朝からずっしりミルクポットSPECIAL (85)

 エロゲーヒロインの位相は基本的に作品中、つまり物語中に定位されるものだけれども、人体から魂が抜けるように、物語中でも僕らの住む三次元世界の中でもなく、どこか境界的な場所にヒロインが抜け出してたゆたっているように錯覚することがある。ヒロインが物語の外に飛び出すのがメタ的なトリックによるものではなく、意図せず幽体離脱しているような場合。それはヒロインが「開ききっている」場合、完全に開放されている状態。自他の境界が後退しており、その場に立ち会うプレイヤーは、じかに幽霊に接触されたかのようにヒロインに吸い込まれる。
 本作のヒロイン・伊織はふたなり美少女であり、ぶっこきエンジェルであり、どっぴゅんアイドルである。つまり、もともと現世的な肉体を持った人間というよりは、霊体に近い存在である。

貴方のハメたい願望をかなえるための理想肉になりたがっちゃう……うぅあああぁ……

 「理想肉」とは肉ではあっても理想、つまり存在し得ないものであり、また、理想であっても肉たることを希求するもの。こうして地上の重力から解放されている彼女が物語の磁場からも自由であるように感じられるのは、彼女の快楽の叫びには設定とか物語とかを突き破って、どこかの虚空にとどまるような力があるから。この快感の前には、何もかもが作り事めいた馬鹿馬鹿しいものになる。全ては彼女に快感を与えるための小道具に過ぎなくなる。しかし彼女は「理想」だから、そんな肉の快楽に溺れてもまったく意味がないのだ。天使のくせに、何のためにアヘってるんだ?空しいだろう?まったくの無駄。まるで虚空に無駄な精液を放つようなものだ。それでもその快楽はやはり本物だと思えば本物になるようなものであり、そこにすがらずにはいられない。その必死さは、レトロなファミコン風(ドラクエ4天空城のBGM風)のうつろできれいな響き、子供時代の必死で楽しかった思い出の、ほの暗い琴線に触れる音楽と組み合わさってなんとも切ない感じを催させる。
 ふたなりっこが野獣のように喘いでいる様子から切なさを感じるわけだが、これは感染であって、伊織もやはり(普通の意味で)切なさを感じているに違いないのだ。「俺たちに翼はない」のファミコン音は中途半端だったためノイジーだったが、この作品の音はかなり純度が高くて参った。本当はドラクエ3のように根気よくプレイすべきところを、最終ステージまで一通り終えてからセーブデータをあててしまったのは情けなかったが後の祭り。自力で辿り着いていれば、上記のシーンの感慨もひとしおだっただろう。このシーンでは櫻井ありすさんの演技も入神の域に達していた。ありがたいという他はない。


 余談ながら、このシーンの絵は図像学的にも神々しくて笑えた。



 このアンドレイ・ルブリョフによる15世紀のイコン「トロイツァ(三位一体)」では、それまでの伝統的なイコンの構図とは違い、主人公たるアブラハムが画面中に描かれず、彼の家を訪れた3人の天使に対し、アブラハムは画面の外に出されてプレイヤーと同一化されている。朝からずっしりミルクポットで主人公キャラが存在せず、作品は伊織のモノローグで進むが如しである。また、このイコンでは、天使たちの頭と両脇の天使の背中・腰、足で描かれる曲線が円を形成しており、三位一体の完全な調和を表していると同時に、2対1の顔と体の向きが動的な運動性をつくり、調和と永遠の運動という神の御業を示しているとされている。
 みさくらなんこつによる21世紀のイコン「理想肉」では、伊織のお尻の線とニーソの上端の線と亀頭とアヘ顔で描かれる曲線が円を形成しており、切ない永遠の運動を示している。合掌。