紅殻町博物誌 (70)

 熱い社会と冷たい社会のアレとか生物と無生物の間とかじゃないけど、基本的に動いていないと社会も人も生きていくことさえままならないという腹立たしいルールのゲームに、僕も日々、特に社会人になってからは、藤森のような無神経な営業トークをしながら加担しているわけで、そんななかで白子のもつ願望は例え非生産的で不健康なものであったとしても純粋に感じられる。それが彼女が弱くて「壊滅的に昏い」からそれを愛でているのだとしても、彼女のように生きるには決定的な間違いを犯してしまったおっさんが学生時代を懐かしんでいるだけなのだとしても、あるいは僕の思い入れや同情がすべてまったくの勘違いだったとしても、そうした勘違いや間違いのためだけにでも彼女の領域は残されていてほしい。
 彼女が動くのを停止して不変のものとなったということは、『恋愛ゲーム総合論集』に寄稿した猫撫ディストーションに関する小文で触れたホットな欲望とクールな形式の話にも関わってくるけど、この作品ではそれはウェットな趣味嗜好の美意識の方向から切り込まれている。不変ということは、その作品やヒロインとの関わりにおいては僕のほうが変わらない限り、あるいは絶えず変わってしまう僕のほうを僕が変わらないように変え続けない限り、彼女たちとの望ましい関係を結ぶことはできない。死物を追いかける博物学や懐古趣味とというは後ろめたいものだされているけど、動かず止まってしまったもの、厳密に言えば本来の活動期の様子とは様変わりして褪色し、少しずつ風化していくもの、に美と意味を見出し続けることは、それなりに動的で手間のかかることなのだろう。世の中、理想的なタイミングで起こる物事のほうがむしろ少なく、僕たちはいつも少し、あるいは決定的に、遅れて必要なものを見出すのであり、そのたびに落胆する中から、こうした遅れることの中にも価値を見出す術を編み出してきたのだろう。全盛期は知らない、間接的にしか関われない、その残り香から想像してみることしかできない。慎ましい戒めの技術。
 直截に言い表すことができないから別の事象で代替し続けることからくる多弁さ。このブランドの2作目ということでたぶん僕が慣れてきたというだけなのだろうけど、今回は落ち着いた節度ある文章のような気がした。後半が共通になっているというシナリオ構成上の問題もあって、とりあえずは最初にクリアした白子の感想が中心になってしまったが、エミリアといい、松美といい、美意識にこだわるこの作品でツボにくるヒロインが次から次に出てきたのはありがたかった。
 白子シナリオでは、彼女に一番似つかわしくないような俗世の問題が彼女を苦しめ続け、ピンポイントの絵に描いたような文学少女のシナリオでこの仕打ちはどういうことかといぶかしんだ。彼女は目を閉じることで安らぎを手に入れる。ルドンの絵やドビュッシーの音楽、あるいはソクーロフの映画のように、その境地そのものを定着させようとした試みもあったけど、結局は受け取る側がしっかりしていないとだめだなと白子を見て思う。現実は、田舎では静謐よりは荒廃を感じさせられることのほうが多いし、今のような生活を送っていても気がつかないうちに望んだものからは遠ざかっていくのかもしれない。死物というのはそれ自体が無条件に価値を持っているわけではなく、その価値は見る者によって支えられ守られなければならない。一緒に守ってくれるのが彼女で、そして彼女自身が自分にとってかけがえのない価値を持つならば、もうそれ以上望むことはないのだろう。うらやましい限りだが、せめて僕も自分にとっての価値を守り育てていくことだ。それが白子のものと少しは似ていることを願いつつ。