Pretty x Cation (45)

 エロゲーを海外では「デート・シム」ということがあるそうで、それを聞いたときには自分がパソコンでデートの練習をしているかのようなまとめ方に反感を覚えたものである。エロゲーが物語を失ったとき、残ったのはヒロインの出現先や趣味を追いかける作業という「ストーカー要素」と、ほとんどの行為が消費行動に帰結してしまう世界で従順な消費者として振舞うための効率的な指針としての「商品カタログ」だった。ヒロインとの距離を縮めるための胸躍る物語や深刻な問題が都合よく起こってくれるわけではない。「可愛いなあ」と思ったたらひたすらヒロインの出現先に足を運び、服を買ったりスイーツを食べたりファッション誌を買ったり行楽地に出かけたりといったバカらしい消費行動で自分を成長させ、何かの偶然が起きてヒロインと仲良くなり、頃合を見計らって「好きです」「私もです」「今日[告白したその日]、泊まりに行ってもいい?」というそれなりにありえそうなパターンのやりとりがあって結ばれ、その後も何かのついでにむらむら来て事に及ぶことを繰り返し(物語の欠如を補おうとした結果、デートついでの野外での行為が多い)、ボリューム的に程よいところで作品は終わって、「永遠に続く愛」とかいう英語のテロップが出る。どこかのマーケッターがカップルの消費行動について簡単にまとめてみました、といった体の、まことに散文的な流れである。あるいは付き合うってこういうことなんだろうなという高校生の貧しい妄想の具現化というか。形而上的で「清らか」な至上の恋愛を楽しむためのエロゲーで、こんな家畜のように無害な消費欲と性欲の発散を押し付けられても、まずはバカにされているような気分が先にたってしまう。さらに、この無邪気な家畜主人公は、初エッチ後の裸のヒロインや、デート中のヒロインをスマホで写真に撮って悦に入るという、恐るべきデリカシーのない振る舞いを見せてくれるので、自分の恋愛がAVレベルに矮小化されたようで悲しくなってくる。咲良の制服エッチのシーンで主人公が動画を撮り始めたとき(ただし実際のアニメーションはない…)には、怒りが込み上げてきて気持ち悪くなった。

 だが、現実の男女の付き合いというのは外から見れば概ねこういうものなのかもしれなくて、その意味でこれは冷徹で残酷なリアリズムなのかもしれない。付き合いは面倒くさいものであり、放っておいても仲が深まるものではないから、週末には「思い出を作りに」どこかへ出かけなきゃならない。歩き回って疲れたら一休みして、腹が満たされたら次は性欲だ。ずっと一緒にいると間が持たないから、趣味をすり合わせなきゃならない(だが、あまり突き詰めると必ずすれ違いが生じるから、作中では深く掘り下げられない)。都会を知らないキャラという記号と戯れて、話題をひねり出さねばならない。相手とは「チェイン」(LINE)で起床から就寝までこまめなホウレンソウを欠かしてはならず、小学生じみたスタンプでの無邪気なやりとりも身につけなければならない。これだけ労力を使っているのは、これだけ自分を犠牲にしているのは、あなたが好きだからなのよ、だからあなたもそれに見合った犠牲をして見せて……となると本作では描かれなかったバッドエンド、恋愛の終焉だが、現実ではこうしたことも乗り越えて関係を維持していかなければならない。

 このあたりのことは体験版をやってある程度は覚悟していたし、他に期するところがあって手に取った作品だったのだけど、それでもこの、今日は恵比寿でアロマオイルを買って「魅力」を2ポイント上げる的な日常の、剥き出しになった形式の空虚さには厳しいものがあった。

 では恋愛の「内側」はどうだろうか。彼女は本当に可愛いだろうか。彼女といて幸せだろうか。作中ではヒロインとのやり取りを外側からあっさり説明する描写、「それから話をして別れた」のようなパターンが多くて、実際にかけあいをしたとしてもアナウンサーとテレビ越しにじゃんけんしたとか、疲れたから早く帰って寝よう、そうだね疲れたね、じゃあさよならみたいな、ある意味で生々しいつまらなさのやり取りばかりで、悟りが開けそうになる。ところが、そういう表層的なやり取りばかりでも、だんだんヒロインの生活や会話のリズムが分かってきて、彼女たちと空虚な日常を満たすようにあちこち連れまわして性行為に励むと、大して距離が埋まっていないはずなのに簡単にこちらを信じきって身を任せてくれる純情で可愛い彼女に、慈愛と混ざったような興奮を覚えることができる。あるいは僕の方が慈愛をかけられているのかもしれない。この辺の日常の空虚さと女の子の可愛さの近さがこのシリーズの魅力と言えば魅力なのかもしれない。いちおう各シナリオに山場らしきものはあって、ヒロインに親が見合い写真を送ってきたり、料理ができなくてしょげたり、だらしない姉にストレスを感じたり、ロシアから親が来たりといった問題とも言えないような問題を解決して終わるわけだけど、実際には終わった感じがしないこと、可愛い彼女との平坦な日常はこの後も続いていくことが重要で、そのためにアペンドディスクが坦々と出されていくのだろう。彼女との日常は面白くはないけど、面白さは必要ない、その代わりに彼女は可愛くて、純真で、安心で、手軽なのだから。小町先生は可愛い、希美も可愛い、咲良も可愛い、レーチェも可愛い。みんな少し困ったような優しい笑顔を浮かべる(特に咲良とレーチェだが、本当は何に困っているのだろう)。声もみんな穏やかで可愛い(特に咲良が素晴らしい)。要するに絵と声は素晴らしく、無難なことを囀っている限り女の子はみんな可愛いというひどいまとめ方もできるが、とりあえずこの作品を買った目的であるレーチェについては一言触れておこう。

