はつゆきさくら (65)

 入学式を9月にしようとしている大学もあるけど、年度を4月に始めるのはどういう経緯なんだろう。3月末に桜が咲いて散るからというのが理由だとしたら日本はすごい。どっちがいいとか言わないけど、1年が終わって夏休みだとか、休暇だとかいう欧米ののんきさとは違う美的な感覚がある。
 もはや遠き記憶のかなただけど、受験のシーズンが始まって時間割や登校が不規則になっていったときには、それまで当たり前に流れていた時間や周りの世界が崩壊していくようで、なんだか世界から急に見捨てられたような不安感のようなものがあった気がする。与えられた自由度とか多様性が大きかったという意味では大学受験のほうがこの不安感は深刻だったかもしれないけど、それまでずっと意識せずに縛られてきてはじめて解放されてしまったという意味では、高校受験もそれに劣らずすーすーした感じはあったのだと思う。中学生が合格発表を見に行くと、高校の校舎は中学校などとは全然違って、なにやら広くて、がらんとしていて、役所のように機能的できれいだった。こんなすーすーした空間で、自分の運命を決するようなことが起きるなどとは到底想像できない。初めて受験をした中学生がそんな実感のこもった覚悟で合格発表に臨めるはずがない。
 シロクマもそんな感覚だったんじゃないかなあ。確かに、学校からはちょっとドロップアウトした。でも、人生の本当の過酷さ(というか薄情さ)みたいなのはまだ知らない年齢だっただろうし、中学生ではそんなものは知らずにすめばそれに越したことはない。そんなことより、店長と一緒に喜べたら、一緒に遊びに行けたらと想像するほうがよっぽど楽しかった。そんな当たり前の子供らしい浮ついた心に、急に頬を張られたように冷水を浴びせられるのが一次試験の結果だ。シロクマの真似とかしてる場合じゃなかったよ・・・。
 シロクマが不憫なのは、何も公式の扱いとかそういう部分だけではない。というか、それはそれで残念だし、dovさんの憤慨もわかる部分はあるけど、嘆いても仕方ないので乗り越えたいところ。シロクマは「子供」としてこの作品で命を与えられたから、必然的に傷つけられる存在、不憫であることが僕らに訴える存在とされてしまった。後期試験でいい結果が出ても、店長と会って喜び合うことも出来ない。店長はシロクマを裏切るような形で姿を消すetc, etc, etc。
 だから僕らは、喜びにすがろうとするシロクマに何も言えないし、シロクマの幻想を信じようとする。ちょっと考えてから、「グルル・・・シロ!」と初雪に答えるシーンの彼女はとてもきれいだ。この声を聞いて初雪がシロクマに何も感じなかったというのはさすがにありえない。そして彼女が嘘を本当にしたいというのなら、それについていくしかない。


強引なこじつけである上に、とんでもない駄文だけど、
勝手に想像でシロクマの話を付け足してみる。
(以下、たぶん読まないほうが身のためのシロクマアフターSS)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「やあ、シロ。久しぶりだね」
あやや、本当に来てくれたんだね」


長いフライトで少し疲れた様子のあややを出迎える。
6年前とあまり変わっていないようで、私もすぐに昔の感じを思い出す。


「シロはずいぶん変わったみたいだね。
ロシア人になっちゃったのかな。でもまあ、6年も経てば変わるか」
「そうかな。背が伸びただけだよ。あと、ロシア人なのはもとからだよ」
「あはは、そういえばそうだったね。祖国での暮らしはどうなの?元気にしてた?」
「うん。ロシアにもいい人はいたよ・・・」


そういって私はあややをうながして、手荷物を持ち、空港の出口に向かって一緒に歩き出す。
私はつつましい留学生、あややもつつましい大学院生。
群がるタクシーの客引きをかき分け、市内行きの安いバスの乗り場に向かう。
外はすっかり夜。薄暗いオレンジ色の街灯に、不機嫌な郊外の風景が浮かび上がる。
その中を私とあややは話し続けた。


彼女が内田川邊を離れてからも、何度かやりとりはした。
でも私がロシアに来てからは、お互いのことはほとんど知らないまま3年が過ぎた。


今年の4月、久しぶりにあややに連絡を取ってみた。
お互いの近況を伝えて、私の夏休みの予定を言ったら、
「それはちょうどいいかもしれない。私もご一緒していいかな」
といって、あややも合流することに。


