面白くなるのかは分からないけど、少なくとも途中までは滝本氏らしい丁寧や自己認識描写や文学功利主義やユーモアが楽しい小説だった。それにしてもこの投げやりな作品名よ……。まあ、18世紀以前のヨーロッパ文学はこういうのばっかりだったから(19世紀以降はどちらかというとパロディネタになった)、日本の大衆文学が文学的伝統に回帰したみたいで面白いけど……。
 以前の『ライト・ノベル』の感想では、「これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない」と書いたが、そうして発表されたのが今回の作品だと考えるなら、今回はもう少し読み物としての面白さ、読書体験の面白さに立ち返りながら、セラピーとしての小説に挑戦したということなのかもしれない。分かりやすい読み物になっている分、『ライト・ノベル』より間延びした感じがする。最後のオークや闇の女神のあたりの展開はその方向性からは逸脱したように見えるが、これも今後の展開やまとめ方次第なのだろうか。もし、このまま更新がなく中断されたままだったとしても、それはそれで面白い気もする。主人公はインフレの果てに設定を抱えすぎてパンクして死んでしまい、結局、ナンパで物語を回す必要はあったのだろうかというメタ的にも虚無なエンドだ。そもそも、ナンパの修業を終えて無事に強くなった主人公を見て、それでハッピーエンドで面白いだろうか。そんないにしえの宮台先生的な強迫観念から逃走するのが滝本氏のスタート地点なのではないのか。その先に向かうのがセラピー文学だけというのが滝本氏の答えなら、そうですかと納得するしかないし、それだけではないと期待させてくれるならありがたい。そんな貧しい読み方になってしまうのは半分は読者のせいなのだろうけど、今回はお気楽な読み物風の作品だから短絡化もされやすい。エンディングが悩ましいのは滝本作品の宿命なのだろうか。

ランス9 ヘルマン革命 (65)

