総括とそれをすり抜けるもの

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

 一応、今年は7本クリアできたのか。こころナビとこころリスタと出会えたのでよい1年だったのかもしれない。秋以降に急に生活環境が変わって、最近はほとんどゲームをプレイできていないので(Бесконечное летоが止まったままで、他にも積んだままの作品がいくつか)、今年のことではないように感じられる。本もあまり読めておらず、仕事の資料以外の情報といえば、帰宅して寝る前に見るアニメとまとめサイトくらいで、ツイッターすら最近はあまり目を通せていなかった。時間を捻出しようと思えばできたのかもしれないが、仕事みたいにきつきつにこなしていくのはあまり気が進まない。ゆるく付き合っていきたい。
 独りに戻り、肉親と死別し、また婚約した。子供の頃の自分や家族、成人してからの自分を細切れに、生活の合間に振り返る。仕事バカになって残業代で給料が1.5倍になり、いやな緊張感から解放されないまま正月も家で仕事をしたり、婚約者のご両親に挨拶に行ったりする。バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、あるいは並行世界物のエロゲーか小説のように、いくつもの時間の中を行ったり来たりしているような気がする。自分の属性を増やし、足場を増やし、逃げ道を作っていくことは、生きることを楽にしてくれる。でもそれぞれの属性をうまくつないで回していく余裕がなくなると、頭を切り替えていくだけで精一杯で、それぞれの属性を実感を持って生き、伸ばしていくことができなくなって、責任を背負いきれなくなり、人格を統一しきれなくなり、多極性に復讐される。言葉や欲望は実体がないから無限に増幅していけるものだけど、物理的な自分はついていけない。何かを雑にしなくてはならなくなり、何かや誰かを傷つけてしまう。それを許してしまう雑な人間が自分だ。
 年末年始のつかの間の休日に、久しぶりに学生の頃の感覚を思い出させてくれる本を読んだ。本というよりは雑誌か。「ゲンロン4」。仕事の資料を買いに行った本屋で偶然手に取った。ゲンロンカフェには昔一度用事があって顔を出したことがあるけど、それきりだった。2001年から現在までの批評の特集。2000年代半ばからはてなダイアリーエロゲーの感想を書いている者、しかも動物化するポストモダンを読んで何かこじらせた挙句にエロゲーを始めた者、その後の彼のオタク批評活動に救われた者、そのような残念な青春にしがみつき続けている者、東浩紀スレやファウストゼロアカ道場の盛り上がりを「観客」として横目で見ていた者、オタクとしての自覚を深めながら必ずしも愉快ではない同時代性の感覚のぬるま湯につかっていた者、今は思うようにオタク活動に邁進できていない者にとっては、ちょっと感慨深い本だ。この15年間、いろんなものが生まれたり、生まれかけたりして、そして死んでいったのね。そんな風なら、僕はせいぜい観客でしかありえない。なにしろ世界や社会だけでなく、自分の人生に対しても観客になっちゃっている。ストリートの思想は確かに自分とは縁がなかったし、今も近寄りたいとは思わないけど、でもKeyの物語が進んでいったのはそっちのほうだったよなと思う。だからこそ、「運動」、共同体が中心に据えられる前の、OneとかKanonとか方が美しいと感じられるのだろうか。田中ロミオは単にサバイバル物が好きというよりは、時代の空気を器用に読んでいるのだなとか、「運動」や社会から身を守る砦としての聖域、ユートピアを果敢に描いた最果てのイマはやはり美しいなとか思う。東浩紀は15年前のようにはじけてはおらず、この先もはじけることはないかもしれない。共同討議の他の参加者たちは、何だか東フォロワーみたいな小粒な人ばかりで、討議の対象もあまり前向きとはいいがたく、新しいものの誕生の予感はない。何かを横断することは難しくなくなったのだろうけど、今残っているのは安全な横断ばかりだ。そんな中から新しいものは生まれてこず、文学や社会学より経済学や政治学の方が重要だと浅田彰は言う。誰もワクワクしていないけど、それでも東浩紀が楽観と責任感を捨てようとしないから、観客たちはまだ待つことができるのだと思う。特集以外のいくつかの連載は、質も文脈もバラバラで、問題意識に多少の共通性が見られる程度の雑誌のコンテンツだ。韓国やタイやロサンジェルスは少なくとも僕にとってはまったくアクチュアルには感じられない。東北もだ。知的さざなみやグローバリズムの幻想に過ぎない、というと言いすぎか。自分はロシアのことばかり知ったかぶっているだけだし。雑誌というのは個々のコンテンツはバラバラでも、一冊の中にまとめると何だか単純合計以上のものを表しているように見せてしまう器なので当然ではある。とはいえ連載や寄稿の種類はそれほど多くなく、雑誌としてはミニマムだ。発行部数が少ないだろうから仕方なく、その辺の厳しさが垣間見えるのは切ないが、東浩紀にはそんな瑣末なことは気にしないでほしい。巻末の海猫沢めろんの小説(時代性を無視したロックな衝動の小説。バタイユのような衝動を現在ぶちまける意味があるのか不明だが、ロックにとっては時間は現在でしかありえないので、そんな問い自体が意味がない。)くらいやけくそでもいい。何かと叩かれることが多いし、確かに失敗もしただろうし、大抵の批判は間違っていないのだろうけど、2000年代に彼よりも夢のある仕事をした批評家、夢のある課題に体当たりでぶつかっていった批評家は僕にとってはいない。それがすべてだ。彼がオタク批評でやらなかったことは別の誰かがやるしかないし、実際にやった人もいるだろう。そういう意味では僕にとっても過去の人なのかもしれないが、過去は現在の中にも潜んでいる以上、そのことはあまり問題にはならない。そうして2017年はやってくる。