バスから地下鉄に乗り換えて、そのあとまたバスに乗り、そして学生寮へ。
あややがなぜ、急に私の卒業研究のための調査旅行に合流すると言い出したのか、
簡単な話は聞いていたけど、詳しい事情は会ってから話すよということだった。
あややの専門テーマの話を聞きながら、私はそれが自分のものと似ていることに気づいて、
彼女も6年間、内田川邊でのことを抱え続けていたことを知った。


「本当は個人的なことは研究に持ち込んじゃいけないんだけどね。
それにこんなことをやったって、私とゆきちに起こったことが分かるようになるわけでもない。
でもこれは、決着をつけるための儀式みたいなものなんだ」
「私も同じだよ」
「え?」
「一緒にゴーストにお別れを言うの」


あややアイヌ、私はイテリメニの文化が研究テーマだ。
夏休みの調査旅行の目的は、カムチャツカ西岸のイテリメニ族の集落、
ハイリューリャ川の岸辺の村でのフィールドワークだった。
毎年夏の終わりには、この集落ではクマの精霊を呼び出すクマ祭が行われる。
北極のシロクマではなく、カムチャツカのヒグマ。


結局ロシアに来てみても、私はなにかまったく新しい自分になれたわけではなかった。
日本から遠く離れてみると、かえって日本のことが気になりだした。
自分の子供っぽい嘘が忘れられず、留学当初はロシア語の勉強の合間に、
シロクマに関する本を集めては読んでいた。
シロクマの鳴き声はグルルシロではなかった。
オットセイは食べるみたいだけど、シャケが遡上するところにはあまり住んでいなかった。
だからシャケクマ、「シャケにのっとられた、エラ呼吸するシロクマ」はいない。
そんなことを考えては、河野初雪と、店長と話したことを思い出していた。
遠い国で1人で暮らしていると、そんな小さなことが支えとなった。


だからクマがロシアでは人間に一番近い動物として昔から親しまれてきたと知って、
クマの精霊と交流する文化があると知って、私はこれを自分のテーマにしようと思った。
店長はもういなくなってしまって、ゴーストも内田川邊から消えた。
それでも私は昔のことをどう整理していいか分からなかった。
店長がついた嘘、本当のことにしたかった、いい方の嘘のことばかり考えていた。
私が自分の嘘を本当のことにできれば、店長の嘘も本当になると思い、ロシアに来た。


そんなことを話していたら2人ともしんみりとしてしまった。


ひといきついたところで、元気を出すために私は景気づけを提案した。
あやや、せっかくだからウォッカを飲んでみようか」
「え。シロはウォッカとか飲んでるの?」
「ほとんど飲んだことはないんけど、元気出るかも知れないよ」
「確かに景気づけにはいいのかもしれないけど・・・」
「店長もお酒飲むの好きだったし、店長を偲ぼう」
「あはは、それじゃ景気づけにならないよ。
しかもなんだか負け組のヤケ酒っぽいよ」
「本物の精霊に会う前に、ウォッカで極限状態の練習をするの」
そういうと私はすばやく、ウォッカのビンと小さなグラスを取り出し、
ピクルスの瓶詰めと、黒パンとバターとイクラを並べた。


ここからは元気を出そう。
隣室のロシア人の女の子も呼んできた。
私のロシア語の愛称と同じ名前のターニャ。
日本語が得意で、ロシア人には自分は日本人だと嘘をついている子だ。
私たちは、クマの精霊の健康のために元気よく乾杯して、壮行会を始めた。
明日から3人でロシアの地の果てに向かう。


カムチャツカに行ったって、何もないかもしれない。
むしろ、ないほうがいい。
私はこの卒業研究をまとめて、私の冬を終わらせる。
神様いないこと、死者には会えないことなんて知っている。
全部人間がつくり出したもので、自分で自分に言い聞かせているだけのものだ。
でも、それを知っているからといって、それは知っているだけのこと。
そのこととどうやって付き合っていけばいいのか、それは自分で見つけなくてはいけない。
見つけたとき、嘘は嘘ではなくなり、本当と嘘の境目はなくなる。


そうして研究をまとめたら、私はもう日本に帰ってもいい。
桜の木にも久しぶりに会うんだ。