к больному вопросу... (あと衰退5巻)

 自分の好きなものとどう付き合っていくかというのは、ただ夢中になっていた一番幸福な時代を過ぎてから問題としては立ち上がってくるのだろうけど、一度立ち上がってしまうと後戻りはできず、あるべき姿とのギャップにどう対処するかということにかなりのエネルギーを割かざるをえないのがけっこうもどかしい。可逆的な理論、対、不可逆的な歴史(本当の理論は不可逆性も織り込めるのかもしれないが)。後者を肯定的に受け入れるのはなかなか難しいけど、MK2さんがうまく書いているような視座がスマートな回答なのだろう。問題はそれをすぐ忘れてしまう鳥頭のほうだ。個人の性格の問題もあるのだろうけど、差異と反復、差異と反復と念仏のように唱えてみても自分の欲望の動き方はなかなか把握もコントロールもできない。欲望の固まりのようなエロゲーをやったりエロ動画を見たりして、それが自分の欲望の形にうまくはまらないときの空しさにはばかばかしいものがある。それでも欲望は何らかの出口(表出先)を求めるわけで、先週末は、久々に来た「イリヤの空、UFOの夏」の形をした季節外れの欲望の波にさらわれて(季節外れというのもこの小説のテーマになっているところがいい)、小説を読み返したりMAD動画を見たり歌を聴いたり何か妄想文を書こうとしたりと大変だった。こういうデ・ゼッサント的な波は、自然災害のようなものと諦めて無抵抗に受け入れるのがいいのか(洗練?)、それとも何か別の形の、より高い美と快楽を求めて努力するのがいいのか(そもそも高低はあるのか?)、あるいはそんな問いを立てることこそが快楽なのだと納得するのか(オナニーして寝るだけ)。分からなくなる。東洋哲学をテーマにした小説を秋山瑞人が書いてくれればすべては解決すると思うんだけど。
 そんなしょうもないことでもやもやしていた週明けに、そのときの自分の欲望の形とは違うはずの田中ロミオの新刊を読んでみたら、やっぱり面白かったから不思議だ。そもそも田中ロミオの作品はパッケージはそっけないけど、読み始めてみたらすっと入っていけるのが常なのはどういうことなのだろう。作劇の技術的な問題だけなのだろうか。あとイリヤと違ってあまり読み返そうとか思わないのは感傷がないからだろうか。だとすればシリーズが完結して全体が見えるようになれば、そこに感傷が生じて読み返したくなるだろうか。孫がなかなか隙を見せないからそっけないふうになっているけど、田中ロミオならどこかで手打ちにするかもしれない。新刊の前半の話は一応感傷を扱っている。でもその過去の内容自体はストイックなものだし、それを振り返る現在の孫のストイックなたたずまいが反映されているようで、前向きな緊張感があるような気がする。後半の話はそれを裏返すように、レトロな設定で現在を描いた、緊張感も建設的な要素もない喜劇で、ドラクエ3の赤い公式ガイドブックに愛着のある世代の読者としては、これはこれでいちいち細かいところまで懐かしく楽しかった。互いを際立たせるようなうまい構成の一巻だ。

人類は衰退しました 5 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 5 (ガガガ文庫)


 結局、

自分がやってきたどんな素晴らしい作品であろうとも「その時点では楽しかった」という一過性のものでしかないことを自覚すること。あるいは心のなかの別の部屋に宝箱でも置いといて、そのなかに記憶を押し込むことだ。そうでもしねーとずっと観鈴ちんの呪縛にとらわれたままですがな……。

 賢者の言葉だなあ。