「凪のあすから」の話

 最近、偶然なのかもしれないけど「ブルー・フィールド」(蒼き鋼のアルペジオED)とか「a-gain」(蒼の彼方のフォーリズムED)とか、青い色とか空を連想させる歌を買って聴いている(「愛の詩」(学戦都市アスタリスクED)もよい。ついでにナディアのDVDも見返した)。やっぱ歌に関してはエロゲーよりアニメの方がよいものが多い気がする。映像とセットで印象付けられるからかもしれない。このままではplanetarianのEDとこの美術部には問題があるのEDも油断すると買ってしまう気がする。
 この辺の歌とかエロゲーで糖分を摂り過ぎたせいか、久々に「凪のあすから」を見たくなって、美海まとめ動画とかを見たり、主題歌(特に「アクアテラリウム」と「ebb and flow」がよい)を買って聴いたりしていたら一日が終わってた。以前に書いた感想と同じような話になるけど、主題歌の歌詞に「温かい水に泳ぐデトリタス/長い時間をかけて糸を紡ぎながら繭になる」とあるように、デトリタス(海中を浮遊する微小な有機物の死骸)が海中だけでなく地上の漁村をも漂うようなひんやりと寂れた背景と、美海たちの抱え込み堆積した気持ちの組み合わせに打ちのめされる。
 脚本家のスタイルということもあるのかもしれないが、アニメではこういう満たされない思いを抱えた若者の群像劇というジャンルがあって、男キャラの顔や語りを見せられてもこちらの目や耳は喜ばないのだけど、そいつらがいなくてはヒロインたちが輝かないという意味では、僕たちもその満たされない思いの連鎖(チェーホフ劇的な連鎖)にいびつな形で巻き込まれてしまっていて、視聴者→ヒロインたち→男キャラたち→他のヒロインたち→他の男キャラたち……作品枠の有限性という外的要因による終わり、という経済の一端を担ってしまう。
 こういう欲望の(年齢制限を含む)閉鎖的循環を解放するために要請されたメカニズムが、ヒロインとの矢印を可能な限り双方向にしてひたすら物量で攻めるエロゲーであって、エロゲーはアニメの次世代のはずなのだが、解放するばかりがいいってわけじゃないんだよなあと思わせる作品もある。こちらの気分に左右される部分も少なからずあるのだろうが、作品自体が研ぎ澄まされていれば、はまると一気に引き込まれる。せめて輸入版DVDくらいは買うべきなんじゃないかと考え込んでしまったが、とりあえず主題歌を何度も聴きつつまた時間が過ぎてゆく。いや、さゆと要の話とか、光をめぐる三角関係の話とかまだあってもいい気はするんだけど(一番好みのちさきは申し訳ないがエロい想像しかできず、何だか嬉しくない)、多分出てもそれはそれでまた満たされない気持ちが残るのだろうから、もうどうしたらいいか分からない。いい加減こんなことをブログに書くような歳じゃないんだけど、ここはそのためのスペースだと開き直りつつ敢えて書いておく。これからも書いていく。それにしても今でも後半のOPを見ると引き込まれる。そのことを確認して終わっとこう。