 30年もの歴史があるシリーズの終盤の一作だけやってみてもひどく偏った感想にしかならないと思うが、せっかくなので一応文章を残しておく。確認してみたら合計7周したらしい。完全な作業感覚で進めていた時間が長ったが、苦痛になってもなかなかやめられない性格ので、ユーザーが作ったサイトの作品やキャラに対するコメントページを読んだりして(ランスの歴史を周回遅れで追体験して欲望を消費する作業)モチベーションを保ちながら、アミトスとエレナをユニットとしてそれなりに強化して気が済むまで続けた(バッドエンドは一部しか見ていない)。最近の家での時間はほとんどこの作品に使ってしまった。
 ランスシリーズを他のエロゲーと比較するのはあまり意味がないかもしれないが僕の場合はそうしないと書き始められないので比較すると、やってみて初めに目についたのは絵の特殊性だった。立ち絵がすごくでかい。特に男性キャラ人外キャラは骨格もでかく、全画面でやっているとかなりの圧迫感がある。この質感こそがランスシリーズの魅力の一つなのだろう。立ち絵は左右から飛び出してきて基本的に画面には2人で会話することが多く、そのためか少し横を向いていて、ユーザーに視線を向けてくることがないのが一般的なエロゲーとは大きく異なる。タイプはいろいろあるが、体はやや開いていて顔が横を向いているチルディステッセルの立ち絵などは動きがある感じがして面白い。
 デザインも個性的で、学校の制服が主流の一般的なエロゲーに比べると女性的な華美さのない旅装や戦装束のような作業着の質感の魅力をよく表す美術で、子供の頃に憧れたファンタジーRPGの世界を思い出す。露出度は低いが、例えばメルシィアミトスの服など、その袖やスカートの布地の厚みやボリューム感が目を楽しませてくれる。ケチャックのような下衆な脇役やモブの衣装にもそれなりの美しさがあり、バクストの描く実用性を無視したようなバレエ衣装のエスキスに似た華やかさがある。この点ではランス10よりも絵は好みに近い。
 主人公のランスも含めて立ち絵では誰もこっちを見ないので、プレイヤーは「英雄」たちが活躍する絵巻を眺める観客の立場だ。非人間的という意味での英雄感が特に強いのはランスで、英雄というよりは狂人に近いかもしれない。エッチシーンに勇ましい行進曲のようなBGMが流れ、とーう、とーうといいながら楽しそうに腰を振って可愛いヒロインたちを犯す狂人。子供が木で作ったお気に入りのおもちゃの剣を振り回して草をなぎ倒して遊ぶのと似た楽しさの感覚であり、繊細なエロゲー主人公とは無縁の純粋な邪悪さにうわあ…となってしまうのだが、そこにある吹っ切れた強さに惹かれないわけでもない。人が動くと必ずといっていいほど誰かにぶつかってしまうわけで、誰にも迷惑をかけないように考えていたら動くことはできない。誰かとぶつかり、誰かに不快感を与えながらも、結局は物事を動かしていくことに正義があると知っている強い人間の生き方だ。オタクにはつらい、陽キャリア充と呼ばれるような生き方であり、あるいは会社にいる暇そうな役員や嘱託が思いつきで若い社員を振り回してルーチンワークを邪魔し、楽しそうに新しいプロジェクトをやろうとするのにも似ている。「内面」のないランスは悲劇の英雄ではなく、ブィリーナのような民話に出てくる疲れ知らずの陽気な勇士のようなものであり、その無条件の強さは非人間的だ。読者はそうした勇士たちの「内面」に感情移入するのではなく、その素早い(無時間の)行動力にカタルシスを覚える。ヒロインたちが陽気な上司に振り回される若手社員だというとなんだか嫌なことを思い出しそうで楽しめないが、これは男性の脇役キャラには当てはまるかもしれないがヒロインたちは違うと思いたい。そう思わないと救いがないし、ランスが時折見せるちょっと人間的なゆらぎにも繊細に反応していることを知っているので。
 ヒロインたちはそれぞれ自分たちの理想や目標や生き方を持っていて、ランスはそこに邁進する中で運命を共にすることになってしまった同道者という趣きだ(かなみについては違う言い方をした方がいいのかもしれないが、本作しかやっていない僕が書けることではないかもしれない。彼女がランスに見せる幸せそうな笑顔が本作の一番の見せ所の一つだとは思うけど)。キャラクターとして一番新鮮で楽しかったのはミラクルだった。女版ランスなどともいわれているようで、現実を認識によってポジティブにねじ伏せようとする力はランスにも劣らず、ランスとかけあいをしても言い合いで負けることはない。レイプされても不敵な笑いを忘れず、ランスを寛大に褒めて許してやる。ランスと違って勉強家であるのもよい(一人称が「余」なのに)。個別ルートの突飛な展開も好きだったが、こういうヒロインとの30年というのは楽しかっただろうな。対照的に控えめなシーラも可愛く(さらにシーラはかなりエッチ方面も充実していて)、この二人は本作のヒロイン勢の軸のように思えた。
 戦略シミュレーションゲームであることがベースになっている本作のストーリーにいちいち突っ込むのは野暮だが、副題に革命を掲げているのにしては革命というよりは反乱の物語に近かった。地名などでも間接的にネタ元になっていそうなロシアでは、17世紀初めに動乱時代というものがあり、死んだ皇帝の血筋をめぐって僭称皇帝・偽ドミトリーの反乱というものが起きた。偽ドミトリーの死亡後も実はまだ生きていたという設定を背負った偽ドミトリー2世、その後は3世や4世が登場したそうだが、社会制度の変革には至らなかった。ロシア革命では、軍事作戦としても面も確かにあるけど、革命家と呼ばれる人々が様々な社会層の中に潜り込んでいって扇動・啓蒙を行い、身分制社会を解体したところに意義があるのだが、本作ではその面は一切なかった。あと、革命は権力奪取した後の方が大変で、そのせいで為政者は疑似戦闘状態を維持して仮想敵を作り出すために軍服を着続けていたが(レーニンは例外的に軍服を着なかった)、ヘルマン革命では成就後も社会制度はあまり変わらず、変わったのは人事だけだったようで牧歌的に見える。社会制度の変革という建設的な事業において破壊的なランスが活躍できるような気もしないので、描かれなかっただけなのかもしれない。現実の社会革命なんて描いても重苦しくなるだけだろうし。
 いろいろこね回してみても、結局はランスを中心とするハーレムの箱庭世界であって、それ以上の意味はない。その中でランスは永遠に若く、強く、性欲第一の男だ。革命とか崩壊とか大きな動きを描いているように見えるシリーズだが、逆説的にその箱庭世界自体は穏やかに静止していることが魅力のはずで(そこに浸っていれば安心できる)、完結させてしまったのはもったいないことだと思う。人が生きて物語が動いていく以上、どこかで終わらなきゃいけないのかもしれないし、そういう生き方をするランスを軸にしたシリーズなのだから当然なのかもしれないが。
 僕のパーティ編成の最終的な主軸は、ランス、リック、ロレックスの男勢と、シーラ、チルディ、ミラクル、志津香、ハンティの女勢となり、後はかなみ、アルカネーゼ、アミトス、エレナがだいたい入った。戦闘時の3Dの動きは、骸骨に放り投げられて攻撃を回避するミラクルや、踊りのように回転するチルディの必殺技、仮面ライダーや新体操選手のような小さなピグが楽しく、他のキャラクターたちの剣や拳や薙刀や投石杖や魔法もそれぞれ質感があって見ていて飽きない。まだクリアしていない自由戦闘のステージもたくさんあるけど、それでも単なるコンプリート欲だけで続けるのは難しそうだ。パラメータはプレイ後に残る残骸であって、大切なのは以外にも爽やかなものばかりだった物語の読後感の方なのだから。だらだらと感傷を引き延ばそうとしないのはいい作風だと思った。

初音ミクさんのフィギュア

 思い立って久々に秋葉原に行ったら、歩行者天国が復活してて賑やかだった。
 先日、マルセルさんにPCの相談をしていた中で話題になった「ランスⅨヘルマン帝国」を買った。近年は中古エロゲーショップがどんどんなくなり、ネット通販を使わないなら、わざわざ秋葉原までいかないと見つからないものが多くなった。ロシアが元ネタにあり、音声付きで、恋愛要素もあり、攻略もそれほど面倒ではないということらしいので、そのうち手をつけてみたい。ランスシリーズはシステムも嗜好も自分には合わないことが分かっていたので手を出してなかったが(あるいはママトトのように挫折した)、この作品だけならひょっとしたら楽しめるかもしれないと期待している。
 あと、『ボクは再生数、ボクは死』を読んだせいか、久々にフィギュアを買いたい気分になってしまい、ある程度目星をつけてみてきて、初音ミクさんのを2つ買ってしまった。一つはなぜか最近石川センセが何度もリツイートするので刷り込まれて気になっていた中国風ミクさん。買った後に調べたら、デザイナーがメロリリのイラストの人だったからリツイートされていたのだった。確かに楽しげな色合いとフォルムにメロリリ絵的な可愛さを感じられる。ヌードルストッパーだそうだが、僕は最近はカップ麺を全く食べなったので普通に飾ることにする。写真はベールイの『受洗した中国人』を背景に適当に撮ったけど、残念な出来になっている。