 ロシア娘ヒロインになぜこのような珍妙な名前を付けたのかはどうやら作中では明かされなかったようだし、僕も製作者の意図がいまいちつかみきれないので好きなように妄想させてもらおう。「サプサン」は隼を意味するロシア語で、現在は確かペテルブルク〜モスクワ間とモスクワ〜ニジニ・ノヴゴロド間を運行している特急列車の名称でもある。日本でいう新幹線みたいなもので、昔はペテルブルク〜モスクワ間といえば、飛行機でなければ寝台列車「赤い矢」に乗るのが定番だった。今でも赤い矢号は走っているけど、数年前に欧州製車両のサプサンが運行を開始して陰に隠れた。「エレクトリーチカ」はロシア語では特急でも地下鉄でもない「近郊列車」を意味し、田舎や都市郊外の鈍行列車を指す。サプサンはエレクトリーチカではなくスコロスノイ・ポエズド(特急)である。乗客輸送よりは石炭や石油等の貨物輸送が中心のロシアの鉄道産業においては、エレクトリーチカの多くは赤字事業でもある。サプサンは動物の名前なので苗字としては原理的にはありえるが、エレクトリーチカは人名としてはおかしい。ただし、ソビエト時代には熱狂的な庶民が革命家や産業の発展に由来するキラキラネームを自分の子供に付ける風潮が一部であり、「エレクトリフィカーツィヤ」(電化)や「マルレーン」(マルクスレーニン)や「トラクトル」(トラクター)、「オリンピアーダ」(五輪)や「ワテルペリコスマ」(ワレンチナ・テレシコワ、初の女性宇宙飛行士)といった名前が現れた。というわけで、エレクトリーチカ・サプサンというのは中途半端に田舎っぽくて垢抜けない、ソビエト的で珍妙な名前なのである。ロシアのあだ名の作り方はあまり知らないのだが、「レーチェ」というのは古代教会スラヴ語のрече、つまり神様とかが「語った」という動詞過去形を思わせて奇妙である。穏やかでおとなしいレーチェは、この名前のせいで子供時代にいじめられたかもしれない。そして日本の戦国時代に逃避したのだ。礼儀と名誉と武勲を尊ぶ日本のサムライに憧れ、ロシアから逃げるように、期待に胸を膨らませて日本にやってきた。でも日本でもなぜか浮いてしまっている。佃煮に白米という奇妙な弁当を愛する孤独な歴史オタクである。秋葉原のゲーセンの戦国武将ゲームで遊ぶとき、自分のキャラに「零知恵」と名づけてほっこりしていたさまには、悲しみを通り越して可愛さを感じた。やや違う話になるが、ガイジン訛りもおかしい。ロシア人であるはずなのに、なぜか英語風に巻いたRで訛る(ロシア語のRの発音は日本語とほぼ同じである)。両親が来日してシリアスなシーンで3人そろってRを巻きだしたときには、異様な光景に笑いが止まらなかった。ちなみに、ガルプツィなど他のいくつかの単語の発音は悪くなかった。そんなかわいそうな女の子なのだが、Rの困難を抱えて一生懸命話しかけてくれ(どもり属性を発展させた変則的な萌え要素である)、穏やかで礼儀正しいのに距離感や身体感覚が日本人とは違っていて、いきなり近づいたり、近づくときにわざわざ断ったり、やや大柄な身体をもてあますように縮こまっていたりしつつも、時にはすらりとして怜悧な表情を見せたり、肌が白くて眩しかったりもする。こういう子になら、「私だって、あなたの体を求めています」と言われてもすんなり聞けてしまう(ただし、彼女の口からためらいなくカリという言葉が出てきたのにはがっかりした。上記の撮影のエピソードもそうだが、基本的に無頓着で信用できないライターである。他にも、レーチェが作ったロシア料理の弁当を主人公が「日本人の口に合わない味付けだ」と断ずるエピソードがあるが、これは味付けの問題ではなく冷めているからだろうと思った)。なにより、繰り返しになるが、少し困ったような笑顔がとてもいい。恐らく能力は高いはずなのに、中身のない主人公と付き合ったおかげでしまりのない会話をだらだらと続けている。そこに若さも優しさも感じられるわけで、つくづく隙だらけの歪な作品だと思うが、突き放す気にもなれない。レーチェたちと共に幻想と現実の間で奇妙なバランスをとりながら、彼女たちを連れまわして愛で、小さな喜びを積み重ねていくのだ。その先には何もないのかもしれなくとも。あー、れいちゃん(レーチェにつけたあだ名)の枕カバーどこに飾ろっかなあ。


(2014年7月22日追記)
 配信3ヶ月目になるアペンドシナリオをひとつやってみた。
 予想はしていたけど、これは物語としての良し悪しとは別の次元で、プレイヤーの時間に寄り添う作品という意味で、現象としてありがたい。辛い点数をつけてしまった作品だけど、この点もきちんと感謝して、いつか一言触れないとばちが当たるなあ。