石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』

 アイドルについてのガチな小説なので、そのシステムにアレルギーを持つ自分にとっては一筋縄ではいかない代物だ。確かに文章は素晴らしいんだけど、アイドルっていうのがなあという。例えば、『Key the metall idol』という渋いアニメがあって、そこではロボットや民俗学の概念を借りてアイドルという概念が補強されているので安定感があるのだけど、このメロリリはもっと剥き出しのアイドル観を押し出してくる。アイドルたるもの、アーティストぶるな、それじゃ見るほうが気を遣うわ、という。つまり歌や踊りにプロフェッショナリズムは要らない。もちろん、一生懸命練習して努力はするけど、一番大事なのはそこじゃないという。また、アイドルは何かの手続きを経て選ばれてなるものでも、ファンの数とか曲の数とか所属組織とかはっきりした指標があるものでもなく、本人がアイドルになると決めた瞬間に出現するものだという。つまり、とても儚い仮設建設のようなものであり、持ち運びできる機材を組み立てて会場を作り、ファンが一時的に集まってきてよく聞こえなかったりよく見えなかったりしながらもなんか盛り上がって、ひと時出現する疑わしい魔法のようなものなのだ。作中ではLEDというAKBをもじったグループが変な衣装を着て媚を売る大手として目の敵にされているけど、傍から見れば沖津区の若者たちも同族に見える。素人感がさらに増しているので、あざとさも増し増しと言えないこともない。
 確かにライブのシーンの臨場感は素晴らしい。剥き出しのアイドル観、技術のない素人が作り素人が歌うステージ、(嫌な言葉だけど)人間力で魅せるステージというものは、芸術や歴史や超常的なものがなければ物事に価値を見出しにくい、人間不信気味の自分にとっては胡散臭いものだけど、ここではアコにある種の天才性が付与された描写がなされている。それは単に主人公が彼女に恋をしているからというだけのことかもしれず、また、実際のコンサート会場の客には知ることのできないステージの裏や歌手の心理といった細部を描ける小説という形式の狡さであり、また優しさなのだろう。
 同じステージ音楽の魅力を描いた作品としてキラ☆キラがある。こちらは初心者グループの成長物語という点ではメロリリよりも本格的で、悪く言えばメロリリのキャラ配置やストーリーの流れはキラ☆キラの縮小版のようにも見える。そしてきらりの天才性の表現は割りと中途半端で(エロゲーだと実際に音楽が鳴るので、ライターにはコントロールできない部分があるので仕方ない)、作品の主題もそれとは別のところにあった。メロリリでは、アイドルというシステムに乗せて青春を描くという主軸とは別に、ヒロインの「内面」(悩み)に迫る描写が多かったのは石川博品作品にしてはベタだなと思った(その悩みにしても、割とよくありそうな感じでのものでやや拍子抜けだった。というか、後半はストーリーの展開を詰め込みすぎた気もする)。同系の作品としてヴァンパイア・サマータイムトラフィック・キングダム、ノースサウスのような作品はあるけど、これらはどちらかというと実験作だと思っていて、石川作品の魅力が発揮されている本流は、ネルリや後宮楽園球場や平家さんのような、女の子を不思議な魅力に溢れた存在として描く作品だと思っている。女の子しか出ない四人制姉妹百合者帳でさえも(それとも女の子しか出ないからむしろ当然なのか)こちら側なのだから、石川センセの童貞力は筋金入りだと思うのです。
 その意味でアーシャの方はまだ「見られる」キャラクターとして描かれて部分が大きいので、もし続刊があるのならそのまま素敵な奇人路線を突き進んで欲しい。最後にチラ見せしたアコとの妖しげな友情路線もよい。この巻だけで判断すると、アコの陰に隠れてあまり分からなかったのが残念だ。インド(?)舞踊のような不思議な踊りも文章ではよく分からないし。
 僕にとっては石川作品で一番ハードルが高い作品だったけど、アーシャやアコの掛け合いや心の中の突っ込みが愉快な方向に転がっていって飽きさせず、下手に深刻ぶらない、というか深刻さを乗り越える軽やかさがあってよかった。この軽さは若さの特権であり、無からきらめく何かを作り出すアイドルという幻影のシステムに、明るさを与えてくれていて素晴らしかった。本物のアイドルやアイドル育成ゲームは相変わらず痛ましくて好きになれないけど、石川作品ならアイドルのきれいな部分を存分に見ることができるのだから。