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 2つ目はこれからの季節にいいかなと思った冬服のミクさんだ。色合いやポーズや表情が気に入ったので買ってみた。リニューアル版という色違いがもう少し安く売っていたけど、こっちの方が色は好き。ベールイの『吹雪の盃(第四交響楽)』を背景に写真を撮ってみたけど、やはり残念な出来だ。

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 昔少しフィギュアを集めていた時は綾波レイのものが多くて、これは彼女の存在形式にも合致しているので納得して買うことができたが、会心の出来のものはなく、もともとプラグスーツのデザインがあまり好きではないのでいつしか飽きてしまった(それでもプラグスーツ綾波が僕の本棚のあちこちに腰かけているのは落ち着く風景だ)。あとは最近は眺めるのを忘れていたが、パチュリークドリャフカ月宮あゆは出来が良かったので思わず買ってしまったものがあるが、これもけっこう思い出深い子たちなのですんなり楽しめる。
 初音ミクはそういう物語的な設定がなくて(二次創作にも興味はなくて)、そういう愛着を抱けないフラットなキャラクターなので、フィギュアを買ってみても造形的な可愛さ美しさを愛でるしかないので、自分には縁がないと思っていた。ところがいざ何かフィギュアを買いたいなと考えると、自分が何らかの思い入れを持ってお迎えできるようなフィギュアはもはやほぼ存在していないことに気づいた。自分が興味を抱けなかった、あるいはほどほどにしか楽しめなかったアニメやマンガのキャラクターはフィギュアとしてはほどほどというよりはマイナスなので買わない方がよく、それならば物語性から解放されているミクさんの方がマイナスではなくゼロなのでましだし、『ボクは再生数、ボクは死』のように結局造形や表層を通してしか愛せないということを受け入れてしまうのも楽だなという気にもなる。初音ミクのようにシンボルとして拡散しすぎると、消費する側の欲望が窮屈に方向づけられず、旬を過ぎたころに一人でひっそりと愛でることができる気がしてありがたい。やはりフィギュアは一人で楽しむものであり、無言で見つめたり見惚れたりするための何かであり、フィギュアの方も何らかのポーズや感情を表したまま無言でそこに存在し、ただ見られるだけの何かだ。人は「純粋に見る」なんていうカントやギリシャ哲学じみたことはできないから、見ているときには何らかの雑念がいつも生じているが、その雑念は自由であればあるほどよく、頭をほぐしてくれる。初音ミクという余白の多い存在は優しい。
 家人がフィギュアやオタク文化に理解を示してくれないので、自分を鼓舞するために屁理屈をこねてみた。あと、安かったのもいい。こんなに可愛いフィギュア(未開封品)が2つで2200円だった。15年前から何の成長も(衰退も?)ない気がするが、わざわざ秋葉原に行った甲斐があった。

石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

 FPSもオンラインゲームもVチューバ―も経験ないのでぼんやりとした印象になってしまうのがもったいないけど楽しかった。僕の知っているものでたとえるなら、『アバタールチューナー』の小説版とか『順列都市』のような仮想世界にどっぷり浸る感覚の小説だ。主人公が忍だから『最果てのイマ』も思い出される。今はアニメやラノベでこういう設定のものが溢れかえっているけど石川センセが描いてくれると自分も安心して楽しめるみたいで、何度も笑いながら一日で読んでしまった。その後で満月の光を浴びつつ久々にジョギングしながら、何か感想で書けるようなことがあるかなと思い返す時間も楽しくて、気づいたらジョギングも終わっていたけど、特に何かすごい感想を思いついたわけでもなかったのだった。

 この作品の舞台である2033年頃にはたぶんこんなvipper語やニコ動語のような言葉は廃れているだろうし(すでに今もニッチなような気もする)、ITも電子機器も今からは想像できないような方向に少し進化しているだろうから、この作品で描かれているような2033年は滑稽などこかの的外れな未来、ありえない並行世界でしかないのだろうし、この作品を読んだ僕自身が2033年にはもう中年というよりは初老に近くてVRセックスにもVR空間にもまったく関心を持てない枯れたおっさんになっている可能性があるのだけど(というかすでに枯れかけている)、それだからこそこの作品の言葉を残しておきたい:

「この景色をきれいだと思う気持ちは何なんだろう。この気持ちはどこへ行くんだろう」
「ただ消えるんだよ。消えて、けっして戻ることはない。どれほど待ってもね」
 それをことばで表したところで、きらめきを留めておくことはできない。ボクとツユソラの間で交わされたことばも、僕の目や耳や窓やコメント欄を通り過ぎていったことばたちも、刹那、波が砂に跡を残すように、ある心の動きを象って、また解けていく。長く残ることなどない。それがいまのボクには救いだった。いつかこの世界のdpi(解像度)もFPS(フレームレート)も回線速度もあがっていくだろう。だがいまはいまがベストだ。海も空も風もとなりにいるツユソラも、いまがいちばんうつくしい。この先に残された時間など、いくら永かろうと意味がない。

