かみのゆ (65)

 この前久しぶりに見返したNieA_7に続いてまた銭湯のお話。エロゲーの中でしかまともな風呂に入らないような野蛮人なので風呂にまつわることをほとんど何も知らないのだが、「いいお湯でした」というときの「いいお湯」とはどういうものなのだろう。神様たちによると、主人公が入るとお湯がとろりと気持ちよくなるのだという。お風呂は疲れと汚れを落としてさっぱりするところなので、きれいな場所でないと気持ちよく入れないものだが、汚れを落とすところなので汚れがたまる不浄の空間であるとの考え方もあるだろう。唐突にロシアの話をすると、といってもバーニャと言われるロシアのサウナ風呂などに実際に入ったことなどはない半可通だが、かの国では昔の農民はペチカと呼ばれる暖炉の中が風呂をかねていて、だから暖炉は家庭を守り火と煤を生み出す場所であると同時に、水と汚れにも結びついているような、民俗学的にいろいろな機能を果たす場所であって、ドモヴォイとかキキーモラとかいった家霊の類もペチカを守ったり反対にいたずらしたりしていたとか。昔モスクワで見たダニール・ハルムスとアレクサンドル・ヴヴェジェンスキー原作の猥雑な劇で、バンシク(三助)が悲壮なむっつりスケベを演じて客席の爆笑を呼んでいたのを思い出す。そういう意味でも風呂に神様たちが集まるコメディという本作の設定は、神話的にまっとうなものであって、風呂掃除やボイラーやお湯がストーリーに組み込まれているのも自然な流れ。
 ペチカとバーニャは別のものではあるが、バーニャに入る人にかける挨拶に「軽い蒸気を(恵まれますように)!」と言うものがある。つまり、サウナ好きの人たちは湯気の種類とか感触とかをよく知っていて、硬すぎず軽い蒸気が一番よいものとされているのだという。本作に興味を持ったきっかけは、銭湯とか神様とかいう設定もあったが、グラフィックが鮮やかで目を引かれたということがある。明るい色が多くて軽やかな感じで、ヒロインたちの髪も一本一本の毛の房というよりはふんわりした抽象的なマッスのようで、べったりせずにきれいなグラデーションがかかっている。あるいは、奥行きや影がなくてすっきりしすぎてきることで幻惑する歌舞伎的な空間構成とか。何のことはない普通のアニメ的な作画なのかもしれないが(キュビズムを好むあや乃なら別の見方をするだろう)、髪や肌が湿度に浸されて物質的な生々しさが前面化するはずの風呂、そして鮮やかさよりはしっとり落ち着いた色彩のほうがリラックスできそうな気がする風呂においては、おかしな演出といえないだろうか。もちろん、お湯とか湯気とかの効果とかヒロインたちの血行のよさそうな肌とかがあるのでお風呂に入っていない感じがするということはないのだが。しかし考えてみれば、こうした非リアリスティックな処理こそが本作の真骨頂であるともいえる気がしてくる。どのヒロインも普段は人前に出さない一面が風呂では出てきてしまい、そうした本質と普段の顔とに分裂してしまう自分を人は受け入れてくれるのかということが問題にされている。本音を言えば自分はまともに人と付き合えるような人間ではないので付き合う気もない、と言う話である。しかし神様たちそうした日々の精神的な汚れを落としに風呂に集まってくると言うのが、人情物としての風呂というジャンルであり、本作もお江戸風の「あたしっ娘」を中心に据えた人情物である。子供の頃に、何かのシールやら文房具やらの鮮やかな色彩の世界に目を奪われたことがある。色鮮やかなヒロインたちやあたしっ娘の非現実的な魅力は、そうした感覚に訴えるところがある。個別の問題自体は、性格転換に始まり性転換とか年齢転換とか生物種転換とかなかなかヘビーなはずなのだが、すべては明るくて抽象的な色彩空間と「軽い蒸気」に包まれて、お湯に流されてしまう。そうした軽やかな温かさに酔い、かみのゆ丼や湯上り美人の籐子のお相伴に舌鼓を打ちつつ、末永くいつまでも幸せに暮らしました、なんていうことがあるのなら、それはもう迷う余地のないめでたしめでたし。