福嶋亮大『神話が考える』

神話が考える ネットワーク社会の文化論

神話が考える ネットワーク社会の文化論

 動ポモの正統な続編は『ゲーム的リアリズムの誕生』ではなく本書だったといいたい誘惑に駆られるような主題的な広がりを引き受けた本が出た。でも動ポモ以降現実の進行は加速しており、この本には新時代を印象付けるような若い勢いはない。むしろ際限なく広がって逃げていくかのように見せかけている世界や文化のあり方を、きちんと整理できるだけのサイズに「縮減」する「必要」があるという受動的な要請から出た本のようにも思える。憂鬱なことだ。思想書というはしゃぐことを許されないジャンルのフォーマットで発表されたからということもあるかもしれないけど、本書の筆致はスリリングなはずの内容に反して安定しているが、ブログや2ちゃんの不安定な文体に浸かっているこの日常的な環境がなかったら、つまらないと批判の対象になっていたかもしれないような、感染力の弱い、というのが言い過ぎならば感染力の緩慢なもので、「もっと神話を!」と訴える声は小さい。
 神話的思考の理論を発展させた人類学がその誕生においてヤコブソンを経由してロシア・アヴァンギャルドとつながりを持っていたこともあり、本書の論旨から受ける感覚はフォルマリズムやその系譜を引いた思想書を読んでいたころの懐かしいものが少しあったし、分析の俎上に上げられた作品や概念の多くは100年前の実験のアップデート程度にしか思えないこともあった。核となる神話の縮減や美学的な生成の話もここ30年くらい日本の人文思想の言論がこねくり回してきた概念のような気がするけど、重要なのはそれを現代社会の欲望の経済とかいうようなものにきちんと接続したことなのだろう。ターンエーガンダムってそんなにすごかったのねとか、エヴァは当然それを踏まえてもっとすごいことをやってくれるのだろうなとか思った。西尾維新にしても村上春樹にしても東方にしてもキャロルにしても、その論旨には異存なし。引っ張り出されてきた海外の作家や建築家もよかった。ただその行き着く先に明るさとか若さはないよなと思った。文体が足りないというのは確かのその通りだ。僕もこのブログに何か書くときに、すでにフォーマットに内容を「縮減」されてしまい、突き抜けた飛躍や逸脱ができないことになんとなく不満を感じている。未来派が夢見たような、言語が高速化した果てにナンセンスに溶解する、多型倒錯的なエロスと若いユーモアのユートピアはどこにいってしまったのか。ニコニコや東方は確かに面白いけど、芸術や欲望の未来を仮託するには必要なメンタリティが年寄りくさすぎる。これが単に僕が自分の年よりくささを投影しているだけなら問題ないのだし、それらの装置はそもそもナンセンスを取り込んだものなのだから、年寄りくさいのは再生メディアと化した僕らのほうの責任なのだけれど。ルイス・キャロル、ロシアならクルチョーヌイフやフレーブニコフやエレーナ・グロー、プラトーノフやザボロツキーやオベリウーといったあたり。彼らが実践していたような若さや幼児性のエロスを今探すとしたらどこだろう。