りとる†びっち (65)

 幼女の言葉が僕を解体する。
 作品の構造として折込済みといえるのかもしれないけど、今回は単調に感じてしまったというのが素直な感想。
 この汚らわしい存在である自分というものを消し去るために、主人公をあまりでしゃばらないようにしたり、傍観者の鴉にしたり、百合ゲーにしていなくしたりといろいろあるけど、この作品では主人公は選択肢と絵でのみ存在を許されている。選択肢といっても1つしかなく、しかも最後のほうでは勝手に選択されてしまうので、選択肢という意味での選択の自由はなく、プレイヤーはただ豚の鳴き声を上げながらヒロインから与えられる選択肢を受け入れるのみ。
 語り手として主人公はいないけど、だからといってヒロイン視点になるわけでもなく、またエロゲーとしては珍しい(90年代にはあったのだろうけど)2人称になるわけでもなく、「地の文」は台詞と実質的には同じようなヒロインの主人公に対する語りかけになっている。通常のヒロイン視点の語りの場合には、主人公には見えない心の中の独白という形で、ヒロインの「内面」が存在することが演出され、それは口に出す台詞とは違う「本音」のステータスを容易に与えられるため、ヒロインのモノローグの安易な使用は安っぽい演出として忌避される。本作では地の文と台詞との内容的な差異がなく、違いは実質的にはカギ括弧の有無のみで、しかも特に「内面」の存在を意識させるでもない、頭のねじがゆるんだS攻めの台詞ばかりなので、ヒロインの造形は極めてフラット。プレイヤーは文字通り動物化。もうひとつ別のレイヤーとして、ヒロインのバックグランドさざめき笑いとバックグランド喘ぎ声があり、主である台詞や地の文との差異ゆえに、こちらには若干の内面の気配を感じることができるかもしれない。声は文字とは違い、単純に直接的に、聴覚的な快感に訴えかけるからなのかも(えりなの声がわりと好き。というか同じ声優さんだったのが驚き。お世話になりました)。
 台詞及び地の文の仕組みをもう少し見てみると、HAINさんの文体的な傾向の中で作品を追うごとに強まりつつあるような気がする、実況文と擬態語の多用が特に目立つ。ロリヒロインが攻めるMゲーだからということもあるのだろう(そして苦手な文体なのに慣らされる自分)。この多用によりヒロインの台詞は口語からは程遠いものになっていて、語彙的にもロリヒロイン、というかそもそも女の子が口にするにはあまりに不自然なものになっている。これは女の子に下品な台詞を言わせて解放感と羞恥心からプレイヤーも快感を得るというような通常の回路というよりは、ヒロインの台詞がヒロイン以外の「語り手」(この作品にはいないはずだが)に侵食されていると見たほうが適切な気がする。また、2人のヒロインが外見的には左右を反転して色違いにしただけのそっくりさんであるということも、ヒロインの「人間らしさ」を損なっている。
 HAIN氏は一貫して「物語」を描くことに抗ってきた。物語とは時間の経過であり、時間の積み重ねであり、歴史の領域である。安易な分類だけど、その意味では、円城塔と同じく理系の作家なのかもしれない。
 人間というのはそんなふうに積み重ねなくても、解体された要素の端々に立ち上がるものだということなのかもしれない。有機的な統一体ではなく、寄せ集めの集合体。解体されることに快楽を見出す姿勢がマゾヒズムへと向かうのは、自然な流れなのであろう…。というようなことを予約特典の女児ぱんつを眺めながら思いました。かぶってみたけどサイズが小さいし、股布の幅が広いので視界が隠れてしまい、やはりかぶるためのものではないということを理解でき勉強になった。