唐辺葉介『電気サーカス』

電気サーカス

電気サーカス

 ネットで日記めいた文章を書くことに関する鬱屈といわゆる社会的な自分探しを扱った日記体の小説を読んで、その感想をネットの日記に書く。商業文学作品であり単なる創作物であると割り切って感想を書かないと、その自爆にこちらが巻き込まれてしまうわけだが、あまり距離を置きすぎても自分の貧しさにがっかりすることになる。こんなへっぽこブログであっても、書くたびにがっかりするような文章であっても、書くこと自体を面倒に感じることがあっても、一応本人はそれなりに楽しみながら書いているのだから。というわけでいつものごとく、結論を考えずに半ば自動的に書いてしまおう。
 本作でようやく、唐辺葉介エロゲーライターから小説家に転進したことに納得できた。だからどうだという話でもあるが、自分は頭が悪いので割りと時間がかかったという話だ。あらすじやモチーフはエロゲー時代とそれほど変わらない部分も多いのだが、それほどまでに日記体(正確には日記体ではないが、語りの流れ方や克明さは日記に近い感じがする)という形式は小説になじみ易く、すぐさま背後にジャンルの長い文学的伝統を背負うことができる装置であるのだ。以前にキラ☆キラの感想でも書いたはずだが、唐辺氏の文章では出来事は叙事的に流れていくものとなっており、何かが起きてもその次に起きることがそれを押し流していく。厳密に言えば一人称の小説に叙事も何もないのだが、主人公は冷静の壊れ気味の「僕」であり(僕小説の系譜というのもあるのだろうがひとまず無視)、叙情的に自己陶酔できず、喜怒哀楽を積極的に描写しないので、三人称に近い。間接的な描写の中から世界観が立ち上がってくる。「僕だって、ギリシャ神話の登場人物みたいに放縦に、その瞬間に嫌いなものは全面的に憎みたいし、好きなものは全面的に肯定してみたかった。僕の場合、それらはいつだってごっちゃになっていて、何を見たって、愛しているのか憎んでいるのか、訳がわからない。自分の感情を規定することができない。ただ、奥の方に黒い何かが渦巻いている。」ギリシア神話は演劇を基盤とする儀礼の文学であり、役者は英雄になりきって感情を全力で演じ、自己陶酔どころか入神することが求められる。そのことに対する不能感は、登場人物が英雄的な海外文学や古典を読むというかたちでも現れる。それを求めても、例えば本作の主人公は、不能なスヴィドリガイロフに共感を抱いてしまうのだ。
 主人公は、出来事の流れの中を通過しながら世界と自分を理解していく。だから語りは、基本的には過去から現在に向かって次第に近づいていくという形をとる。時間が経過していくということが不可欠なので、今現在の事やこれから起こることだけを切り離して取り上げることはできない。一人称形式ならば当然のことだけど、現在がゴールという形にならざるをえない。ではなぜ本作では2000年頃、主人公が20代前半の数年間を集中的に取り上げたのか。その理由はたぶん作者の個人的なものもあるのだろうからどうでもよいのだが、僕としてはやはり20代前半の魔力としか言いようのないもののおかげで刺さるものがあった。唐辺氏や滝本氏と自分は同世代だが、この世代が社会に出ようとしてその社会に対する幻想に振り回された2000年代前半というのは、情報がもっとクリアになった現在から見ると異質で、NHKにようこそやその唐辺版ともいえる本作に見られるように、すでに神話化すらされている。もう10年の彼方に過ぎ去ってしまったしいまさら感があるが、語り手としての唐辺氏は現代の村上春樹といえるのかもしれない(村上春樹本人はもう現役という気がしない。こんなキャッチコピーで唐辺氏が売れたら致命的なことになるかもしれないが)。
 では唐辺葉介は10年代の僕らの世代のことを書かないのだろうか。また、僕らはそんなものを読みたいのだろうか。主人公が自分探しをする若者だから青春の文学になるわけで、例えば本作の主人公のアラフォーを実感を持って書いたら、それは文学というよりはワープアの社会問題を扱うドキュメンタリー番組、あるいはそのパロディになるのではないか。それでは寒々しすぎるだろうか。それともきちんと社会の歯車になり、仕事でヘトヘトになる青年(あるいは中年)の愛(?)や幸福についての小説だろうか。多くの作家は、「青春の自意識小説」を書けなくなると、あいた空白を埋めるために、文学的伝統も含めた歴史やジャンルの意匠に頼るようになる。唐辺氏は本作で、ひとまず形式と内容の理想的な一致を達成したように見える。この先これを再生産し続けてもそれなりはよい作家であり続けるだろうし、磨きがかかってもっとよくなるかもしれない(偉そうなネット日記書きだ…)。年をとると自意識が摩滅して感度が悪くなってくるので、時々このような小説を読んで心の中に潜っていかねばならないという需要もある。でも、そういう需給関係はあまり嬉しくないかもしれない。そのうちに、本作の主人公が書く日記とあまり変わらなくなってしまうのではないか。僕自身も、いつまでもこのような形で小説に頼っていてはダメなのかもしれない。だからといって他人と向き合うというのも…。答えは出かかっているんだよね、と楽観的なことを書いてひとまず締めておこう。