秋山瑞人の続刊が出る見通しが立たない現在、
ラノベ作家では唯一、言葉のセンスそのもので勝負できると個人的に思っている作家の長らく待った新刊、まるで執事のようにうやうやしくレジを打ち本を差し出す池袋
ジュンク堂の副店長から受け取り、もったいないと思いながらも週末まで待てずに通勤電車の中で読んでしまった。期待を裏切らない楽しさだった。登場人物たちのネーミングセンスと登場人物紹介ページ
からしてすでに仕込んであるし。プロローグも素晴らしい。
文章読本や小説の書き方系の本ではおそらく否定されるような、プロフェッショナルとア
マチュアの境界を気にしない、言葉の瞬発力を信じて書いたようなテクスト。物を気軽に書けるようになって、物を書くことの
民主化・大衆化が進み、癖のない滑らかでシャブロンだらけな言葉のインフレが進む時代、そんな小賢しい言葉に対抗するために文学が生み出すのが、非民主的で小賢しくない、「馬鹿正直」な言葉を使う作家だ。100年前にやはり言葉の大衆化(
象徴主義の世俗化という形の)が進んだときに現れたのが、ネリジヘンのような白痴系とでも言うべき詩人たちだった。現在の日本ではそんな神聖な言葉が時折生み出されるのが
2ちゃんねるだったりするのはなんとも皮肉なことだ。本作では一部
2ちゃんねるの悪しき影響も見られたのは残念だった(「〜じゃね?」「〜なくね?」的な
vipper言葉)けど、一概に否定していいものかはよく分からない。現代は100年前にも増して、エンタテイメントだの費用対効果だのまことにしみったれた声がうるさく、詩人には生きにくい。
中村九郎氏にはもっと
中村九郎的な純度を上げてもらって、
フレーブニコフのような孤高の存在になってほしいと思う。まあ、でもそれは悲劇にしかつながらないだろうし、失敗したら後がないし、あんまりこういう才能を持った人はいないから無責任な期待は出来ないけど、でも期待せずにはいられないなあ。
プロローグのユーモアのセンスがあまりにも
ロシア・アヴァンギャルドのある作家のテクストの雰囲気を思い出させたのでエア感想を書いてしまったが、作品としても勿論面白かった。作者の筆の滑りのよさがそのまま乗り移ったかのような
躁状態の主人公の、分裂気味な内面を想像してみるのもよし。言葉の記号としての
ミミック(身振り・擬態)のみで構成されているかのような、恥ずかしいくらい変幻自在な曲矢に翻弄されるのもよし。普通にエアたちの物語を楽しむのもよし。
田中ロミオの『AURA』への返答、とかそういう問題の立て方がどうでもよくなるような存在感だ。願わくば続編がエア続編で終わりませんように。