走る列車から跳びだして

 ツイッターで流れてきたリンクを何気なく開けてみたら、昔モスクワで話をしたことがある若手作家の人が何か書いていて、この人メディアによく出るようになったなあと思いつつ読んでみたら、最近オランダで自殺した反体制活動家の遺族に話を聞きにいったルポだった。去年の大統領選のときに派手な抗議運動をして当局から目をつけられ、オランダに亡命しようとしたら拒否されて絶望したらしい。そんなに興味ある話題ではないので最後まで読まずに閉じて、休日なのでだらだらしつつ惰眠をむさぼった。すると夢の中で朝の通勤電車にプーチン大統領が乗り込んできた。僕はプーチン氏の後ろにいたのだが、奥のほうから「あーあー」と(いーけないんだー、のイントネーションで)大声で言っている人がいて、プーチン氏が興味深げにしていたので、「あれは誰か人のせいにしようとしてわざとあんなふうな声を出しているのですよ」とロシア語で教えてあげた。プーチン氏は事情が分かったようで、僕にお礼を言うと、電車を降り際に抱擁と頬にキスを交わす挨拶をしてきた。僕はこのキスが前から苦手で、左右両方にやるのだが、後半を失敗してなぜかプーチン氏とディープキスをする羽目になってしまい、口の中が気持ち悪くなって目が覚めた。自業自得だった。最近は仕事で少し反体制派関連の調べものをしているからかもしれない。ミカンを食べて口直しとした。
 だがもうひとつの話を書いてさらに直しておきたい。作家が書いたルポが載っていた媒体が「ロシアの生活」という電子雑誌で、そこの別のコラムがやはり最近ツイッターで流れてきて読んでいた。今回気になったので何の雑誌か見てみたら、作家たちが集まってインテリゲンツィヤを読者として想定して作っている雑誌とのことだった。ロシアは幸か不幸かまだインテリゲンツィヤ(知識人)という自己認識を持つ人たちがけっこういて、一定の水準の教養とか倫理観とかメンタリティを持っている。
 流れてきたコラムというのは、やはり最近のニュースをネタにしたものだった。それは先日、アムール州(シベリアに近い極東で、相当内陸部にある僻地)を夜間に走っていた鉄道の乗客の42歳の男性が、タバコを吸うためにデッキに出て、一服して戻ろうとしたら、間違った扉を開けて線路に落ち、零下40度の中をTシャツとサンダルで最寄りのリヒャルド・ゾルゲ駅まで7km走り、無事に保護されたというニュースだった。同じ日に、西ロシアのウリヤノフスク(レーニンの本名にちなんでつけられた町の名前である)近郊では、ボルボのトラックがビールを積んで雪道を走っていたら、突然馬に曳かれた橇が現れ、避けようとしてプラストフの銅像に突っ込んで壊してしまったという出来事もあった。プラストフというのはこんな感じの絵を描いていた有名な社会主義リアリズムの画家である。甘ったるくユートピア的な農村風景、橇、ボルボのトラックに積まれたビール、零下40度のタイガの静寂、生きるためにサンダルで必死に走るおっさんというシュールなイメージの交錯を見ていると悲しくなるという趣旨のコラムだった。
 おっさんは間違った扉を開け、「そのまま暗闇に足を踏み出した」とニュースは詩的な表現で伝えているという。僕も昔似たような体験をしたことがあるのを思い出していた。当時、モスクワ郊外にホームステイをしていて、前述の若手作家はそこの家の親戚の人だった。毎日のように市内まで電車で通っていたのだが、ある日、終電での帰り道、駅に着いたので降りようとしたら運悪く扉が凍っていて開かなかった。電車が動き出してしまい焦っていたら、近くで先ほどまでクダをまいていた不良少年がやってきて、緊急停止レバーをブーツで蹴飛ばして電車を止めてくれた。それから扉を蹴飛ばしてこじ開けてくれ、開いた隙間から僕と友人は線路脇の真っ白な雪だまりの中にダイブしたのだった。それから家まで歩いて帰ったが、ホームステイ先のおばあさん(小さくてしわくちゃなおばあさん)にその話をしたところ、その晩悪夢を見て夜中に悲鳴を上げて起きてしまったという。真冬のロシアの田舎で、終電で人気のない知らない町に下ろされたらと思うと確かに怖い話だった。だが、電車から跳んだあのとき、僕は妙な解放感を味わったようだった。扉が凍っていたのが偶然ならば、ガラガラの車内で近くに不良少年がいたことも偶然で、すべては夢の中のことのように一瞬で滑らかに起こった。白い雪に包まれて雪まみれになったとき、僕と友人は笑いあった。その友人も今はロシアから離れてどこかでひっそりと生きている。あの時、僕たちはどんな「暗闇」に足を踏み出したのだろうか。おばあさんは元気だろうか。今度久しぶりに聞いてみよう。