書くときの壁

 『暗い部屋』の感想を書こうか書くまいか。欲望のフックがないと書く意義も発生しないのだろうか。
 プラトーノフの短編集を読んだ。『土台穴』(亀山郁夫訳)で見せた異常な言語・情念空間は弱めに抑えられ、割と普通に前線従軍作家としての平和な国の僕たちにはなかなか想像力の及ばないあたりを描いたものが多かった。これなら日本語で読んでもあまり印象は変わらなかったかもしれない。原文では読んだことないが、『土台穴』も訳で誇張されているだけで読めば普通に読めてしまうものなのだろうか。
 次に手に取ったのはこれも長い間積んでいた蓮実重彦の『表層批評宣言』。通勤電車の中でクドわふたーやきっ澄みやインガノックのサントラを聞きながら少しずつ読んでいる。初版が1979年の古い本なのでいまさら(しかも読み始めたばかりのところで)突っ込むのは野暮の極みなのだが、それでもこのもったいぶった文体は読んでいてちょっと恥ずかしくなる。ないない尽くしむりむり尽くしの否定神学で地を這いながら冗長に冗長を重ねる語り口で、それでも禁欲を追求するおかげで言っていることには論駁しがたい用意周到さがある。モダニズムの詩人たちの持っていた問題意識と五十歩百歩だけど。足を引っ張り合いながらも切磋琢磨していかなければならない「批評」という行為に業の深さを体現している。僕がブログに書いていることは基本的には「感想」なので、「批評」を行なっているという意識はあまりないが、それでも蓮実的な意味での「批評」と目指すところは割りと近いので、その批判の切り口には耳が痛かったりもする。いかに自分の「欲望」の自由な解放を目指したとしても、結局は「欲望」の血をすすって生きながらえる諸制度に僕は絡め取られ、それどころかそうした諸制度に積極的に迎合して欲望を捏造してしまっていたりするのはやるせないことだ。でも言葉の精度が原理的に低いものであるのなら、自分で自分の言葉を揺さぶりながら言葉を綴っていくしかないわけで、あまり神経質に自分の言葉を研磨できない僕には、欲望の実践という現物支給で操業していくのがベターだという諦め。
 それはともかく、蓮実氏の低い生産性の中にも印象的なアイデアはあるので、ちょっと抜き出し。かつて扱いきれずに「どうしたらいいのでしょう」と投げ出してしまった、MOON.の学芸会の木に寄せて:

<…>たとえば美術史、とりわけヨーロッパの教会建築の学的考察の場で「壁」が耐えねばならぬ屈辱的な位置は、その曲線性や球形性によって必然的に平坦さを免れている「円柱」や「穹隆」に捧げられた技術的、美的な分析や評価の豊富さに比較してみればあまりに明瞭であり<…>、平坦さがあたりに波及させるあの単調の印象、そこから来る廃棄された運動感、視線の凪とも言うべき静止の雰囲気が、人々を平坦なる表層への無視、軽蔑からさらにその陵辱へと向かわせるその過程が、日常的な思考と「学問」を自称する思考とに共通な構造を露呈しているという事実こそが、きわめて重要なのだ。

 「壁」であるべき「木」の視線がこちらの心(回想シーン中だし)に突き刺さるとき、プレイヤーが感じるのは罪悪感だけではなく、言語化のシステムに回収するのがためらわれる未分化で剥き出しの訴えだと思うのである。このシーンは印象的だった。でも「印象的だった」と書く以外には何も出来ないのだろうか。
 あと、「平坦な壁」でクドリャフカの胸を想起したらだめだろうか。