 あとこの作品のネットスラングやユーモアにこれだけ笑えた自分がいたことも覚えておきたい。

 自分のオタク活動のルーツの一つに、昔vipスレで深夜にアニソンやエロゲーソングをネットラジオで延々と流し続けて、スレで歌詞を実況したりリクエストしたりする人たちがいて、僕もwinampか何かでその歌を聴きながらラジオを録音してCDに焼いたりしていた体験というのがある。2004年くらいだったかな。これと泣けるエロゲースレとエヴァ板とはてダコミュニティが僕のオタク学校だった。特に優れた学校でもなく、自分では書き込むことも少なかったから、ひっそりとした教育だったし、美しい思い出でも何でもない。でもそうやって手探りで何かを求めていた時期があるからこそ、この作品がみせる儚い夢に共鳴できるのであり、その後のエロゲーマー活動も含めて現在に繋がっているのだから、何かの意味はあったのだといえる。シノはいつしか忍にとってもVR世界の他の住人たちにとってもそれほど美しい無二の存在ではなくなっていくのだろうし、ツユソラがbotになってそこらに溢れかえってしまうという結末は残酷だ。最近はpcのスペック不足らしくてハチナイにログインできなくなってしまい、息抜きはゼリンスキーのギリシャ神話物語を読んでいることが多いのだが、2500年経っても人の心を動かす物語と、数年どころか数か月で風化してしまいそうな美しさがあって、その間で立ちすくむ。
 エンディングでオフ会が描かれるが、オフ会って本当に必要なのだろうか。認識に不可逆な変化が生まれてしまうのだから、現在が大事なのならオフ会は開かない方がいいような気もするけど、そうやって人と会ってみて何かを得て何かを失いたくなってしまう。オフ会のことに限らず、誰もが今いるその場で永遠にとどまっていたいのに、可能性や選択肢を潰しながら進んでいくしかないと考えるのか、それとも可能性や選択肢を広げるために進んでいくと考えるのか、いまだに戸惑うことが多い。そういう戸惑いを突き放さず、寄り添うどころか美しいものに昇華してくれる作品だと思う。

アイドルの時間

 10月に始まったアニメ「ラブライブ」は絵の水準の高くてそれだけで素晴らしいのだが、いい加減にこれだけ女の子たちが歌を歌うアニメを次々と見ると、アイドル物は苦手といってもさすがに楽しみ方がわかってきてしまう。
 そこで何となく読み返してみた『メロリリ』に初読の時とは違ったよさを見つけたというか、初読の時にはぼんやりとしかわかっていなかったことが割とクリアに見えてきたように思える(文章のキレの良さは再読時にも十分に堪能できたが今回はわざわざ書かない)。ミュージシャンというのは生き方であって、歌っていないときもミュージシャンだという見方があるけど、やはりミュージシャンは歌っていないときはただの人であって、舞台の上で歌うことで変われるからその魅力に憑りつかれてしまう。そういうミュージシャンのなかでもとりわけ魔法のような存在がアイドルなのだというがこの小説だ。何しろアイドルは別に音楽の技術を極めたプロフェッショナルなのではなく、技術的には中途半端なミュージシャンであり、その持たざる者としての強さや美しさを愛でることになっている。その意味でアイドルはロックやパンクと相性が良くて、この物語でも例えば歌を歌わずにひたすら観客を殴っているアイドルがいるのもうなづける。
 魔法は舞台という装置がないと発動しない。だからどの魔法も一期一会のものだ。石川博品作品では、抒情的逸脱の箇所では「過ぎ去っていく何気ないこの一瞬」を静かに惜しむ描写がとても多い。大切なもの、美しいものはいつも僕たちの元から消えて行こうとしており、惜しむことはおしとどめるための呪術的な仕草でもあるが、本当はむしろそのような感傷が出てくる前の普通の描写こそが惜しまれないからこそ一番美しい時間であるという仕掛けになっている(その仕掛けはラブライブにもたくさんあるのだろう)。
 それはモラトリアムの時間であって、今の僕はモラトリアムなんていう言葉について何か言うのは犯罪とされるような年齢になってしまったと思っていたが、人生における転機なんていうのは若いときだけなのではない、惜しむことができるのは若さだけではないということに気づいて、おっさんになっても(主観的には)甘い時間をけっこう楽しめてしまえている。
 それは例えば、子供ができるかもしれないということだ。夫婦二人だけの静かで気ままな生活がもうすぐ終わるかもしれない。何十年後かにそんな時間がまた戻ってきたとしても、それは今のこの時間とはたぶん違うものだろう。家族が増えるかもしれないという未来を夢みる楽しさとは別に、この今の生活を惜しむ気持ちがあって、僕とはだいぶ違っているだろうけど妻も彼女なりに惜しんで泣いているのが嬉しい。彼女は精神的に弱い人間なので、これから負わなければならない責任を想像して早くも打ちのめされているということもあるが(最近さらに僕への依存が強まっている)、そのことを互いに知っているということも含めての甘い時間だ。そしてこういう感傷は授かるかもしれない子供には直接的には何の関係もないことであって、本人も僕たちの感傷を押しつけられても迷惑するだけだ。
 変わることができるというのは幸せなことなのだと思う。こじつけ気味だが、アイドルはその幸せのメタファーなのだ。

歴史の息遣い

青木健『ペルシア帝国』

ペルシア帝国 (講談社現代新書)

ペルシア帝国 (講談社現代新書)


 ペルシャについてきちんとした本を読んだことがなかったので勉強になった。とはいえ、これほどのページを費やした割には有意な情報はあまり多くなかった気がする。ほとんどが支配者の系譜の記述で、社会・経済・文化に関する記述は少ない。また、その支配者たちの名前自身がペルシャ語からの音写で、長いし長音記号が多いし耳慣れないので頭に入らない。時々入る筆者のぼやきやつっこみもあまり面白くない。歴史書においては語りが重要だが、筆者も白状しているように、本書は元もメモ書き的な記述をベースにしたものらしいので、語りとしての面白さや快適さはいまいちだ。
 僕が知りたかったのはどちらかというと存在していないペルシャ、幻想としてのペルシャの方なのだが、現実の方のペルシャを知っておいた方が安心して幻想を楽しめるのかもしれない。というのも、いずれにしても現実のペルシャもよくわからないものらしいからだ。信頼できる記録があまり残っていない時代が多く、例えばアケメネス朝とササン朝の間の500年くらい(ヘレニズム時代)はペルシャ帝国が地方豪族レベルに縮小した空白の時代とされており、幻想の余地はいくらでもある。貨幣の分布や碑文でどうにか帝国の輪郭を予想できるレベルの解像度なので、やはり文学の力を借りなければどうにもならない。ペルシャ旅行をするまでイスラム期とそれ以前の区別もろくについていなかったくらいなので、まだまだ先は長いけれど。

