きっと、澄みわたる朝色よりも (65)

 いつ空もアネモイも、それぞれに特徴はあるのだろうけど、朱門優の作品を読んだあとにはいつも同じような余韻があるのはどういうことなのか考えてみたけど、けっきょくよく分からない。誰かもっとセンスのある人にうまく説明して欲しいが、なんとなく思いつくままに暴論を書いてみる。
 めぐりは未プレイなので当てはまらないのかもしれないが、朱門氏の作品に共通しているのは主人公が恋愛に関して鈍感であること(恋愛の優先順位が低い)、ヒロインがしっかり者であること、世界設定が超展開を前提としたトリッキーなものであることなどで、あと付け加えるなら絵が綺麗なこともあるが、これだけ見ても作家としての特徴は見えてこない。気になるのはやはり「言葉」かなあと思う。奇抜な設定を支えているのは奇妙なほどに形式ばった言語の論理である。四君子というセットや伴や肆則という苗字など、コノテーション的な無駄なフックをもった言語にとっては宿命的な、「形式のずれ」が外側から持ち込まれて登場人物の振る舞いを制限する。夢見鳥学園という舞台を用意した若の定めたルールにも、言語のルールのような冷然としたところがなんとなくあるように思う。ルールと情念の乖離を体現したかのような「泣きべそ鬼の伝説」が設定に埋め込んであったりする。こうした言語のルールと恋愛とは当然ながら別々の論理に従っているので噛み合わないことが常態だけど、それが並立したままハッピーエンドを迎えるような場合もある。恋愛は感情の問題なのだから結ばれて幸せなのは分かるけど、ではこの凝った舞台設定は何だったのということになる。言語のルール自体には意義はなく、あくまでそれは言語を成り立たせるために歴史的に積み重ねられ捻じ曲げられてきた自律したものなのだから、そこに感情的に納得できる意味を求めても無駄なのだが、意味がないからこそなのだろうか、恋愛と言語(あるいは朱門優の幻想的な世界設定)という交わることのない二つのシステムの、偶然の平和的共存に、神に祝福されたかのような美しい調和を見たくなるのである。
 (ちょい追記。言語の仕組みに沿った展開や表現は、それ自身の強固な完結性ゆえに、物語の文脈の中で浮いてしまうことがある。「四君子」や「旦那さま」という表現がイタイものに見えてしまうことがあるのはそのため。このイタさを朱門優はシナリオに強引にねじ込む。プレイヤーがそれを受け入れるか否かは自由だし、受け入れるための根拠はテキストそのものだけではなくBGMやキャラボイスや絵にもあったりする。もちろん限度や好みはあるけど、僕は受け入れる。その場合、イタさはプレイヤーと作品世界とが共犯関係を結ぶための要となる。僕は言語の振る舞いに依存することが好きだから、ひよやアララギがイタイ言葉を使うと共感を覚えてしまうのだ。)
 登場人物たちのトラウマをめぐるカタルシスも言語の授受の形をとるが、これがまたガチガチに形式的で、見方によってはやくざ的な誠意を見せろとか仁義を切れとかの世界である。主人公は一番納得できる形で言葉を伝えるためにナイーブに空回りをする。他方ひよは主人公を誉め殺し甘やかすばかりで「言葉」は発しない。忍ぶヒロインである。幻想的な言語のルールで組み立てられた世界に投げ込まれた主人公にとって、ひよはその世界を肯定するための留め金となる存在で、ひよ自身が言葉を発しなくても、この作品のテーマとして描かれている「優しさ」が勝手にひよという存在に凝縮してしまうのである。というのはバナーキャンペーンのボイスレターを待つプレイヤーのオレ妄想ですが。ヒロインがひよと若に分裂していることには目をつぶります。若の作った世界を受け入れるのがひよな訳だし。アララギの健気さには心が揺らぐけど、アララギとは恋愛できない世界なのだからここは涙をのむしかない。ひよの絵にはかなり魂の入った繊細で美しいものが何枚かあった。青山ゆかりさんのヒロインというと、瀬里奈とかシロツメグサとか最近はアクアノーツの友里子とか、今まではどちらかというと我が強めで肉体を持て余す的な、明るいけどオブジェクシオンな感じの女の子が多いイメージだったけど、この与神ひよは優しくて淑やかで、主人公のために一生懸命薀蓄を溜め込んだりする健気な女の子で、繊細な目元や顔の輪郭が美しい絵がよく似合っている。
 各キャラの日常パートの言動はゆるすぎて正直寒いし、シリアスパートのメッセージはベタ過ぎてしつこく感じることが多い。話が戻るが、そういう読み物としての臭みを脱臭してくれるのが、言語の見せるノイジーで冷たい振る舞いである。そうした言語のルールとの共犯関係を受け入れた上での「エモーショナルADV」なのだろう。鍵ゲーが情念を増幅させるための展開の「飛躍」を何に基づいて作っているのか、その秘密は誰かがすでに書いているのか知らないが、朱門ゲーの場合はそれは言語的なルールであり、形式と情念の乖離と調和の上に作品世界は成り立っている。季節の情緒を盛り込む際の頭でっかちな手つきにもその特徴は現れているように思う。本格的な秋ゲーをやったのは確かこの作品が初めてだと思う。言語に絡み取られた情念は病的に無益な螺旋を描いて、増幅されたり枯れ果てたりするのが常だが、豊かさと乏しさを同時見せる秋の物語としての存在感を、確かに感じた。

ちょい追記:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20090907
matunamiさんの感想を見て、前世編から浮かび上がる意味が「失われた母/娘=秋をめぐる物語」ということなのかと思った。美しい構造だ。