クソゲーの文学性

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

星空めてお『ファイヤーガール』

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクターの物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語を卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。
 未知の世界のセンス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公がクールなイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式の教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活を単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。

森薫『乙嫁語り』

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

 ヒロインの身体を覆い尽くす装飾文様が緻密であればあるほど、それを追う視線はじっくりとヒロインの身体の上を這い回り、その装飾文様が抽象化された意匠であればあるほど、視線はひたすらその線と模様の運動にとらわれる。そうした装飾文様と、その文様を自ら布地に刺繍して刻んでいった、これから嫁になる、あるいは嫁になったばかりの女性たちの若々しい表情のコントラストが鮮やかで、「語り」とは銘打たれているものの、どちらかといえば物語や音声を聞くというよりは視線の運動であり、鑑賞であるような作品だった。エロゲーにおける微細に描き込まれた瞳や髪、服のテクスチャなども同種だ。こちらは健全な内容だけどエロい。時々裸体の描写も出てくるけど、あくまで衣装を着た身体が本体だなという感じがする。
 だからこそ、せりふが少なくて抑制気味だけどじっくり鑑賞できるエピソード、アミルとタラスの話がよかった。特に新しい何かがあるわけではないのだろうけど、小さな夫に一途なアミルと、悲しい未亡人のタラスの美しさには抗えない。双子姉妹はキャラデザはよいのだけど話の展開の仕方にデフォルメ感が強すぎて、ドタバタと落ち着きがなくて疲れたし(ただし、双子を独立した人としてではなく、二本の線のような一種の文様としてみるとその運動に嘆賞できるし、爽やかな読後感ではある)、男どもの戦いの話は男どもの身体に視線を這わせても仕方ないので普通のアクションマンガとして読まざるを得ず、アニスの話はなんかもう絵的にも別ジャンル過ぎてハラハラした。パリヤさんは表情はいつも落ち着かないけど、嫁になるために一生懸命な姿は素晴らしい。
 作者が自分と同年代で、中央アジアの衣装フェチであることが作品の動機になっているというが親近感が沸く。中央アジアはこの作品の時代からだいぶ変わってしまい、それは作中でも影を落としている西洋文明、というかロシアとソ連のせいであり、今では石油・ガスが出る国と出ない国に二分された感がある。出る国(カザフスタントルクメニスタン)はオイルマネーで今のロシアの都市部ような殺伐とした景観を保っており(農村部とかはソ連の農村的な何か)、出ない国(ウズベキスタンキルギス)は貧しいまま、人々はロシアなどに出稼ぎにいってどうにか生きている。知り合いでキルギス人の嫁と結婚した日本人がいるが、嫁の村での結婚式は大層な見物だったそうな。この作品は19世紀のウズベキスタン辺り(ブハラとか)がモデルになっているそうだ。僕は中央アジアカザフスタンしか行ったことがなく、中央アジアで一番経済規模の大きなカザフスタンは上に述べたとおりの有様だったので(料理は確かにああいうのが出てきたけども)、もう少し南の方、サマルカンドとかブハラとかタシケントとかフェルガナとかをいつか旅行者としてみてみたいというのはある。昔、ウズベキスタンの国歌の詞を作ったという詩人が来日したときに話を聞いたことがあるが、かの国は中世のイスラム詩人アリシェル・ナヴォイの故郷であるとか古めかしい話ばかりしていて却って好感が持てた記憶がある。中世イスラム詩といえば、花や女や酒をテーマに、編み物のように脚韻やフレーズが反復されて絡まりあった典雅な様式で、まさにモスクの唐草模様や女性の衣装の文様のイメージである。といってもそれは素人外国人のオリエンタルな妄想であり、よく資料を研究している本作であっても果たして19世紀の一般人が日常的にあれほど美しい服を着ていたのか分からない気がするが(着ていたとしたらかなり裕福な人たちだったように思う)、そこは優しい幻想であってもいいのかな。嫁入りという出来事はいつの時代にあっても重要な人生の転換点だったし、とても美しい何かだったのだろうから、それを主題に据えただけで本作は正しさを手に入れている。結婚に至るまでを描いたモンゴメリの小説も昔たくさん読んだが、こうした話は何度繰り返してもその度に美しく、その意味では抽象的な美しい文様のパターンと同じなのかもしれない。
 森さんがわざわざ中央アジアに取材に行かれたというのは嬉しいことで、次巻以降にその成果を期待できるそうだ。僕も以前、有名なマンガ家(本人ではなく出版社の担当編集の方だが)のロシア取材に協力したことがあるが、ロシア編はいつ始まるのだろうか。ともあれ、現実を美しい幻想に作り変えられるのは羨ましいことで、ありがたいことだ。