 

ブリューソフ『勝利の祭壇』
 なんだか古代のエキゾチズムを味わいたくて本棚から引っ張り出してきたブリューソフ全集の中にあった、4世紀のローマの話。キリスト教とローマの土着宗教が拮抗していた時代のビルドゥングスロマン。主人公はガリアからローマに勉強に出てきた青年で、都会生活や勉学を楽しみつつも、皇帝暗殺によるキリスト教の根絶をもくろむローマ随一の美女、下宿先の元老院議員のませた幼い娘、玉の輿を夢見る売春婦、過激なキリスト教徒の娘などに翻弄されるエロゲー的な展開で楽しめる。時間があれば翻訳してイラストをつけて同人誌とかにできれば楽しいだろうな。
 まだ4分の1くらいしか読んでいないのでどうなるかわからないが、特に最後の真面目なキリスト教の娘レアは素晴らしい。自分が正しいと思い込んでいるからいつも主人公にはしゃべらせず、命令して従わせようとする。道中で出会った主人公を一方的に運命の人だと決めつけてストーキングし、アンチキリストを到来させるためにセクトの集会で性的な婚礼を行い、その後もローマからミラノまでストーキングし、主人公が活動への協力を断るとショックで気絶し、泣き出し、そのままことに及んでしまう。現実でこういう人に振り回されると、彼女を信じたい気持ちとあまりの断絶に醒めていく気持ちが入り乱れて大変だが、こうして小説で楽しんでいると懐かしさも感じる。レアにはハッピーエンドがなさそうなのは残念だが仕方ない。
 ロシア象徴主義のパイオニアであるブリューソフ自身は退廃的な詩を書いていたが冷静な理論家で、ファンの女性との関係がもつれて殺されそうになっただか女性が自殺しただかがあったはずだ。ベールイは幻想と現実の乖離に苦しんで病み、謎めいたグロテスクな小説や詩を書く方に行ってしまったが、冷静なブリューソフはまっとうな歴史娯楽小説にまとめてしまうのかもしれない(古代ローマに事物や文学に関する作者の注釈も充実している)。詩人としてのブリューソフは言葉の響きが硬くてあまり好きではないが、小説家としては割と疲れず楽しく読めるかも。

クラーク『楽園の泉』

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

 今年はイリヤの空を読み返すことはなかったが、夏なので攻めて一冊くらいはSFを読んでおこうかなということで、1987年の茶色くなった文庫本を本棚から引っ張り出してきた。
 恋愛要素はゼロなので(主人公は工学しか頭にないような初老のおっさんであり、クラーク自身も同性愛者だったとか)切ない余韻のようなものは皆無だが、読みやすくて爽やかなSFだった(訳文もよかった)。作者あとがきを見ていると、この作品(1979年刊)が書かれた1960~70年代は米ソが宇宙開発競争を行っていたSFの青春時代の雰囲気が感じられた。軌道エレベータのアイデアも西側とソ連でほぼ同時に科学者たちが発表していて、宇宙飛行士レオーノフとクラークの交流が言及されていたりして何とも明るい。このあとがきでクラークは、ひょっとしたら軌道エレベータは22せいではなく21世紀に実現してしまうかもなんて書いている。そういう時代だったのだ。
 それからわずか13年後にソ連は崩壊し、ペレーヴィンが『オモン・ラー』で国家権力が演出したフィクションとしてのグロテスクな宇宙飛行を描く。それから世界の宇宙開発はほぼ止まり、近年になってようやく最初の宇宙観光ビジネスの実現がみえてきたありさまだ。今のところ新しい変化として現実的なのはせいぜい通信衛星打ち上げサービスの一般化くらいだろう。国際宇宙ステーションはまもなく予算不足で半ば破棄され、誰かがうまく活用してくれるのかどうかも分からない。本作で描かれたような超強度の複合素材の量産は実現しそうな気もするが、現在の世界の未来感の乏しさをみていると(インターネットもSNSもAIもまだまだだし、そもそも内向きな技術だし、社会や経済の問題もちっとも改善されていないように見える)、たとえ開発されても僕が生きている間に革命的なことが成し遂げられることはなさそうで残念だ。
 あえてエロゲーの話をするなら、空中から硬質な糸を両端に伸ばしていくようにして軌道エレベータをつくっていくというイメージは、『素晴らしき日々』で希美香と卓司が成し遂げた、学校の屋上を音楽により伸ばしていき、サファイアの結晶を育成するようにして宇宙にまで到達した楽しい儀式をふと思い出させてくれた。現実がSFに置いて行かれ始めたとしても、文学は何度でも新しい装いで戻ってきてくれる。

堕落ロイヤル聖処女 (90)

(神をかわす幸せな物語。新約聖書に触れたことがある人におすすめ。これからプレイする人は以下は読まない方が楽しめます。)

 

