then-d編『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人x30説』、『同10人x10説』

 先日のコミケで買ったものを読んでの駆け足の感想。作家の特色に関わる新しい知見を得ることができたものやプレイ済みの作品があるものを中心に。やっぱ評論は大変だ、みなさんすごいです、というのが全体的な感想。

  • then-d「亡き現在のためのパヴァーヌ」:いきなりクライマックス級の論考面白かった。大筋同意。でも、麻枝准がそれぞれの作品の到達点に満足しておらず、常にその先を求める(あるいはそのような志向性を作品が持っている)というとき、そう言い切っちゃっていいのかなという気もする。Airは別としても、ONEもKanonも一応最後は新しい日常に回帰するという形で終わっているので、無事に着地したことにはなっているし。ただしその前に沈潜する世界の印象があまりに強烈で、そこから脱出してしまったこと自体がなんだか信じられなくて、then-dさんもONEにおいて指摘しているように「明確な悟りのようなもの」がないこともあり、強制的に目覚めさせられるような置いてきぼり感が残ったことのほうが記憶にある。到達点に満足していないというよりは、到達点以前の段階の印象が強すぎて到達点のリアリティがにわかに受け入れられないというか。そして一プレイヤーとしては、その内面世界に沈潜する際に受けた水圧や風圧のようなものを再体験したくて、やや依存的にその後も麻枝作品をプレイし続けたということがある。エンディングが唐突にやってくることは別に文学作品として珍しいことではないし、読みながらリアルタイムで作品構造を全て体感できなくても、読後に他人の考察を読んで、その作品構造の精緻で倒錯したさまに改めて気づき幻惑されるのも麻枝作品の醍醐味だった。だからClannadでは描写がなんだか地に足が着いてしまい、物語が散文的に(日常的)になってしまったのがいただけなかったし、それ以降の作品でも愚直さで押すようなスタイルが残ってしまっているのは残念なところ。話がそれたが、優れた作品が受容されていく中で解釈が固定されて作品がやせ細っていくことに抵抗すべきなのはその通りで、作品が優れていればいるほど読者は解釈したがるし、作者としては追い立てられる馬車馬のように新しい作品で新しい世界を提示するしかないというのはなんとも因果な図式だと思う。then-dさんが論考で用いる語彙は硬い。それは麻枝作品の魅力にとり憑かれ、それに正面から対峙しようとする者の気概を感じさせてとても好ましく思えるけど、これもまた因果なものだと思う。別にエロゲー研究が独自の文体を確立しなければならないとは思わないけど、エロゲーが欲望に肉薄する芸術である以上、それをめぐる語りの語り口の探索も要請するというのはこれまた因果なことだと思った次第。
  • 雪駄とらハからなのはへ」:重量級の文章を続けて読んで幸せな気持ちに。語るよりやるほうが面白いとおっしゃるが、語りだけで十分楽しめてしまうのはどういうわけか。とらハシリーズは気にはなっていたけど、仄聞に聞くとても地に足のついた印象が自分には受け入れられる自身がなくて手を出していない。あと古びてそうというのもある。それでも2010年の時点でこれほどの語りを引き出せるというのなら、きっとやれば楽しいのだろうなと思う。この作品にどっぷり浸ることができたら、それはもうエロゲーをやめていもいい、エロゲーにこれ以上何かを探さなくてもいいときのような気がした。しかし冷静に考えてみると、これは雪駄さんの語りが読ませるものであるだけで、実際にゲームをやってみたら全然なじまなかったということになる可能性もある。事実、論中で引用されている作中のテクストは僕のように未プレイの何も知らない人がそこだけ見ると、一部を除き、口当たりがいいだけで特に鋭く突き刺さってくる言葉というわけではない。やっぱりやってみないとわからないのだろうな。
  • 夏葉薫「美少女ゲームの貧しさをめぐって」/C.F「ゲームにおける選択について」:元長ゲーを語る上で一番基本的で重要な部分が簡潔に言語化されていてよかった。観念論で追いかけてもすり減らすだけだから。でも核心をこんな風に簡潔に言い表せてしまい、あとはどちらかといえば瑣末なことだと考えなくてはならないとしたら寂しいことだろう。何かまだアプローチの仕方はあるんだろうな。あと、メキシコネタが実は未来にキスをに出ていたとは知らなかった。
