猫撫ディストーションExodus1 (エクソダスシナリオ)

 キリスト教を内側から、情念の側から取り上げたのが一連の瀬戸口作品だったとすると、猫撫Exではキリスト教は外側から、あるいは知性の側から扱われる(ライターが本当に信者だったかとかそういう話ではなく)。あえて悪く言い換えれば、意匠としてのキリスト教。または、骨組みとしてのキリスト教。なけなしの信仰心の萌芽のようなものを15年ほど前になくして以来、貪欲で弛緩した、神様のいない生活を続けてきた自分にとっては、出エジプト記をなぞる形で進行しながらも、中沢新一がよく使ったような言葉と流動体に関するニューアカ的なメタファーが、ししおどしの禅的な幸福感礼賛にスイッチしていく懐かしい展開は、どこかに悪意ある皮肉が仕込まれているのではないかという不安も感じさせる後味かも。それは今の自分には信仰がないという架空のかもしれない罪悪感、大げさに言えば原罪の意識から来ているものかも知れず、だとすると言葉の罠にはまっている自分はますますししおどしに頼らなければならないのではないかという袋小路。不安は強まる。十戒の契約を交わしたと思ったら、金の小牛もヨシュア記もなく出エジプトの物語は終了し、あっというまに黙示録の千年王国に、7つの封印の解放もバビロンの崩壊もなく飛ばされたのだから。僕がヨハネの黙示録を消化できていなくて気づかなかっただけならいいのだけど、深読みせずに普通に読むと、猫の十戒の辺りから先は聖書とのつながりが単なる脱力系のこじつけみたいになってきていて、あの神経症的な黙示録の恐ろしいイメージはどこにいったの、というかギズモとのエッチシーンに「千年の夢」(だっけ)というサブタイトルをつける、その冒涜的とも思えるセンスが怖くなった。・・・というのはまあ偽善的な身振りで、次の日にプレイ再開したら普通にするする読み進めてしまったという。
 前に論集向けの小文で、前作について「物語性の貧困さ、言葉のバイタリティの弱さというのは『未来にキスを』をプレイしたときにも感じたことで、同じ観測者のモチーフを扱いながら、観測者を空に浮かぶ不気味な目玉として描き、それに内側から反抗する青春物語だった『素晴らしき日々』とは対照的だ。しかし、本作の静的なたたずまいを「家族は揺らがない」というキャッチフレーズに重ね合わせて見るならば、ヒロインたちがそれぞれ見せてくれるものの価値が改めて浮かび上がるように思える」などとなにやら知った風なことを書いたけど、猫撫Exで持ち込まれたのはまさに定番中の定番とも言える劇的な物語構成の枠組みであり、組み立て方も凝っていて読んでいてとてもスリリングだった。誰がどの役どころを演じるのか、モーセは誰なのか?アロンは?ファラオは?神様は?というよう様なところを追いかけているだけでも楽しかった。小道具を見るなら、例えば、時間の空間化を因果性の崩壊や言語の融解とつなげるのとか(ゴミ、中国語の部屋装置、ギズモの新聞を読む振り、琴子のとんちんかんな受け答え)、それを旧約聖書的な「〜と言った。そのとおりになった」の仕組みにつなげ、言葉で全てを埋め尽くして言葉自身を瓦解させてエデンの園に還ろうとする目論見とか。
 モーセは神様から預言者に指名されたとき、はじめは自分は口下手だからダメだと尻込みする。それを支えるのが神の奇跡であり、アロンの助けだ。アロンは琴子のはずだった。そして、40年間流浪を続けながらもカナンを前にして道半ばで死んでしまうアロン(とそしてモーセ)のように、琴子は脱出を果たせない。無実の琴子が楽園の礎となり、遠い時空を隔てて子羊ならぬ子猫として復活するのはイエスにもなぞらえられるのかもしれないが、そういう連想はエロゲーとしてはやはりしないほうがいいのかな・・・
 聖書では家族というのは、現代的な家族の絆とかいう意味ではあまり問題にならない。そもそもヨセフ、マリヤ、イエスという家族プラス神様と聖霊という組み合わせ自体が「内側」や「身内」というじめじめ属性と無縁で、きれいさっぱり概念の骨組みに漂白されている。女性といえるのは1人で、究極の処女崇拝的な世界観に守られているものの、エロゲー的なベクトルとは合わない部分がある。黙示録パートでの樹の言動に少しの違和感を感じるのはそのせいなのだろう。その意味で出エジプト記に取材するというのは題材の選択で失敗しているところがあるが、逆に言えば、失敗(=言語)を所与のものとしてそこから出発するのがこの作品のやり方であり僕に与えられた選択肢でもあるのだから、まったくの最短距離におもいきり直球を投げてくる話だと見てもいいだろうと思う。