☆BC

 なんとも残念な安っぽい作品名だが、それがこの作品が示しているものを汚そうとしていることも含めて収まりがついているといえばついている。世紀末的な退廃の美意識を漂わせる作品であり、本当ならばユイスマンスの小説っぽく『聖処女』とだけしてもいいのかもしれないと思わせるが、このテーマがエロゲーとして成立してしまうところに(少なくとも僕にとっての)救いがある。他の人のレビューを読んだりこのサークルの他の作品がどうだったかを思い出したりしているうちに、この作品は僕にとって大切なものになるかもしれないという予感が大きくなり、手間をかけてパッケージ版を取り寄せたけどその甲斐はあったと思う。
 何に似ているかという話から始めるなら、この作品は田中ロミオ作品のエッチシーンのみを抜き出して引き伸ばしたかのような趣きがある。しかも絵が美麗で、ヒロインの声は耳に心地よく、それほど衒いはないので、本来の用途にも十分適している。衒いがなくてどこがロミオといわれるかもしれないが、そもそもヒロインを汚し、傷つけ、許され、共犯者になり、二人だけの強固な世界を作るという聖女もののジャンルがロミオ的だし、それ以上に滅びの空気や刹那的な諧謔に満たされた文章にも近いものを見出したくなる。誰かが魔王を滅ぼして世界は平和になったはずなのに、かえって神の不在が感じられ、原罪を意識せざるを得なくなって穢れの中に踏み出す聖女。そのときに悲壮感ではなくユーモアと皮肉で武装するからこそ幸せを見出したくもなる。どうせ堕ちなければならないのなら、幸せに堕ちたい。
 とはいえ、ロミオというよりはユイスマンスであり、ユイスマンスというよりは(アルトーによる)ヘリオガバルスのように思える。アルトーの小説というよりは、昔読んだ『アンチ・オイディプス』あたりで抱いた印象だけど。涜聖はフランス文学が大好きなテーマだ。
 ヒロインのセイナは本当に聖なる存在なのだろうかという疑問の余地はある。

「きっと、最も弱く卑しいものが、最も強く救われる時がもう訪れるんですもの」「だから私は、税とウスラと不正にまみれたこの富で、この体で、卑しい欲望に仕えたいと思います。……慰みものにしてくださいますか」(「下劣な方法でよければ」)「それが良いです……」(浅ましい俺は神を試したかった。恋を試したかった。「めちゃくちゃになりたい?」)「……なりたいです。世界が革命されるなら、高貴でいることに何の意味もないですから」

 個人的には、彼女がこういうキリスト教倫理をフランス的に解体するしぐさに、堕落だけなく必死の祈りのようなものも感じられて引き込まれてしまう。聖女といっても、セイナが自分を卑しいというときと、アン・シャーリーとか大草原の小さな家の誰かとかソーニャ・マルメラードワとかが自分を卑しいというときは聞こえ方がおのずと変わってしまい、カトリックはどうもうさん臭くて好きになれないのだが贅沢は言わない。一番卑しいのはこうやって余計な口をたたいている僕なのだから。
 セイナは言葉遊びの延長であるかのように主人公への「恋」を開始することを宣言するが(主人公も本気なのかよくわからないふうに承諾)、この歪さ、持続するのかわからない不安定さが、かえって二人が(戯れを装いながら)必死にしがみつこうとする契機になっているようにみえるのは声優さんと絵の力もあるかもしれない。魔王は不在、神も不在なのだから(神とは魔王のことなのかも)、確かなものなど何もなく、互いにしがみつき合って相手よりどちらが卑しくなれるか楽しく競うしかないのだ。
 涜聖といっても、本当に徹底的に破壊してしまうことはない。聖なるものは物理的に聖性を持っているのではなく、人間の象徴体系に位置付けられて聖性を帯びているに過ぎないのだから、その体系を少しいじって狂わせるだけでいいのかもしれない。「処女懐胎」のシーンだ。主人公は本当にひどいことをするものだが、それは涜神を行いながらも、冗談半分、本気半分で彼女を大切にしているようにも思えてしまい、彼女が喜んでいるならいいのかなと思ってしまう。そもそもこのメーカーのヒロインたちは聖女ばかりで、このような包容力は現実の女性には普通は期待できないという前提に立ち返れば、セイナは主人公と一緒にふざけられて喜んでいるに決まっているのだろう。そうなると、(「苦しさ?俺は苦しさなんて感じてませんよ」)「そんなはずはありません。この世界で、あなたには父も母もいません。肉親がいません。私と……同じです。ひとりきりで、父のない子は神のない子です。私が肉親になって差し上げます」(聖女として祭り上げられてきたゆえの尊大な目線を感じるが、それが今は少しだけ心地よくもあった。そしてこの姿勢[土下座]をとっていてもなお本質的な高貴は薄れない。)というやりとりにおけるセイナの言葉は、何やら妖しげな響きを帯びてくる。「幾重もの木霊に誓って。私の存在は間違っているかもしれないにせよ、私があなたにすることはきっといつでも完全に正しいのです」……力強い肯定。
 こうした遊びを経るうちに、いつの間にかセイナの身体は聖別され、「器官なき身体」のように喜びにあふれた身体になる。ような気がする。

 

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 やはりとんでもない作品だった。キリスト教的な神を扱った作品としては一つの到達点ではないか。最後の方は、賢者モードになってしまっていたということもあるが、半ば呆然と、神学的な問題と煩悩と個人の問題を掘り進んでいくテクストを見送っていた。最終的にヒロインが聖女というよりはほとんど神の子イエス・キリストになってるじゃないですか……。

――問い。
その子は神の子か?
あなたたちがそう言っているんでしょう。
種をまく。
すると種は芽を出し成長する。
青草になり穂が出、穂の中に実が満ちる。
そんな一説を思い出しながらセイナの身体を抱く。
セイナ 「ぁ、ん……、ゆっくり……」
聖女は堕ちた。俺以外から見ればそれ以外の解釈は難しいだろう。

