マジカルウィッチコンチェルト (70)

 仏教における修行の目的はこの世の価値のあるものないものの全てが空であることを認識し、それをもって死の訪れに対する準備として、実際に死が訪れてきたときにそれに乗じて自分を意識や身体から解放し、輪廻の輪から抜け出ることだいう。修行をしない怠け者が言うのだから前提からして決定的に間違っているわけだけど、価値のあるものが空であることを簡単に認識させてくれるという点において、この作品はそういうヨガ的な修行の一助になるのかなあなどと思ったり。
 要するに、いくらストーリーが子供だましの茶番であっても、エッチシーンの自律的な吸引力がそれによって打ち消されることがないということ。むっちり感のある立ち絵が既にウォーミングアップになる。エッチシーンの絵の美麗さは完璧でないにしても強烈なもので、重量級のエロボイスと適度に落ち着いたBGMをしばらく聞いていればすぐに抵抗できなくなる。性的ヨーガという修行では性的快感に感覚が浸されてもそれを性器からの射精によって終えて消耗するのではなく、光の雫が下腹部から上ってきて頭頂部に開いた「穴」から放出される様をイメージする。そうすることによって18ヶ月間だかイきっぱなしだった行者がいたとかいう話を思い出して、性的快感に溺れながらもイかないように気をつけて数シーンのエッチシーン体験してみたりした。エロゲーをやっていて寝落ちするパターンには、疲れているときに退屈なテクストを読まされて寝る場合とエッチシーンで快感に包まれながらも寝てしまう場合があるが、この2つはそんなにはっきり分かれているわけじゃないけど、後者の場合は精神的にリラックスしきったいい状態だ(パソコンを腹に乗せているので寝苦しいのが問題)。この作品ではそんなふうに快感に身を沈め時間を忘れることが何度かあった。その度に心身ともに疲れ切ってしまうのだが、そのままだらだらと眠ってしまうことが許される休日があるのなら、それこそ魔法のような快楽を得ることができる作品になるのだろう。その魔法はチートでもあるのだけど、作品としてみれば、快楽を生み出すことを愚直に守る職人の一品と見ることもできる。しょうもない設定の魔女っ娘物の抜きゲーだけどアトリエかぐやの職人魂が込められているところがユーモラスというか、勝手にそんなものを感じとっている自分が滑稽というか。
 あまりキャラ別とかに具体的に見てみるのは興醒めしそうなので一言だけ書いておくと、M&M絵では女の子の顔が真面目でおとなしそうな表情になるので身体のほうのむっちり感が強調されて、濃厚なエッチシーンで大変な幸福感を味わえる。実際に真面目な性格のナタリアと、意外と真面目なヘルガと、快感に溺れたらコントロールできない天然のフランチェスカではその表れ方はそれぞれ違っているけど、だからこそそんな快楽流れに身を任せる感覚を味わうことができる。それは子供時代からのむっつりすけべ的な願望を満たす母性的なエロさでもあり、同時に実体のない不可解な幻影から快楽を引き出す魔法のような作用でもある。その作用の儚さを魔女たちのコンサートにたとえる趣味の善し悪しはともかく、彼女たちが生み出すことのできる幸福感を手にすることができたのはよいことだった。