山本弘『アイの物語』

アイの物語 (角川文庫)

アイの物語 (角川文庫)

 山本弘といえばソードワールド短編集の作家という認識。といっても、ソードワールド小説を読んでいたのは中学生から高校生くらいの頃だけで、当時はラノベを知っている人なんて周りにほぼいなかったし(一人友達でいたけど、僕と違って明るくてひょうきんなキャラの人だったのでとても共有しようなどという気にはならなかった。というか、当時の僕の性格では、ラノベの楽しさを誰かと共有することは不可能だったと思う)、フォーチュン・クエストロードス島戦記よりもさらにディープな感じのするソードワールドシリーズは、エロ本のように人から隠れて嗜まねばならないものだった。僕以外に世界で読んでいる人などいないような気がしていた。町の本屋さんとか、立川のフロム中武の大きな本屋とかでこっそり探していたあの頃が懐かしく思える。ソードワールド短編集は複数の作家が(妄想を共有して)書いているというそのシステムが当時の僕にはとても夢のあるシステムのように思えて、作品の出来には波があったけど、たいてい一作か二作はけっこう面白い話が入っていて満足したものだった。雑誌の原理と同じで、個別のコンテンツの単純な総和よりも全体の方が面白く見えるというやつだ。そして面白い一作か二作というのは山本弘の作品であることが多くて、自然にその名前を覚えていた。当時はネットなんてなかったからその名前を検索することなんてのもできず、短編集の目次を見て、あ、またいるな、と思うだけである。もう内容は忘れてしまったけど、――「ナイトウィンドの影」「マンドレイクの館」「スチャラカ冒険隊、南へ」「ヒーローになりたい!」「君を守りたい!」「愛を信じたい!」――ウィキペディアをみたら懐かしい作品名が並んでいた。後半3つのサーラの冒険シリーズは確か恋愛要素があるんじゃなかったけ?結構ドキドキした、というか性的興奮さえ覚えて何度も読み返していたかもしれない。絵もけっこうエッチだったはず。
 その後、ソードワールド小説を読まなくなって、自然と山本弘の名前も忘れた。と学会の人だったことも知らなかった。今回はブックオフでたまたま手にとって買ってしまった。
 というわけで、二十数年ぶりにこの人の小説を読んだ。さすがに衝撃的な斬新さは感じなかったけど、読みやすい文章で萌えるポイントをうまくとらえつつ、爽やかで夢のあるお話を語るのは、ソードワールドの頃と変わっていないように思えた。「ときめきの仮想空間」のジュブナイル感とか、ストレートすぎて無事に終わってくれるか心配になったくらいだ。「詩音が来た日」では、昔老人ホームでバイトしていたときのことを思い出した。終盤の章では、AIにとっては僕たちの現実こそが仮想現実であり、人間というキャラに幸せにするためのゲームであるという構図は元長的というかエロゲー的で小気味よく感じた。人間と理解することは出来ないけど許容することは出来る、そして自分たちなりに愛することも出来る、というのは、別にAIと人間の間だけの話ではなく、普通に人間同士でも起こっているようなことで、この「そして自分たちなりに愛することも出来る」の根拠の不安定さが見方によっては不穏でもあるのだけど(愛せない場合には、「許容」という言葉のニュアンスが寒々としたものになる可能性が高い)、この作者はそんな嫌らしいところをほじくらずに、主人公の少年を素直に納得させ、美しく話を締めるのである。明快だけど夢がある。それにしても、人類は衰退しましたでもあったけど、宇宙はもう有限の存在である人間には物理的に届かないものになってしまったというは寂しい。アイの世界ではどうやら人間のデジタル化とかできなかったみたいだし、見事に衰退していたし。あと人類の欠点、愚かさが単純化されていて、そんなにバカばっかじゃないような気もするけど、そんなところつついても仕方ないかな。高度なAIとアンドロイドの普及まで何とか生き延びたい。