 どこの聖句なのか分からないので間違っているかもしれないが、この流れだと麦の粒が落ちて多くの実を結ぶ話、キリストの死のたとえ話が連想される。堕ちる聖女というのは落ちる麦の実であり、ヘリオガバルスのように娼婦じみた格好で民に説教を行い、「そういう躊躇こそ踏み抜いてみせる」セイナは、パリサイ派に愛と自由を説くキリストのようなものだったということになる(「そしてもう一度聞きます。近頃増えている――この場に大勢いらっしゃる異国の民は、わたしたちにとって隣人ですか? 誰がわたしの隣人なのか? このような問いは見当違いです。――わたしは誰の隣人なのか? 離婚とか、個々の問題はそれぞれ話し合って解決するしかないでしょ。ただ、姦淫したからといって、異国の民だからといって石打ちにするのはちょっとどうかなって。あいつは姦淫したといって他人を裁く前に、まず自分を裁いてみたら? 律法を突き詰めれば、頭の中で姦淫してたら実際に姦淫したのと同じですよ。私も石打ちの刑にしますか? この私の姿を見て……姦淫を想像せずにいられる者がいますか? ね……。シたくなるでしょ……♡」)。

セイナ 「えっと、あの、その。おっぱい。もうちょっと触ってみて……?」
俺 「どうして」
セイナ 「いいから。さわりなさい」

……という箇所ですら、なんだかキリストが復活して弟子の前に現れ、殺されたことを示すために槍で刺された脇腹を触らせた話を思い出してしまうようで、脳が破壊されそうになる。セイナは死んでから復活し、聖女から聖母になってしまった……。
 というのは半分冗談だが、圧巻は、本作では「幾重もの言霊に誓って」、聖書では「はじめに言葉があった」という有名な聖句を、異世界転生の設定にひっかけて言語学的に解体し、はじめの言葉が生じる前の瞬間に愛の根拠を見出し、そのことで神の存在を否定すると同時に受け入れたシーンだった……と書くとなんだか陳腐になってしまうが、隙のない論理展開だった。

「……あのね。もしかしたらこの間にかみさまがいるのかも。うん。私の目と、あなたの目の間」――触れたと思った時にはもう触れ終わっている。見つめ合ったとわかったときにはもう見つめ終わっている。――見ている自分や触れ返されている自分に交差の中で気づき、自覚する。まるで何者かに促されたように。見つめ合って触れ合った瞬間にその何者かは過ぎ去っていく。静止する現在にしか居ない者。セイナ「本当は気づきたくないんだけど」――愛しい人の中にどこまでも埋まっていたい。――そこまで考えたときに朝陽が目に入り、俺の瞳の中に輝きを灯す。それがセイナの瞳にも写って乱反射する。俺たちを見ていないくせに見ている、腹の立つ奴がいる。存在していないのに存在している。――そいつからは逃れられない。聖女がいくら堕ちたとしても。最後には祝福を受けざるを得ず、どんな優しさにも介在してくる。――「、、、、、」――俺たちは間にいる存在を裏切って、自分たちだけの世界を手に入れた。――セイナ「神は存在しません」 今度は異常な静けさだった。数秒、この場の空気が完全に固まってしまってから――。セイナ「しかし、そこに居ます」 どよめきはまだ大きい。セイナは特にうるさく騒いでいるものの隣を指さす。セイナ「はいそこ。そこに居ます」 教師が生徒を差すような指だ。――セイナ「私は言います。生きて、愛しなさい」 そして自分たちだけの言葉を、音を、見つけなさい。セイナ「本当の天の国はそこに。すぐそこに。まさに、私たちの手の届くところに」――また、あなたと共に。

 

――セイナ「ふふ、だんだん素直になるね……♡」 いつもなら憎まれ口を返すところだけど、今は流した。――あの響きは過ぎ去った。やはりあの瞬間にしかないもので、今はもう音ではなく言葉になっている。それに二人とも気づいてしまっていて、繋がりながらもどこか不足を感じる。だから見つめ合ったり、手を握り合ったり、唇と唇を重ねたり。腰を動かして、快楽のなかで相手の存在を感じたりするしかない。――花婿と同席しているのに、優しくせずにいられましょうか[cf.マルコ2-18]。

 なぜ神さまについて考えるのにエロゲーを経由するのか。どちらも最も個人的なものだからだ。この作品を受け入れられる教会があれば洗礼を受けてもいいかもしれないが、そんな教会には二度と顔を出したくなくなりそうだ。代わりのこの、「いくら汚しても汚しきれない」神さまと戯れていた方が幸せになれそうだ。

