東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

 うまく読み解くとかできないので、思ったことをとりあえず。
 もともとポストモダンとかに興味を持つ学生だったのを、東浩紀によってエヴァエロゲーに導かれてしまったので、その「導師」が示すヴィジョンには他の人のものとは違う近しさを感じるところがあって、言われてみれば誰かが別の文脈で言っていたような気がするけど、本作で示されてやっと身近に思えるようになったものの一つが、一人でいることに慣れてしまった人間にとってもっとも縁遠い、アウトドアやショッピングモールで過ごす家族団欒の光景だ。エヴァAirポストモダンや情報社会論を通過したあの東浩紀が言うのなら、この光景にはきっと何か見過ごせない意味があるのだろうというわけだ。恥ずかしながら買い物には事務的な効率性しか求めていなかったのを、OneやKanonでの商店街の散策がある種の啓示に思えたように、本作のショッピングモールでの休日は、その平安が内面的な不安や外的な脅威によっていつ破られるとも分からないからこそ、それがいかにチープな空間であってもなんだかきれいなものに見える。本当にそれを噛み締められるのは実際に家族を持ってみてからだろうし、そのために諦めなくてはならないものがあまりにも大きく思える今の自分には、万が一あるとしてもまだだいぶ先の話なのだろうけど。それでも、個人の問題としても社会の問題としても、これはきっと避けては通れない何かのシンボルなのだろうなという感じはした。それは決して嫌なものではないと思った。
 量子力学の話や地下室人の歪みや変態性癖の話はほどほどに。入り組んではいるけど、特に力説すべきところでもないと思う。すべては家族という主題を深めるための道具だ。道具立てだけ見れば水月さくらむすびと共通する部分がないともいえない感じで(主に量子力学的、及び聖水的な意味で)、トノイケダイスケ氏の引用とか☆画野朗氏の挿絵とかあれば面白かったかもしれないけど、ともかく主人公以外は登場人物が女性ばかりなのはエロゲーマーの面目躍如というか。しょっぱなから、往人さんそんなところで何やってんすかと吹きそうになったが、登場人物がことごとく、作者の実の娘まで含めて、鍵ゲー由来なのは感慨深い(友梨花だけ分からない)。もちろん「データベース」の仕組みを逆手に取ったシニカルな遊びの意味もあるのだろうけど、それでもなお鍵ゲーのアリュージョンというかたちで家族の主題に不可能性や憧憬のニュアンスが付けられたりして、エロゲーマー冥利に尽きる仕掛けだった。
 えらそうな言い方だけど、東浩紀は作家としては文体で魅せるようなことはない。娘に希望を託して無限に循環する世界を終わらせる、大仰な言い方だけど、その悲劇の後の静謐さがよかった。プログラムの汐子とエピローグ(物語外)の娘の汐子のつながりは偶然のものなのかもしれないけど(説明されていたっけ?)、それは主題的には十分必然的なことなのだろう。岡崎家のような絵に描いたような家庭は築けなくても、本作の葦の船の家族のように、波に揉まれながらも幸せを求めていかなければと。
 あと、とりあえず僕の凡暗頭には平行世界という数学的な概念が、なぜ貫世界転送という物理学的な事象につなげられるのかいまだによく分からないしということもあり、ハヤカワ文庫の『量子コンピュータとは何か』という入門書を買ってみた。正月に読むか。