どうにもならなそうなこと

 趣味の壁は三次元の壁と同じくらい高い。言葉で伝わること、説明して説得できることのさらに先に趣味の領域がある。
 以前に仕事でご一緒させていただいた関係で招待券をもらい、上坂すみれさんのライブに行ってきた。オタクイベントに行くのは2,3年前のかわしまりのさんのトークショー以来で、当然ながらライブは初めて。上坂すみれの歌やキャラクターについては2年前に苦しげな感想を書いた通りで、その後もまだ取っ掛かりをつかめずにいる(つかもうとしていない)。アニメ声優としもアイドルとしても成功していってるのは喜ばしいけれども。


 ライブの歌は、多分ありがちなことなのだろうけど、演奏の音量が大きすぎて声がよく聞こえなかったところが多くて残念だった。大半がアップテンポな曲なので声が荒れてしまうし、曲自体もいまいちなものが多いので、声を良く聞けたとしても楽しめたかどうかは分からないが。知っている曲では唯一の割と好きな曲である「テトリアシトリ」(作詞作曲・桃井はるこ)は、視覚的な演出も含めてけっこう丁寧に聞かせてくれたので嬉しかった。あとは何というかしょっぱい曲が多いのだが、上坂さんの前向きな性格とファンの人たちのエネルギーの勢いで乗り切った感じだ。サイリウムの統率感や野太い声の必死さはむしろ心地よく、「かがやきサイリューム」とかこんな感じなのだろう。けっこう危ういバランスだと思うが、ラジオとかでしゃべり慣れている声優だから、若さでごまかさなくても、音楽だけじゃなくてホスピタリティみたいなところで楽しませてくれるのがよい。いまいちであっても、なんかMCでしゃべるためのネタとかちゃんと考えているみたいで、そこは応援したくなる。あと、やっぱ整った美人なので踊り回っているのをただ見ているだけでもそれなりに絵になってしまう。三次元の壁がとか何とか言っても、アイドルが太ももや腋を惜しげもなくさらして動き回っているのには目を奪われてしまうおじさんである。上坂すみれの声は張りがあって弱くない、お姉さん声なので萌えるのが難しいのだが、それなのにひらひらの服を着てアイドルをやっているという論理が飲み込めず混乱するおじさんである。その若さ、美しさは涼しげで、意味が分からないけど(まだこれぞというはまり役を見たことがないからかもしれない)、分かろうとせずになんとなく視線を奪われて置けばよいのだろう。どうもありがとうございました。以上。
 徳が高いエロゲーマーであり、素晴らしいアジテーターであるtempelさんの素晴らしいエントリを読んでエロゲーをやりたくなり、挙げられたゲームの体験版をいくつかやってみたけど、自分でやってみるとあんまり面白くないんだよな。大図書館の羊飼いもそうだった。とても説得力のある感想なのに(特に僕がけっこうひどいことを書いてしまったCationシリーズに関する指摘には唸らされたし、女の子をチヤホヤできない男としては耳が痛いところもあった)実際にプレイしてみると合わないという趣味の壁。自分の許容幅が狭すぎて情けない。もっと楽しんだほうがいいよと人から言われることも多いのだが、趣味だからこそ無理して何かを受け入れたりはしなくてもいい。絵がきれいな星織ユメミライなら何とかなるかなと思って買いにいったけど、高かったので結局事前情報ゼロで美少女万華鏡というの選んできた。八宝備仁氏の絵は以前に能天気な抜きゲーをやったら失敗して苦手意識を持ってしまったかも知れず、このシリーズで楽しめるように慣れるかもと期待している。

