本棚鎮守の神


 パッケージが邪魔をするのはエロゲーにもあることで、お店に通って手にとっては箱に印刷されている写真がのっぺりしていて萎えるけど、お店を出ると自分の頭の中にオーラをまとったキャラクターの姿が思い浮かんで気になり始めるということを繰り返しているうちに、こんなことで迷っている自分に嫌気が差して最後はやけくそ気味に買ってしまった。近年のフィギュアの進歩はおそらく目覚しいのだろうけど、こちらの年齢が上がるとともに、冷めてしまったときの恐れから購入の心理的なハードルが上がり、こうしてお参りのようなことをしてチューニングしておかないといけないのだから面倒だ。
 キャラクターとしての自分との相性から言ってフィギュアとして買うならパチュリーしかないというのは自分で分かっているつもりだが、それでもいざとなると、設定と音楽とビジュアルとプレイ体験だけという得意な要素で構成された東方キャラクターと、うまい距離感を見つけられるのか見当がつかない。しかし考えてみると、古来から彫像化されたキャラクターというのは近代的な意味での芸術作品の登場人物ではなく、無名の人々の集合的な創作物の登場人物だったわけであり、その意味では隙間だらけのテクストから立ち上がるキャラクターとしてのパチュリーのフィギュアは、古代の彫刻の伝統を正しく伝えるものということになるのかもしれない。エロゲーヒロインのフィギュアを買う仕組みというのは好きなキャラクターを手元において彼女と彼女のもつ物語にいつでもアクセスできるチャンネルがほしいという欲望と、そうした立体物としてのヒロインが自分の日常空間に闖入していることの驚きを味わって自分でコントロールしたいという欲望だろう。パチュリーの場合は物語的な始まりと終わりを持たないキャラクターだから、かえって気楽に気が向いたときにお地蔵様に手を合わせるような感覚で付き合うことが出来るのだろうか。原作に何か「完成形」といえるようなクライマックスの瞬間があるわけではないので、フィギュアのほうが原作に確実に劣るという序列がないという巧妙な仕組み。というわけで、この部屋にある本は誰も持っていったりはしないから、おかしな百合設定は忘れて。ロトマン、バフチン、エイヘンバウム、フロレンスキー、スラヴ神話事典、中世ロシア・アポクリフ集、ベールイのシュタイナー回想録、メリニコフ=ペチェルスキー・・・なんでもいいから、怪しくて楽しい本をいつまでも好きなだけ読んでいてください(僕が買ったまま死蔵しているものばかり)。
 あと、いちおうレビューらしいことも書いておくか。開けてみると心配は杞憂だったようで、素人目にはとても繊細で見事な出来に見える。指も細くて白くきれい。ゆったりした姿勢も衣服の襞の質感もよい。全体的に色調が淡く艶消しされたようになっているのもよく、小物として鉱石などを足元に置くと映える。このサイズのフィギュアを定価で買ったのは初めてだが不満はない。問題は置き場所くらいだ。