冬に時間は流れるか

 「凪のあすから」は陰影に富んだ青がきれいな作品だ。後半に冬が舞台(というか時代?)になってから、地上は古びてひんやりとした田舎町になって、海の中も廃墟のようになってしまった。5年の時間が過ぎた間に、みんなの思いはまわりの風景ほど劇的に痛ましくではないけれど、同じようにひんやりと凝結し、ひび割れ、痛ましく純化されていった。風景は心象を先回りしてくれ、抱えるのに疲れた感情を負担して受け入れてくれる。廃墟の癒し効果と言ってしまってもいいのだろうけど、この作品の青い廃墟は、丸みのある繊細なキャラクターデザインや、気持ちを内面に飲み込みがちの台詞回しや、きれいな声で、時間の中で折り重ねられ、積み重ねられていく片思いの甘い痛みを、ひんやりと冷やして、空気の中に溶け込ませていく(空気の温度と恋愛というネタでは、前に「春萌」や「秋空に舞うコンフェティ」の感想でもちょこっと書いた)。ベクトルが向き合わない思いで回る群像劇はチェーホフ劇が好む構造でもあるが、「凪のあすから」の美術や音声による空気感の純度は、劇場演劇とはだいぶ異なる。感情をもつれさせてこちらを疲れさせていくようなストーリーテリングは必ずしも褒められたものではない。でも、この青い風景の中に折り重ねられていくのを見るのは別で、その冷えた空気を自分でも感じられるような気がして終わりが近づくのが惜しくなっていく。


 というようなことを書いておきたくなったのは、実家が売却されることが決まり、自分の荷物を引き取りに行ってきたからということもある。9歳から25歳くらいまで、物心ついてから大人になるまでの時間を過ごしてきた家だ。もう十年くらい定住しておらず、時おり本を取りに帰ったりするくらいだった。久しぶりに駅から歩いて行ってみると、町が潤ってきたせいか、住民が時間の余っている年寄りばかりになったせいか、道路や家並みが僕の記憶の中のものよりもこざっぱりとしたきれいなものになっていて(建材も20年前より進化したのだから当然か)、でもところどころ年季が増したように感じられる気配があったりした。通学路だった130段もの大階段は補修工事中で、田んぼ道はアスファルトで舗装されていた。近所の公園はきれいに整備された代わりに、サッカーや野球をする子供はまったくいなくなっていた。しょっちゅうボールを放り込んでは怒られていた家はリフォームされていたが、ボールを蹴り当てて遊んでいた壁は埃っぽくなっていた。我が家に関しては、親も含めて現在はきちんと人が居住していないので荒廃が目立っていた。何よりもたまにこうした機会に会うたびに親にも老いの影が見えてきて寂しい。ひんやりした冬の空気と明るい光の中、決して甘美な思い出ばかりとはいえない子供時代の記憶の気配の中に身を置くと、これは「凪のあすから」の空気感とも通じる感傷だと思った。
 僕の荷物は本ばかりだ。思い出の品とかまでは手が回らなかった。憑かれたように蒐集していたロシア語の本とか留学時の資料とかは捨てにくくて、結局ほとんど全部をもってきた結果(本は呪いなので、捨てるにしてもちゃんと供養したい)、小さめの段ボール箱70〜80箱分になってしまった。これまでに引越しの時とかに既にそれと同量くらいを今のアパートに持ってきていたけど、今回の荷物のおかげで居住スペースがかなり狭くなり、身体を横にしないで歩けるところがなくなった。夜中までかかってトラックの荷台に積み、
 父に手伝ってもらってロープを巻きつけて固定する。荷台の向こうからこちらに父が掛け声をかけてロープを放り投げるのだが、その度に見上げた夜空が澄んでいて、星と月がきれいだった。最後に家でこれを見ることができてよかった。月と星は何年経っても変わらないけど、僕が育った場所はこれからは記憶の中だけのものになる。その当たり前のことを理解するための目印だ。