言葉の上滑り

 描かれていることよりも描かれなかったこと(わざと黙っていたことではなく)が気になるときというのは、何か別のものを欲して無いものねだりをしているときであって、読み手としてはだめなときなのだけど、一期一会なのでたまには覚え書きくらいは残しておこう。
 これまで何度か名前を見かけて気になっていた長野まゆみの本を探しにブックオフに行ってきた。『上海少年』と『鉱石倶楽部』を買ってきたけど、これがこの作家の中でどういう位置にある作品なのかはよく分からない。『上海少年』は僕の目には、映像美に優れていて印象的なシーンはあるけれど、それは視覚的な美しさであって精神的な美しさは衰弱していて、退廃的なように映った。長野まゆみ宮澤賢治を愛読しているとのことで、確かに言葉遣いにはこだわりを感じる。でも宮澤賢治が持っていたような苛烈さがなく、世界に対して生産者ではなく消費者としてしか関われないように見えた。少年の同性愛という美学の儚さ、無意味さにもつながり、それが悲劇ではなく居直っていることの後ろめたさを感じる。『鉱石倶楽部』で石をひたすらスイーツに喩えているのは(スイーツ以外に幻想の風景に喩えていた場合もあったけど、スイーツが特に目に付いた)、バブル時代の軽薄さを感じるし、後書き部分で作者がそんな自分の頭の悪さを揶揄してみても開き直りに見えてしまう(ファンの方が不快な思いをされたら申し訳ないが、あくまで僕の個人的な感想なので)。でも僕が、こんなふうに形ある意味、結果を出すものにしか意義を認めないのは粗野で下品な根性なのかもしれない。僕自身デカダンスは好きなはずだけど、たぶんただのスノッブなので小市民の地が出てしまうのかもしれない。革命の理想に人生を捧げたデカブリストの話を読んだ後では、ことさらそうなのかもしれない。とはいえ、『鉱石倶楽部』はいさぎよく視覚的な美の表現に自らを限定していたので、まだ性質がよかったかもしれない。鉱物の美しさは単なる化学現象であって、精神的な美しさは人間が外部から読み込むものだ。だからたとえその外部の美を共有できなかったとしても、そこに美を求めようとする姿勢には共感できるという最低限の保険がある。
 あと、以前人に勧められていたウディ・アレンの『アニー・ホール』のDVDも見つけたので買ってきた。見てみたら、20歳くらいの頃に一度レンタルショップで借りてきたけど、初めの部分を見て寝落ちしてそのまま返却した映画だったことを思い出した。離婚どころか女性と付き合ったことすらなかった当時の自分には、まったく意味が分からないし不要な映画だったので、当時全部見なかったのは正解だった。今回は最後まで見た。コメディアンにもいろいろあるのだろうが、人の上に立って他人を笑い飛ばすインテリコメディアンは悲しい。人をおとしめて、自分もおとしめて、残るのは若かった自分たちに対する感傷だけである。ダウンタウンとかのお笑い文化も同じようなもので(ウディ・アレンダウンタウンと同じく楽屋裏物が得意らしい)、切れ味は鋭くても、俺もバカだけどお前もバカ、の世界では何も(生きては)残らないので好きになれない。それどころか、テレビで見ている者には感傷すらほとんど残らない。まあ、こんなふうにぐちぐちいうのは息苦しく凝り固まった人間なのだろう。言葉は裏切るから、賢い人は言葉をつぐむのだろうが、コメディアンは常にしゃべっていなければならず、言葉はインフレで重みを失い(ラブレーの笑いの増殖性とはまた違うが、アルビー自身、アニーに「多型倒錯的だね」と言ったけど自嘲的に響くしかなかった)、それを補うために更にしゃべる。それはユダヤ的な去勢感覚だなんて、ロシア系ユダヤ人のウディ・アレンは言われ慣れているのだろうな。そんな呪いのようなものであっても、騒々しくて疲れるばかりであっても、アニーの家族の健全なアメリカ的痴呆生活よりはずっと魅力的なのかもしれない。感傷が残るだけでも素晴らしいし、それは大切にしていいものだろう。でも本当の理想の生活は、その二択とは別の答えなのだろう。何だか笑えるけれど美しいものだ。アルビーはアニーの笑顔にそれを求めていたのかもしれない。アニーの方はどう思っていたのかは分からないが、アルビーが真剣に何かを求めて、一緒に夢を見ようとしていたことは伝わっていたのだろう。
 あと、ついでに新井素子の『もいちどあなたにあいたいな』も買ってきた。解説で大森望が絶賛していたので騙された気になって。正直なところ、そんなにたいしたお話じゃなかった。エロゲーでも十分ありそうな設定だ。大森氏の言うようにこれが新井素子の最高傑作のひとつなのだとしたら、実はあまりすごい作家じゃないのではという疑惑が。和の運命の孤独ばかりが強調されていて、それはそれで正しいことなのだろうけど、一番救われないのは陽湖(主人公の母)だと思う。まあ、それは野暮なつっこみだ。もいちどあなたにあいたいな、という言葉の響きはよく、さすが新井素子なのかもしれないが。
 ふと、久々にフォーチュン・クエストを読みたくなった。途中からパーティ内の恋愛話っぽい要素が強くなっていっていつしか読むのをやめてしまったが、中学の頃に読んだはじめの数冊、海洋冒険譚の「隠された海図」くらいまでは素晴らしく面白かった。たぶん、2005年に出た「キットンの決心」というやつまでは読んでいたと思う。あの世界に浸りたくなるというのは心が弱っている証拠だと思うのだが、まだ読んでいないのがたくさんあるというのはありがたいな。読むかは分からないけど。


