彼女たちの流儀  涼月

 男に触られるときの気持ちの悪さというのを女装する胡太郎を通して意識させられてしまった今となっては、これまで他のエロゲーや小説について書くときに使った言葉で涼月に触れざるをえないことに自分の無力さを感じるものの、それでも人であることの重みを嫌い、自分を人形のような存在の中に消し去ってしまおうという捩れた願いを見せられては、何もいわずに流すのはいけないことのような気がしてしまうというちょっと理不尽な仕組み。
 自分が自己嫌悪を持つのは当たり前、という人間にとっては、理想の恋人は自分によく似た、自分を理解してくれる人だろう。女の子の側がそんなふうに「爛れて」いるとしたら、もう降参するしかない。こんな女の子はそんなに軽々しく何度も秋の夕暮れが好きとか言わないので、すごく馬鹿な男じみてくるが、涼月がその心の中にしまっていたものを見せてくれたときには、どう表現したらいいかわからないがとにかく喜んで受け止めなくてはならない。
 なんだかんだいって涼月はフィクションの中の女の子であり、その形はすでに「永遠」のものとなっている。「彼女たちの流儀」と三人称で言及せざるを得ないところに、製作者やプレイヤーの憧れはにじみ出る。そのピンク色の髪はどこまでもやわらかく、その舌足らずなしゃべり方はどこまでもやさしく、その生理や自慰行為さえも美しく見える。それでもまだ彼女が地上の重力に囚われており、そんな彼女を忘れないことが誠実な態度というのなら、せめて想像の中でだけでも女装でも何でもして、三人称の壁を越えて彼女との幸せを考えてみよう。ねえ、涼月。そういうことなんだろう。と、胡太郎でもなくそんなふうに呼びかける資格もない僕が言ってみる。