シンクレティズム

 桜庭一樹という作家は前からいろんなところで名前を聞いて気になってはいたけど、ふっと何かのついでの思い出して本を探してみてもなかなか見つからず、そもそもなに文庫で出ているのかも分からず、同じくなかなかタイミングの合わない佐藤友哉のように、結局このまま読むこともないのかなあと思っていたところ、ようやく昨日見つけることができた。古本屋に偶然在ったのを見つけてきましたって言うようなラインナップだけど。

 これはゲームのノベライズだったんですね。道理でスカスカでダイジェストっぽくて薄かったわけだ。遅読の僕でも2時間もかからず読めてしまった。でも肝心なところははずしていなかった。余技で書かれたようなものかもしれないけど、なにやら寂寥感の残るよい読後感だった。ウォーミングアップを終えたところで次を読む。
推定少女 (ファミ通文庫)

推定少女 (ファミ通文庫)

 こんな反応しかできない自分が情けないが、やはり少女作家の感性はよいなと。古くは深沢美潮モンゴメリ、近年は大島弓子恩田陸(球形の季節とか)を見つけることができ、ここに来て桜庭一樹川上弘美江国香織多和田葉子ではだめなのです(各1冊ずつしか読んでいないが)。少女ではなく女性だから。陳腐な言い方になるけど、大人になる前の子供というのは、生臭い部分もあるのかもしれないが、どこか透明な存在で、汚い手で触れてはいけない。大人の世界のストレスがちらつきだすにつれて、その透明な感じは最後の足掻きのように純度を上げ、ある日一線を越えるとあとはもう面倒な大人の世界に飲み込まれて、それっきり時間は加速していってしまう。この時期の子供というのはそもそもきちんと語るべき言語能力を持たないのだから、それを大人の作家が代弁しておく必要がある。というか代弁ではなく、価値があると思うから勝手に書いているだけなのだろうが。
 男性はしばしば、あまりに嫌な感じに汚れてしまっていて、この感性を正面から書ききれない気がする。見て、考えてしまう存在だから。女性は男性から見られ、考えられるものを自ら抱えている存在だから(うわ、なんつーか、結局こういう考え方しかできないのか、男女二元論になってしまうのか僕は)、その感性をきちんと表現しやすい位置にいる。この小説で戯画化されいる宮台真司(?)みたいな評論家、あれは痛いが、少女ならば成人男性をそういう目で見る資格を持っているのであり、あれは痛快なことなのだ。少女はまだ大人になっていないだけではなく、性的にも男女の分化する前の状態で、でもそれはすべてを包み込むマザコン的なものではなく、逆に触れられたらこちらが緑色の汁を出してスライムみたいに溶けてしまうような、不可侵なものであり、同じような子供たちとしかつるむことはできない。こんな仕組みを持つ社会は歪んでいるけど、そうでなければフォークロアの時代に逆戻りするか、人類は衰退するかしないわけで(田中ロミオに期待)、そうはならない以上、この子供少女=推定少女の感性を恩寵のように大切にするしかない。
 桜庭一樹の文体はいたって平明で、特に切れ味があるわけでもなんでもなく、凡庸なモチーフや言い回しも多いが、それはあまり重要ではない気もする。子供達のおしゃべりがいいわけで。生後半年からの記憶を持つ某ロシア人作家は、母親の胎内にいるときからの世界をシュタイナー的な怪しいイメージ言語で描いたが、そんな奇想をもってしなくても、追い詰められる少女達のおしゃべりや涙を描くだけでその感性は伝わってしまう。大人でもなく母親でもない少女というのは、何もなくてなんとも儚い。