素晴らしき日々雑感2 光の比喩 (Down the Rabbit-Hole)

 第1章が終わったと思ったらまだその前半(?)だった。とてもいい終わり方だった。というのも、話がどんなに閉塞した出口のないものであっても、宮澤賢治のテクストはそこに風穴を開け、広がりを作ってしまうから。日本近代文学とか私小説とか言うときに感じるあの重苦しくてめんどくさい感じとは、まったく異質な風通しのよさを宮澤賢治の作品は持っていると思う。キリスト教的な自我の檻に閉じ込められない、いい意味での仏教小説ってこういうやつのことなんだろうか。鉱物学の語彙が多いとか青とか銀系の光が好きとか探せばネタは挙げられるのだろうけど、未来の時間感覚に生きていることを感じさせるあの浮遊感自体は稀有なものだ。あとはロシアの詩人で一人知っているくらい。「銀河鉄道の夜」は話の筋自体は暗いものだけど、宮澤賢治の筆にかかれば広がりと出口を持った何か別のものへと変わる。終ノ空では高島ざくろらがどんな問題を抱えていたかはもうほとんど覚えていないけど、この作品では確かにその先まで進んで安らぎを手に入れたようだ。ざくろ役の涼屋スイさんの細くて舌足らずでマイペースな感じの声がよい。二次元のキャラクターにしか不可能なリアリティを得ている。それにしても須磨寺雪緒といい、いい感じのヒロインはすぐ…。このゲームは終ノ空のリメイクと聞いたけど、今のところ感覚的な部分ではだいぶ別物になっている。90年代は引用されているけど、「90年代的なもの」がコンパクトにまとめられている感じはせず、別の文脈できちんと読みかえられているというか。お気に入りの宮澤賢治が出てきたり、前作ではほとんど言葉の切れ味で押し切ってしまったスパイラルマタイ問題が換骨奪胎されていたりしたおかげで感心してこじつけくさい感想を書いてしまったけど、どうかこの先にも自我の隘路から抜け出せる美しい場所がありますように。ついでにメモっておくと、エロゲーにおけるいわゆる百合のモチーフというのもやはりこの広がりと関係があるような気がする。プレイヤーの向ける欲望がヒロインの身体の、あるいは身体所有のある一点に集約されることなく、ヒロイン同士が互いに向ける欲望の視線の中でその向きを変え、肌に浸み込むことなくむしろ肌の上を滑って拡散し、乱反射し、その場の「空気」自体にやわらかく溶け込む。由岐がサティ(またサティだ)を弾いていたときにざくろが感じた喜びはそういう類のもので、僕らの視線の快楽もそういう光のようなものに変換されていたと思う。そしてこの拡散する快感というのはやはり宮澤賢治のテクストとつながっているように思えるんだよなあ。まあそれはともかく、この先の展開でどんな修羅場があるのか知らないけど、高島ざくろが見せたかったこと/見たかったことにこんなにきれいなものがあったことは覚えておこう。
 中途半端なところで感想を書いてしまった。この先もこんな風にゆっくり進められたらいいんだけどなあ。