信天翁航海録 (75)

キサラとシサム:
 出身はどこか北米の辺りなのかもしれないけど、すっきりした目鼻立ちとか、きれいな弧を描く上頬のふくらみとか、長い手足とか、おさげとか、低めの声とか、肝の据わった性格とかを見るに、スラヴ系のイメージが似合う。BGMもミハルコフの映画にでも流れそうな。野月まひるさんのヒロインとしては、個人的には今までで一番うまくいっていたように思う。北国の逃避行というとドクトル・ジヴァゴのように悲壮なものになり勝ちで、キサラとの旅も刹那的で不安な気分が漂うものだったけど、これは逃避行ではない不思議な巡礼の旅。寒くて遥か彼方まで広がる北方の自然の美しさは非人間的で、キサラ達と縮こまって感じる暖かさとのコントラストが鮮やか過ぎて、すべてが夢の中の出来事のように現実感が希薄ながら、感覚にだけは鮮烈に焼きつく。北方では人間の感覚は身体の外に拡張していくことはなく、反対に収縮し、自然の感覚に身体が浸食される。自分の身体が清新な空気に浸される。逃避行の不安も直正の泣き落としも、すべては峻厳な自然の風景と冷気の彼方の出来事。結局あれは何だったのだろう、などと後から振り返った反芻したりしない、という潔さもまた双子たちと直正の魅力。でもそんな双子であっても不思議な力を持つ不思議な存在であり、直正にとっては、あるいはプレイヤーたる僕にとっては、北極の自然と同じような非現実的な美しさをも感じてしまう。


泪:
 たぶん他のシナリオで明らかになるのだろうけど、この作品の舞台は御伽噺やフィクションが健全な形で生成・伝承されなくなった世界でそれを守ろうとしてつくりだされた仕掛けをもとにしているものであり、そのゆがんだ世界を狂騒的で幻想的な調子で描こうとしていることは、確かにこの作品が紅殻町博物誌の正統な続編であるように思わせる。そんな閉塞した世界で長い時間を生きてきた泪が、退屈の感情で身を守ることになるのも仕方ない。この手の退廃振りを、ストーリーテラーを旗印に掲げるライアーソフトから見せられるのは残念な気もするが、それはたぶん消費者のわがまま、というか単に勘違いなのかも。キャラクターの動きや話の進行が精彩を欠いた気がしたのも勘違いだろうか。時折若さの影を取り戻す彼女と同様、肝心のところは、あえてかどうか、少ししか描かれていないのがさびしげな。


クロ:
 子供心に一番印象深かった聖書のエピソードのひとつがノアの箱舟。牧師先生の説教でも何度もネタにされていた気がするが、やはりそこは新教らしく、説教の後半はいつも教訓に流れていたものだから、このシナリオのメッセージは個人的には復讐のようなものと取れなくもない。洪水が引けてから箱舟が漂着したという、アララト山の葡萄で作られた頂き物のアルメニア・コニャックがあったのを思い出して、栓を抜いてちびちび嘗めながら読み進めていたけれど、やはり朔屋と違って下戸の自分に酒精の良さは分からず、伝承によれば下船してからアルメニア山麓で葡萄作りを始めたというノアの気持ちも、まあ本人にしか分からん訳で他人の解釈や教訓にいちいち付き合う義務はない。そういう理不尽な運命に翻弄される人間を描くのもまた旧約聖書の得意技であって、だとすれば、ポーのカラスに背を向けてダメはダメなりに落ち着き場所を見つけた朔屋とクロは、世界と造物主に祝福されたと見たって間違ってはいまい。むしろ幸せそのものでありそうな。コニャックよりも“傷”を嘗め合うほうがずっと素敵なことであろうことは朔屋だって気がついたみたいだし。クロが抱いていた不安は、『しろばんば』の少年が「少年老い易く学成り難し」という言葉を聞いて苛まれた焦燥感とどこか通じるものがあるような気がする。でもそれも過去のこと。子供の頃の狭い視野や鋭敏な皮膚感覚は、それよりもさらに昔の鳥だった頃の記憶と同様にもう失われてしまったけれど、代わりに今は温もりと安らぎを手にすることができたのだから。


 霞外籠逗留記では講談調に喩えて、エロゲーとしての違和感というか隔靴痛痒を感じてしまったこのシリーズの語りの文体だが、さすがにもう慣れた。本作ではその自由闊達な筆の運びと、絶え間ない読者とのくつろいだおしゃべりが心地よい。そういえばプーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』とよく似た感覚だ。『オネーギン』では主人公は田舎に現れた世を倦める貴公子オネーギンであって、ダメ朔屋とは正反対のハイスペックな青年だが、それでも語り手は同じように暖かなまなざしで登場人物らを見守り、田舎貴族のちっぽけな暮らしをちっぽけなままに、ユーモアや脱線を繰り返しながらゆるゆると語っていく。『オネーギン』はストーリーが凝っていたり思想的なテンションが高かったりということはまったくなく、その作品としての強度は、つかず離れずの鷹揚な語り芸で支えられており、ゴーゴリのような異常な職人技でも使えない限りは、散文で表現することはできるものではなく、『オネーギン』といえば4脚ヤンブ(弱強格)の代名詞というように、リズムと声調が高度に一体化したものとされている。だから『オネーギン』を映画やバレエで見てるにしても、ロシア文学の最高峰とされながらもストーリーだけ追いかけても少しも面白くなく、それぞれのジャンルがその様式性の中で原作をどのように消化し昇華しているかを中心に見ないと楽しめない。日本語訳にしても、原作のリズムの翻訳をあきらめて単純な散文訳にしてしまった岩波文庫版は、参考書的な実用目的としてならまだ知らず、文学作品としては完全に無価値で、七五調での翻訳に挑戦した講談社文芸文庫木村彰一訳が妥協案となっているが、これも脚韻の翻訳までは手が回らなかった。こうした様式性を信天翁航海録で感じられたのは、肥大化した語り芸とそのトーンが『オネーギン』を思わせたからで、それは具体的には比喩で引き合いに出される事物や語彙、構文や脱線の仕方などが集積されて、様式性が強いという意味においてある種の韻文的な効果を出していることになる。それは前2作のようにいささか閉塞感のある設定ではなく、航海という仮初の解放感のある本作では、時にはいつまでも聞いていたくもなるような心地よさを感じさせるのかもしれない。


 その声調が変わるのが「密航」ルートである。
 ここではこれまで三歩進んで二歩戻る調子だった語りがするすると動き出す。驚くべきはその作品世界の設定の種明かしというよりはむしろ、にわかに宗教的なまでの強さを帯びていった密航者の声の響きであり、一直線に駆け抜け、飛翔した信天翁号の幻想的な終わりの余韻。その清らかに解放されたハッピーエンドは、これまでの悠揚迫らぬ語りと信天翁号での地上的な日々の現実感からはあまりにかけ離れていて、これはすべて密航者が死ぬ間際に見た夢なのではないかという、鬱エンドの切なささえ感じられる。彼女には時間がなかった。朔屋もなぜか運命に導かれるように受け入れてしまう。彼女は航海に出ようと言う。楽園にも死後の世界にも喩えられることのある海に出て、いったい何をしようというのだろうか。