おっくせんまん!

 ちょっと暗い話(いつも暗いが)。昨日はニコニコ動画オールスターとその元動画を見るのに一日使ってしまったが、その中でも特に印象に残ったのが「ロックマン2 おっくせんまん!(Version ゴム)」。思えば、兄弟でロックマン2をやっていた頃が一番幸せだったのかもしれない。反射神経が鈍くてアクションゲームが下手だった僕は、弟の横に座り、ロックマンの鮮やかな動きに見とれていた。一機交代でやったりしても、僕は下手だからすぐ死んでしまうのが少し悔しかった。次々に現れる敵キャラたちをかいくぐり倒していく弟はそれとなく自信に満ちていたし、あの頃は、それが何の役にも立たない無駄な能力だなんて誰も知らなかった。ロックマンのかっこよさはそのプレイヤーのかっこよさでもあった。かっこいいことは正義であり、かっこよくない者は不安と引け目を感じていた。その追い立てられるような感じは、ロックマンの中の、進みながら後ろの空間から追い立てられていくステージと同じようなものだった。大きなボスは怖かったし、動くリフトやわらわらと寄ってくる敵たちも怖かった。それでなくても子供にとって世界とは不安定で怖いものなのに、なぜあの頃は一生懸命それを増幅するようなことをしていたのだろう。生存本能に突き動かされて生きるための訓練をしていたのだとしたら、何だか残酷な気もする。あれから僕は臆病なまま、外面ばかり運良く整えながら、やがて面の皮も厚くなり、なるべくしてオタクなり、こうして昔を懐かしむ余裕さえあるつまらない社会人になったが、弟は、あれからもっと不器用になり、周りを拒絶して自分の殻にこもり、非難されても強張るだけで、反論もせず、できず、オタク趣味を持って人と娯楽を共有したりネットをおぼえて気晴らししたりすることも知らず、自分の目指した道では人から実力を認められず、援助もされず、中途半端に鋭い感性と中途半端な才能は人からは必要とされず、中途半端な世間とは近づいても尖った言葉をやり取りして互いに傷つくだけ。ある種の人にとっては、思春期や反抗期というものは通過儀礼ではなく、生涯続く拷問のようなものらしい。こんなことを書きながら助けようとしない僕もどうしようもない。このニコニコ動画を見せたら弟は笑ってくれるだろうか。全てのディテールが懐かしいこの動画を見ながら、おっくせんまんおっくせんまん!と叫ぶだろうか。現実はそんなに優しくないし、僕はそんなにかっこよくない。