上海少年 (集英社文庫)

上海少年 (集英社文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

石川博品『平家さんと兎の首事件』

 コミケは3日目に用事が入ったので、結局2日目に行って石川センセの平家さん小説だけを買ってきた。その後、秋葉原に行って普段の職場近辺では見つけられなかった同人ゲーム「西暦2236年」と「彼女、甘い彼女」、ついでに「ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム」、及びガラケーのジャンクバッテリーを買ってきた。
 石川センセにはサインももらい、今度は離婚をテーマにした小説をお願いしますと冗談半分の無理なお願いをしてきたのだが、すでに今回の平家さんが離婚後の家庭を背景にした物語で、アクマノツマに続いてまたもや個人的にタイムリーな小説だった。
 作品としては、こういうビターな背景や学校生活のノスタルジックな描写があってこそ、平家さんや及川さんの滅茶苦茶っぷりが映える構成で、ネルリの時と似たような眩暈をおぼえそうになる。別に主人公の翔と平家さんや及川さんの恋愛物語だったりはせず、彼女たちは勝手に暴れまわっていて、翔は妹を気遣いながら彼女たちと仲良く学校生活を送っているだけなのだが、そのキャラクターの濃さと訳の分からない田舎ワールドの空気のおかげで、主人公兄妹(と僕)の悲しみは癒され薄められていく。普通は人が物の怪や怨霊を鎮めるはずなのに、まるで反対である。それから、下校する主人公の視点が急に、下校する生徒たちを引く波にたとえる海の上の漁師の視点に切り替わるシーンがあるが、そういうまなざしの優しさにもやられる。
 石川センセの文章の楽しさについてはいまさら言うまでもない、というか僕にはうまく言い表すことができないのだが、今回も何度も笑わせてもらった。平家さんの古文調の言葉の自在さも素晴らしかった。毎度ながら、自分が日本語話者であることに感謝したくなる小説だ。もう2〜3冊のシリーズ化はできないものでしょうか。