  • 辺見九郎「存在と時間性」/tukinoha「ナラティヴの現在、最果ての共同体」:エロゲー現代思想と同じ語彙で記述されていることにいまさらながら驚き、でもそれは対象がロミオ作品だったからという部分が大きいような気もした(他のでは不可能とは思わないけど)。時間軸の問題と他者の問題は確かに外せないところではあるわけで、丁寧に分析されていて腑に落ちた。僕のナチュラルな作品感想ではどうしても視点が快不快をめぐるものの方に滑っていってしまって、こういう観念的な話をする相手が美少女だからいいよなで終わってしまいがちなので、こういう形できちんとまとめてくれるような論考があるとやはり助かる。クロスチャンネル最果てのイマが時間軸の構造的には対を成しているなんて考えたこともなかったし。この2つの論考においては対象がエロゲーでなくてもいいのでは、というかヒロインたちの固有性がほとんど残っていないのでは、という突っ込みに対しては、そんなこと知ったことではない、逆に、あとは読者が好きに使えるような汎用性を残した形にしたらこうなった、と考えておけばいいのだろうか。僕のようにどこか後ろめたいものを持ってエロゲーをプレイすることからなかなか離れられない読者にとっては、この2つの論考が前提としている峻厳で批評的な立場にはたじろぐものがある。「放った言葉の無力を嘆くことに終始するとき、人は他者を思いやりながら、自らの言葉に責任を取ることのないナルシストに堕落することになるだろう」とか言われると耳が痛いものがある。これが例えばゲームの中で忍が内言した場合にまだ受け入れられるのは、それがフィクションであることがクッションになっているからだろう。例えば沙也加にそう言われると快を感じるとしたら、沙也加というヒロインを僕と同じ問題を共有する存在としてさらに近しいものに感じて感情移入できるからだろう。そう考えると、いくらゲームをやって楽しんだとしても倫理的な成長という意味ではそれはプラスでもマイナスでもなく、結局はその外側で何をできるかだということが思い出されてきてやや心が重い。沙也加ならそんな俗っぽい悩みはないんだろうなと想像できるところが癒しになるけど。
  • もりやん「片岡とも――私的体験としての」:朱から入って朱が一番好きな自分にとっても説得力のある文章だった。「日常」というキーワードをどう論じるかはいろいろあるのだろうけど、Key作品との対比ですっきりしていた。「エロゲーマー」というあり方がほぼ死語というのはちょっと待ってと思ったが。
  • 勝山ペケ「大嘘帝国騒乱記」:僕のように好きなモチーフが出てきたりグラフィックデザインがしゃれていたりするだけで大体感情的に作品評価を上げてしまうような単純なユーザーにとっては、こうして論点を絞ってライアーソフト作品の特徴を浮き上がらせてくれる論考は参考になる。エロゲーにおいて「萌え」の果たす役割はとても大きいから、物語にこだわるライアーの営みは常に不経済で的外れなものに見える可能性がある。それでも物語と萌えが二律背反のものだとは多分立証されたわけじゃないし、ズレを抱えながらも互いを補い合うこともあるだろうと思っているから、その間はこれからもライアーソフトの作品には付き合っていけるのだろうと思う。好きなモチーフで釣っておいて批評性や萌えの地平にまで引き上げてくれたら言うことはない。
  • 佐藤リア「Kinoko Nasu / beginner's material vol01」:正直言って何を言っているのかよく分からないところが多かったが、これだけのエネルギーを駆動させるものが奈須作品にあるのは確かなことだ。その感覚を思い出させてくれた文章だった。そしてこれが理想的な作品受容の状態のひとつであることも確か。作品にとってプラスになる読解とは、やはり作品を縮減させていくのではなく文字通り作品に何かを足して膨らませるようなものであることのほうが多い。月読絵空というのが何なのかさえ実は知らないが、なんだか奈須きのこが本当にすごいライターであるような気がしてくる。ホロウもやってみたほうがいいのかな…
  • ぱぶ「Gift Cleared」「Over Margin」:喜んでいいことか分からないが、なぜ呉作品がどこか印象に残りながらも特にはまることがないか分かった気がする(やったのは『水夏』『D.C.』と『何処へ行くの、あの日』だけだけど)。特色が舞台のトリッキーな設定とそこから引き出されるキャラクターの動かし方にあるだけで、描かれるヒロイン自体がそのシステムからほとんど独立するほどの魅力を持つことがなかったからとか。確かに絵麻はとても印象に残るいいヒロインだけど、彼女の魅力は捻れた世界を生み出している大本だという設定的な部分に大きく拠っているわけで、彼女自身の言動が何か無条件のヒロインとしてのカリスマを放っているわけではないように感じた。ほんと失礼なユーザーで申し訳ないが。そしてそこを踏まえてそんな地味なヒロインをだからこそ愛でるという一捻りが入ってしまうところがある意味限界というか。だから呉氏がとんでもなく自律的なほどに萌えるヒロインを独特な舞台設定とともに生み出すことがあったらさぞかし破壊力があるのだろうなとも思う。
