ゆのはな (65)

 ゆのはのお涙頂戴話とそれに毎回泣かされる主人公、それを信じてしまう町の人たち。「作り話」を受け入れてしまうことの不自然さが強調されているモチーフだが、これが何かの直接的な伏線になっているということはなかったようで、この、伏線に回収しないというやり方が雰囲気ゲーとしてうまいなと思った。「作り話」は他にもあって、仮に階層をつけることも出来るかもしれない。もう一段上の作り話としては、観光ビジネスのために建てられた新しいほうの神社、穂波がとらわれてしまった依姫伝説、由真の百合設定(本人は作り話ではないというだろうが)、わかばの絵本。キャラクターのアイデンティを形成する部分の設定だ。さらに上としては、椿の小説とゆのはのEDがあり、これは創作論的な位置づけを持つと考えることが出来る。
 こうした作り話の積み重ねと対照的に、この作品はとても地味で地に足のついたストーリーで進む。主人公は毎日バイトをするが、その目的は自己実現とか出会いとかそういう胡散臭いものではなく、金を稼ぐことというまっとうなもの。仕事も何か妙に色気のあるものではなく、掃除をしたり配達をしたり、年寄り相手に接客したりという地味なものだ。ヒロインたちからしてみても主人公はお手伝いに来てくれる気のいい兄ちゃんという位置付けで描かれており、湿ったところはない。
 そしてカラッとしたポジティブシンキングな主人公。朝起きるなりハイテンションにエネルギーを補充する姿は印象的で、ONEの起床シーンに輪をかけたような軽快なリズムをつくりだす。ラテン系ならぬ自分には程遠い境地だが、こういう能動的な姿勢は作り話を信じさせるという能動的な作用と同じで、本来なら閉塞した雰囲気であってもおかしくないこの作品の舞台となる町に血を通わせるための、見えない動力源のようになっていると思う。ゆのはな町の人はみんないい人だというし、確かにいい人たちだが、それは拓也というプリズムを通して見ているからというのが大きいだろう。
 ゆのはの守銭奴設定の必然性については謎のままだった。神と人は断絶しているので僕たちに分からないことがあるのは当然で、ゆのはルートでは主人公とゆのはは酔った勢いでくっついてしまい、そのままの流れでゆのはは神であることを止め、守銭奴設定とそれにまつわる彼女のきつい性格はそのまま後景に退く。神というのは向こうからやってくるときは厄災のようなもので、ヨブの話とかにもあるように、絡まれたら理不尽と思わず受け入れるしかない。勤労と蓄財というと八百万の神々というよりはむしろプロ倫で、この地味さが「神」に見捨てられたかのような田舎町が舞台の物語には必要だったのだろう。ここでは神に代わるものを作らなくてはならない。作り話が必要なのであって、その作り話に息を吹き込むのは拓也という「神」なのだろう。
 そうして見てみると、幸福な作り話として見事に均整の取れたわかばルートが最後に配置されていなかったのは残念だ。わかばは町で受け入れられており、わかばと一緒にする仕事も受け入れられている。色気のないはずの仕事なのにいつの間にか距離を縮められるエピソードがあったりする。自分が幸せだと思う生き方を自然にできて、一緒にいても温かさしか感じられない娘さんである。立ち絵の表情も温かくて癒される。ここまで嫌味のないヒロインはエロゲーでしか会えないわけで、その意味で作り話の倫理を一番雄弁に語るのがわかばという女の子だろう。