シャルノス その2 〜鬼ごっこ〜

 ネタバレあるので注意。


 フロイトの時代臭の強いこのゲームのせいか、怪物=知人の頭を銃で吹き飛ばしながら逃げ回る怖い夢を見た。
 もう少しイギリスの世紀末も勉強しておけば面白かったかなあと思いつつも、知りすぎているとかえって自由に想像できなくなって損をしそうなんでちょうどいいのかも。どこまで自覚があるのかも自覚があって何かの得になるのかも、まだプレイと中なので分からないけど、この作品の箱の絵は、ちょうど舞台となっている世紀末から20世紀初めに興隆した、恐怖小説や探偵小説や女流文学などの「安っぽい大衆文学」のイメージを髣髴とさせる。識字率の向上と印刷技術の発達によって膨れ上がった読者たちは、上下の幅はあるものの、僕のように懐や知性が余り充実していない無名の庶民たちだったわけで、彼らが燃料として摂取していたのが、怪物が乙女を追い掛け回すような悪趣味な小説たちだった。まさにその怪物のような大衆文化の、下品なほど健啖な胃袋に自らの発明をどんどん食い潰されていったハイカルチャーは、乙女のように清らかな使命に殉じようとして自己研鑽を重ねた結果、乙女のようにドロドロした自家中毒の泥沼にはまっていくわけだけど、高校生だった頃の僕を読書の楽しみに目覚めさせてくれたのはシャーロック・ホームズだったよなあそういえば、と思い出した。もうバスカヴィル家の犬も緋色の研究もどんな話だったか覚えていないのでウィキペディアを見たりしながら。言われてみれば、モリアーティ教授って当時の人にはこんなイメージだったりすることもちょっとはあるかもなとか。シャーロック・ホームズがロシア語に訳されたりギリャロフスキーがモスクワの裏社会を取材したりしていたのが、日露戦争の前だったか後だったかはもう覚えていないけど、この時代の大都市っていうのはどこも似たような雰囲気をもっていたものらしい。辻邦生が短編を書いていた世紀末文化のシリーズもそんな感じだった。アクーニンの探偵小説とか積んだままにしてあるけど、やっぱりこういうレトロな想像力に支えられているのだろう。
 メタ的な楽しみ方ができるような気がするけど、Forestやぼーん・ふりーくすの例で見る限り、ライアーソフトはこの点は行儀がいいのがもったいない(行儀が悪そうなのは右にバナーを張ったやつだ)。メアリとMとシャーリィ(さすがにS.ブロンテのネタは出てきても分からない。小説ももう憶えていない)の3人が中途半端に何かを象徴したりするのだろうか。期待していた暗さはあったし、桜井氏のテキストは字面がそろっていて綺麗だし、後はこのまま…で終わらないように何かを期待。