  • 葉山咲「選択と奇跡」「御影論補遺」:確かに選択と奇跡を切り口にして御影作品の特徴は浮かび上がってくるけど、知りたかったのは何でさやか先輩はあれほど魅力的だったのかとかいうことなんだよなというような馬鹿な感想が先に出てきてしまう。efはなんだか大仰なセリフが多そうで(オープニングムービーもアレだし)どうにも手が出ない。損してるのかもしれないが。
  • 永倉大「私の愛したトノイケダイスケ」:永倉さんの作品に寄り添いながらも過剰に読み込んでいこうとする文章にはいつもながら感心する。隠蔽と饒舌のアンバランスで成り立つトノイケテクストの性質もそうした語り方に合っているようで、いい組み合わせなのかもしれない。
  • mp_f_pp「僕らはみんな男が好きで……」/疏水太郎「アストロ滑走団でわかる恋愛の才能」:不覚にも夏葉薫さんのエロゲーはこれまで気にしてこなかったけど、この2つの論考で啓蒙された。思弁的なヒロインにはとても興味があるのでぜひともプレイしてみなければ。本書を読んでの最大の収穫の1つかも。
  • sunagi「アノス・ワールド・オデュッセイ」:メタゲーが好きなユーザーとして作品に興味を持てた。謎解きが苦手なのと萌えが薄そうなので手まで出るかはわからないけど。
  • もりやん「三宅章介を深ーく…」:ほぼ天いなしかやったことのないユーザーにとっては、雪緒のあの張り詰めた神秘的な魅力をほとんど素通りして、TH2の4Pや6Pの話に力を入れているところがさすがだと唸らされた。確かに典型的な「恋愛関係の成立」を離れたところに固有性を強く感じられる未知の幸福感はあるのだろう。もっぱら関係性の枠組みでライターを論じていたけど、別に同じスキームの関係性であればヒロインは取り替え可能というわけではないはず。ヒロイン自身の描写からも切るとなると、(特にLeafでは)やはりグラフィックや声の要素も大きくてもはやライター論としては難しくなるのだろうか。
  • Judge「俺たちの初夏はまだか」:Judgeさんがウェブサイトを全面的に公開していた頃から何度も触れられてきたテーマなので正直新たな発見はなかったけど、それでもやはり背筋が伸びる話ではある。僕が「らくえん」をプレイした当時とは違い、今では自分も締め切りに追われて妥協しながらある種の作品(非常に散文的だが)を世に問う仕事をしているだけに、そんな仕事場を楽園に比すことができるような仕事はまさに楽園なのだろうなあ、と脳の具合が悪くなって意味もなくトートロジーを口にしてしまうほどには、あの作品で描かれたものに打ちのめされたことが思い出された。あの作品がある限りエロゲーはそれこそ倫理的に堕落せずにいることができるのだという気がする。
  • 松波総一郎「エロと、変態と、決断と」:怖い人怖い。おるごぅる作品は幼なじみな彼女を主人公のあまりのデリカシーのなさ(と舞のおっぱいのつつましさ)に挫折して放置したままで、なぜあれほど引退が惜しまれていたのかさっぱり理解できなかったけど、寝取られにおける達成や時代の文脈を背景にするとなるほどと思える部分もあった。田中美智の声が素晴らしいことを頼りにして何とか1作だけでもクリアしたい。
  • then-d「葉桜の季節に君を想う」:やっぱりD.C.シリーズはけっこうすごいんじゃないかという感触。
  • then-d「君の知っている麻枝准は死んだ」:やっぱりリトバスはやらないほうがよさそうだという感触。
  • then-d「『Love Song』改題」:ここまで麻枝用語の象徴体系を知っている人ならこういう精読は楽しい作業なんだろうなと思う。僕自身はこのアルバムは持っているけどこれまであまり聞いていなかった。歌は基本的に伴奏と声だけ聞いていて、歌詞は電波ソング等のイロモノを除けば基本的には一貫性のない単語の連なりとしかみなせないから。実は鳥の詩が例外的に歌詞も味わえる歌だったけど、Love Songの歌は一度聴いてみて音的に惹かれる歌がなさそうだったので、自然と歌詞もスルーしていた。ただこうして他人が読み込んでいるのを見ると楽しそうに見えるので、とりあえず自分もきちんと聴いてみたくなる。
  • then-d「10年目の『Air』」:Tactics/Key作品ユーザーの年季も感じさせる小文。お疲れ様でした。