唐辺葉介『ドッペルゲンガーの恋人』

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)

ドッペルゲンガーの恋人 (星海社FICTIONS)

 mp_f_ppさんの評を読んで、相互不理解や浸透という切り口に納得しつつも、自分なりに言い換えてみたくなった。
 人と分かり合えないこととか、人の意見や考えに影響されたり感染したりすることというのは、人間関係においては一番大切なことになる場合があるけど、他方、全く日常的でありふれたことでも起こりうる。それだけを描くのなら、日常の些細なエピソードばかり描いていてもいいはずなのに、どうして唐辺氏の作品では陰鬱で残酷なプロットばかりが描かれるのか。多重人格とか、大震災とか、貧困とか事故とか、そんな大仰な設定を汲むのはなぜか。今作ではクローン技術というモチーフを通じて、エロゲー的なマルチシナリオとこぼれ落ちるヒロインの同一性と責任の問題、ついでにそれが主人公にも跳ね返るというテーマが扱われている。単に娯楽作品としてその方が物語が盛り上がるからということもないわけではないだろうが、それよりはやはり、登場人物を社会的・物理的に追いつめて、あとはもう恋人と理解しあうとかそういう精神的なものにすがるしかこの現実をやりすごす/あきらめて成仏する道はないという状況を導き出す、要するに悲劇の作法なのだろう。日常における些細な不理解は喜劇のカテゴリーに属するけど、不理解と言うものの重みが増してしまった状況における不理解は悲劇になる。
 物語は初めから極限的状況マックスでスタートするわけではなく、まずは日常シーンで始まり、登場人物らは徐々に追いつめられていく。mp_f_ppさんも触れていたけど、唐辺作品の主人公の特徴は、マイペースでなかなか変わらないことである。変わらず周りから少しずれている。そのずれは、周りの人が彼に対して思い入れを抱くための余地となり、それがきっかけで彼に惚れるヒロインもいるし、そのズレを最後まで埋められず、極限的状況ではむしろそのズレが増幅されて絶望するヒロインもいる。彼自体はずれているという自覚がなくて、それを気にしていない。気にしていたら、ズレを修正するために相手の前で「外面」を壊して「内面」を見せるという手続を行なうのが人間関係の常識的なルールだが、彼は「内面」を見せないし、普通の人のように見せるために捏造することもない。自分を折らず自分のスタイルを(そうと意図せずに)貫く姿勢はある意味ハードボイルドであり、村上春樹小説の主人公を思わせるものがある。村上小説の主人公の口癖でいえば、クールとかタフとか言われているやつで、料理とか飲酒とかセックスとか即物的な描写とか、何らかの外面的なアクションを事務的に行なうことで内面の動揺はないことにされ、スタイルは守られる。
 唐辺作品の主人公からすれば、「内面」と「外面」の二枚舌外交を行なって相手の警戒を解いて信用を得ようという輩は、風刺の対象になる信用の置けない輩や、憐憫の対象になる弱い人間である。タナイさんがいくらドストエフスキー小説の脇役のような毒を吐こうとも、それはあくまで毒を吐く小市民でしかない。そんな主人公がどうして人を愛することができるのかは謎で、主人公は「タフ」なのでその秘密を自ら明らかにすることもない。彼の「ズレ」を手がかりに読み取った気になることができるのがせいぜいである。また、存在するかもしれない彼の「内面」に迫るヒントは、いくつかの巧みな修辞的技法にも見ることができる。一番鮮やかだと思ったのは猿の笑顔を用いた比喩だったけど、それ以外にも全体的にこだわりのない「タフ」な語りからは、何らかの感情を読み取りたい誘惑に常に駆られる。しかしそれは「背後」に「正解」を持ったポーズではない。そのような読み方は必然的にズレを生み出してしまう。真実は作品の外部にある。それは不誠実な創作態度なのかもしれないが、この世界が倫理的に整合の取れたものでない以上、その不誠実さこそが誠実さの証だとも取れるはずだ。


 あ、あと最後はやや中途半端で物足りない気がした。個人的には、曇りのない幸せな逃避幻想で塗りこめて宙吊りにして欲しかった。