声の引力

 上坂すみれさんの色っぽい音声作品が出たと知って久々にDLsiteの同人音声をいろいろ見てみた。すると澤田なつさんやかわしまりのさんや杏子御津さんの18禁作品もあると分かり、思わずいくつか買ってしまった。いちいち声優さんの出演作に知っているものがないか調べたりサンプル音声をたくさん聞いて回ったのでこれだけで2~3日かかったが、それはそれで楽しい時間だった。これに合わせてそろそろ限界が近かったイヤホンも新調した(2000円くらいのから3000円くらいのに強化)。
 一緒に「ものべの」のスピンオフ音声作品(非18禁)も買ったが、これは声優が多少聞いたことがある鈴谷まやさん(Pretty Cationの小町先生とか帝都飛天大作戦の瑞城お嬢様など)だったことと、彼女が演じるヒロインの雪御嬢という雪娘の熊本弁が可愛らしくて懐かしかったことに惹かれてだった。僕自身は九州の方言はしゃべれないが、親の実家があるので子供の頃に熊本弁に近い方言を聞いていた。だからしゃべるのはお年寄りやおじさんばかりで、若い女の子がしゃべる熊本弁をじっくり聞いたことはないので、不思議な親しみを感じることができる幻想の言語だ。僕にとってはお年寄りが特に重要ではないような世間話をするのんびりした言葉なので、のんびりしたあやかしの言葉になっても自然だ。ちなみに雪御嬢のゆきの出身地は最近洪水被害があった人吉の球磨だそうで、念のため僕も親に実家の安否を確認したりした。
 DLsiteではものべののメーカーが気前の良いセールをやっていて、雪御嬢の音声作品を1200円くらいで購入したら、1万円くらいするようなものべのハッピーエンドが無料でついてきたので、これも少しやってみた。堕落ロイヤル聖女は低価格作品ですぐにエッチシーンになって終わってしまうのでもったいなくて(それに家人がいると落ち着いて楽しめないので)なかなか起動できないが、ものべのは大作らしく当分エッチシーンはなさそうなので気楽に始められる。発売当時はいまいちピンとこなかったので流していたが、四国の山奥を舞台にけっこう設定にこだわって作った作品らしい。テキストは冗長でスピード感がないので、昔の自分がスルーしたのは無理もないが、今なら無料で入手して気軽に楽しむ分には行けそうだ。杏子御津さんの声は好きだし。タイトル画面の雰囲気もよい。イヤホンのせいか、BGMも心地よい。
 音声作品は、結局上坂さんのは今回は買わなかった。彼女の活躍をかげながら応援してはいるし、ついに彼女の色っぽい声をじっくり堪能できる作品が出たのは大変喜ばしいのだが、彼女の声自体は僕にとっては澤田なつさんやかわしまりのさんより先には来ないので、まずは純粋に聴きたい声を欲望の赴くままに選んだ。
 音声作品は長い。なぜだか耳掃除や耳舐めが定番になっているらしく、寝転がって目を瞑って聞いているといつの間にか眠ってしまい、気がつくとエッチなシーンになっていたりして、前に戻して聞き直しているとまた眠ってしまう。かわしまりのさんの「うたかたの宿」というシリーズの秋、冬、春の3作を買ったが、全部きちんと聴こうとすると1日が終わってしまう。しかし大変エロい。残念ながらエッチパートは薄いが澤田なつさんの声も相変わらず素晴らしい。久々に現役のエロゲーマーだった頃に戻った気分だった。
 そうして賢者モードになっていると、ついに家人が妊活を始める準備が整ったと言ってくれて(ずっとご機嫌取りをしていたのが報われたかな)、このタイミングかよと心の中で天を仰いだ。エロゲーマーとしての自分と家庭人としての自分の両立が試される時が来たと奮い立ったつもりだったが、その日は僕のコンディションが回復せず誠に残念な結果に終わった。これがいつか笑える思い出になればよいのだが、お互いに適齢期は逃しつつあり、持病もあるので難しいことも分かっており、なんだか不穏なスタートになってしまった。ハッピーエンドになるようがんばりたい。
 そして性懲りもなく同人音声の話に戻る。その他に、DLsiteのランキングで圧倒的な人気を誇っていた伊ケ崎綾香さんのかなり過激なエッチボイス作品も買っていた。彼女自身がシナリオも手がけたそうで、「本物を持っている女性が作る音だからリアルなのは当然ですよね」という力強い宣伝文句に好奇心が刺激されたということもあるし、ユーザーレビューでも彼女の音声表現に関する探求心の高さを称賛する声が大きかったということもあるが、要するに純粋なスケベ心からだ。4時間半の大ボリュームだそうだ…。
 まだ作品は聴いていないのだが、今日になって急に伊ケ崎綾香さんの名前に聞き覚えがあった気がして確認してみたら、なんと8年前に僕が声優さんに本名を呼んでほしくて台本を書いて音声作品を作っていただいた声優さんだった。その時の日記のエントリはご大層に「声の力」と題されている:

 ……音声作品にはCGの他に「台本」のファイルも同梱されていて、思い立ってこの台本を改造して同人声優さんに自分専用の音声作品を作ってもらうことにした。ちゅぱ音とか喘ぎ声とか、とても自分でゼロから書くのは無理なので台本があるのはありがたかった。
 一番の目的は、本名をたくさん呼んでもらってエロい声を堪能したいという弁護のしようもない煩悩まみれの欲求で、あらためて自分で書いた台本を見ると声優さんに申し訳なくなる。言い訳じみた宗教ネタを入れて少しストーリーと設定を工夫しては見たけど、性欲丸出しであることには変わりなく、次に進もうにもまずはこの願望を叶えてみないと始まらないと自分に言い訳。「萌えボイス」というサイトには600人以上の声優さんが登録されており、相当な時間をかけて200人ほどのボイスサンプルを聞いた中からこれぞという人を選ぶ執念に我ながら感心し、思い切って申し込んでみて、演出や設定に関する声優さんとのやりとりの細やかさにちょっと感動している。これが2回目3回目と慣れればもっと違ってくるのだろうか。まだ作品が出来上がっていないのでどうなるか分からないが、1文字2円の方に5000字弱をお願いしたのでエロゲー1本分強ですみ、十分お手頃な楽しみのような気がする。感想はたぶん書かないけど(書いて切り離したくない)、まあ万が一何か書いておいた方がいいことでもあれば。それにしてもこういうニッチな産業(しかもまだ発展途上)があるのを目にすると、性欲ってのはすごいなと思う。

 伊ケ崎さんは多分当時も界隈では知られていたと思うが、現在はさらに大活躍しているようで喜ばしい。2015年くらいから商業活動もされているとのことで、今ならもうこんなふうに制作を依頼することはできなそうだ。他の作品も買ってみようか……。この僕だけの作品は恥ずかしくて何度も聴けずにウォークマンの中に眠っていたが(1回聴くだけでも濃密な体験で、そのことに慣れてしまうのも何だか嫌だった)、この機会にこっそり聴き直してみるのもいいかもしれない。どんな気持ちになるだろうか。録音の品質は現在の作品よりだいぶ悪いけど、今の僕にとっては何か声以上の声が聞こえてくるのかもしれない。