まじのコンプレックス (70)

 自分でも仕組みがよく分かっていないままに使っている言葉があって、「感情移入」というのはその最たるものだ。自分は主人公に感情移入することはあまりないような気がするけど、だからといってヒロインの感情移入しているかというとよく分からない。この作品の主人公は立ち絵がよく出てくるし、ドヤ顔みたいな嬉しそうな表情をよく見せるし、性格的な屈折とかないので、感情移入はあまりしていないと思う。
 対して、真路乃はただのテンプレ的な勇ましいちびキャラかと思っていたら、気がついたら境遇がなんとなく理解できてしまうの女の子になっていて、プレイヤーとしてはいつの間にか包囲されていたような気がした。真路乃の周りを見渡してみると、頼りにしていた親しい人たちは、いつの間にか自分の唯一無二のパートナーを見つけて「大人」になっていた。姉の紀子も、先輩の亜利美もいなくなり、趣味を分かち合う父親にだって考えてみれば母がいる。そうしてみんな「大人」なのだ。なのに自分はミリオタなんぞをやっている「子供」なのだ。真路乃はあせるけど、彼女には「大人」たるべく言葉のキャッチボールをして気を遣い合う相手がいない。真路乃は気がついたら遅れていたのだ。なぜすぐに気がつかなかったのかというと、周りは楽しくて穏やかで小さな幸せに囲まれていたからだ。世界は安定してるかのように見えたのに、気がついたら周りの人たちは自分の幸せを見つけてゴールしてしまっていたのだ。「人生の宿題」を終えてしまっていたのだ。真路乃は、自分は、何をあんなに嬉しがっていたのだろう、いつの間にか置いてきぼりじゃないか。自分は言葉のキャッチボールはできない。そういうキャラじゃないから。裕実が気遣いを見せるような言葉をかけてきたとしても、どうしていいか分からず、頭に血が上って地団太を踏むしかない。でもいずれはできるようにならなくちゃいけない。
 話はかなり飛ぶが、自分の母親が産んだ赤ちゃんを、僕の不注意で放置して死なせてしまう夢を見た。赤ちゃんは掌に乗るくらいの大きさ(10cmくらい)で、預かった僕は定期入れの上に寝かせて何日も机の上に放置しておいたのだった。定期入れは電気あんかのように暖まるようにできていて、だから赤ちゃんも安心だと思ってたいして気にもかけていなかったら、ある日、放っておいたクワガタクワジのように、気がついたら動かなくなっていた。そのことを母に伝えて頭を下げて謝った。産後の肥立ちから立ち直って赤ちゃんとの再会を楽しみにしていた母は、それを聞いてショックを受けたけど、僕に気を遣ってか取り乱したりはしなかった。そういう悪夢だった。
 何が言いたいのかというと、僕は誰かの人生の責任を持てるほど自分の人生に足を突っ込んで生きていないのではないかという不安が顕在化したのがこの夢だということだ。言葉のキャッチボールをする相手がいなくて不安になる真路乃と似たようなものだ。真路乃は夢うつつで別の1人の自分から「大人」になるよう唆されて怯えるけど、一方僕は気持ちの悪い夢を見たということ。先日誕生日に実家に顔を出して祝ってもらい、弟夫婦の仕事はうまくいかなくても互いを気遣いあっている姿を見せられたことが関係しているのだと思う。僕の弟夫婦は真路乃の姉夫婦に、僕の両親は真路乃の先輩であり子供を生んだばかりの亜利美夫婦に距離感的に重なるのだろう。安易な解釈かもしれないが。真路乃は、誰かに優しくされたときはその分だけ自分の家族へ愛情を注ぐよう言われるけど、本当は他にもっと愛情を注ぐ相手を見つけなきゃいけないのではないかと思っている。僕は、滑稽な話だが、愛情や情熱は仕事とエロゲーの感想に注いでしまっている。仕事のクライアントやエロゲーのヒロインと架空の「言葉のキャッチボール」をしているのだ。忌まわしいことに。
 「子供」と「大人」の二項対立は、「大人」の側の人たちが作った卑怯な構造だ。真路乃はその犠牲になり、「子供」と「大人」の境界で揺らぐ。立ち絵は子供なのに一枚絵ではなぜか大人びた雰囲気が出ている。サバゲーをやっているときはあれほど自由で生きているのに、そしてヒロインとしては少しも「色気」がないのに、それでも「大人」になることを強いられる。残酷で、間違っている。それは虚構の間違いになることもあるのだけど。
 そんな真路乃だからこそ、その後、戸惑いながらも自分と周りを納得させながら幸せをつかんでいくのには、こちらも幸せな気持ちにならざるを得ないが、その前にひとつ:エッチシーンでは真路乃はやはりヒロインなのだった。一枚絵でどこか大人びた不思議な美しさを見せる真路乃をみていると、ばかばかしいことだが、周りのすべてが消えて彼女の心の世界に取り込まれたような感覚が味わえる。BGM「アタシを崇拝せよっ!」がR.U.R.U.R.のときのような浮遊感のあるもので、真路乃の声以外のCVを切ってプレイしていたおかげで、これは真路乃が見る幸せな夢に取り込まれてしまったのではないかという気になる。作品タイトルに関わる儀式を二人が取り交わすときには、真路乃を自分と同一視する対象というよりは、彼女はどちらかというと自分を明け渡してゆだねる対象になっている。そのことにゆがんだ快感ではなく単純に喜びを覚えるのは、それまでの彼女を見守ってきたということがあるから。
 ただし前戯も含めたそれ以外の部分は、普段の掛け合いと同じく、実現されていく彼女の幸せのおすそ分けに与ることの連続になっている。子供らしくはしゃぐ真路乃のリードに冷や冷やしながらも、彼女を取り巻く世界が良き世界であることに感謝しつつ見守る。ひとりでニヤつきすぎだろ真路乃、日本語がおかしくなっているよ、とこちらも幸せな気持ちになる。今まで機会らしい機会がなかったので考えたこともなかったが、「父親バレ」というのは女の子にとっては恋人に惚れ直すためのイベントシーンだったのか。こればかりは超えられない男女の立場の違いが露呈するばかりのイベントなので、男の取れる態度はおのずから決まってしまう。大昔から繰り返されてきたロールプレイであり、テンプレートであり、それを経て真路乃は「大人」の側についに回収されてしまう。そこに憎むべき「大人」の機制があるのかは、もうどうでもよくなる。コンプレックスは文字通り複合的なものだから、そこからすべてを作り変えればいいわけで、憎むべきものは何もない。奪われたところから始まった真路乃は、新たに作り変え、手に入れた。
 お話の中くらい、こうして好きな人と結ばれて幸せになって、そうしているだけで祝福される世界があってもいいよね。真路乃の声が耳をくすぐり続ける。