滝本竜彦『僕のエア』

僕のエア

僕のエア

 仕事で使う本を探しに本屋にいったら平積みされているのをふと目にしてしまったのが運の尽き、本当なら読み終えてからしばらくは引きこもりたい本だ。滝本竜彦の本は異常に感情移入できる。この本を読みながら、また読み終えたときに感じたものがあれば、これからの人生wでたいていのことがあっても受け入れることができそうな気がしてくる。だって一番の「エッセンス」はもう味わわせてもらったのだから。本というのは本来こういう暴力的なまでの力を持っているはずのものだ。
 フェティッシュなキモイ思い入れをさらに言わせてもらうならば、この本のどぎついピンクの装丁、余白の多い文字組み、初出の2004年から今までの間に流れた時間、あとがきも何もない終わり方、オタクネタがないだけでNHKにようこそと似たような構成、これらすべてが言いようのない寂しさと同時に、なにやら万感の思いのこもった呪いのようなものとして迫ってくる。その存在感。それは単に滝本竜彦という個人がかけた呪いというよりは、この10年近くの間に僕自身がひそかに育ててきた呪いと言ったほうがいい。滝本氏の小説はただ単に異常に純度の高い触媒に過ぎない。自分の個人的な体験や心の動き方にあまりにあんまりなツボを突いてくるため、たとえこのジャンルの「神話」が2010年現在では既に古びてしまったように見える場合でさえも、自分の中でいくつもの時間軸がにわかに目を覚ましたかのようになって平静な心では読めないという事態に陥る。
 主人公がなぜ自分が生まれてきて生きているのか合点がいかないとき、僕もやはりそれには共感できるけど、それと同時になぜ僕には岬やエアがいないのか、それが合点がいかなすぎる。だってどう考えてもおかしいでしょう?などと叫んでみるのも空しくなるような、僕の身の周りの風景の寂しさ。これを抱えたままこの先も生き続けていくのは何かの罰か、それともある種の恵みなのか。これが小説である限りその答えは出さなくてもいいわけで、そうして例えば傷を刻むだけ刻んだまま宙吊りにすることによって完成することができるのだから、滝本氏はまだ小説を捨てる必要はない。別にもうこれ以上書かなくたっていい。でも、だからといってこの作品や前作が失敗作だということにはならないし、誰かが悪いわけではない。これは「ちゃんとやったらこうなった」という厳然たる事実であり、同時に昇華された虚構であるのがこの小説だ。誰にともなく力説。