唐辺葉介『つめたいオゾン』

 『電気サーカス』のようにただ流れていく物語もいいけど、本作のように形式を工芸品的に洗練させた作品もすばらしい。人は何かを諦めながら生きていくとか、いつかそれまでの自分を捨てなければならないときがくるとか、そういう説教くさい人生訓があるが、本来はこんな風に非倫理的なまでに美しくあるべき事なのだろう。安心して自分を委ねられる人がほしい、すべてを共有したい、むしろ女性化した自分を愛したいというエロゲー的で下世話な欲望が昇華される。理想的な半身を描く言葉は注意深く、傷ついた彼らにも深く踏み込もうとはせず、大人しい二人が抵抗したり、諦めて受け入れたり、喜んだり悲しんだりするのを静かに描いていく。強い感情は無視されるのではなく、押し殺されるのでもなく、語りのフィルタに吸収されて大気中に薄く拡散する。二人は、自分と同じ境遇の相手を思って、手にした小さな喜びすらも手放していくけれど、それでも終わりは確実に近づいてくる。心の中に逃げ込んでも、その心すら奪われる。お互いに相手がいたからこそ生き続けられると分かったのに、それ以上近づける思ったらそんな人生は終わり、その後にはまったく別の人間になる。人格の幸福な共有は、それ以上に残酷な断絶の上にしか成り立たず、半身どころか本体すらも失われる。そこに悲しみはなく、悲しみに似た感情は、どこかに宙吊りになっている。
 設定やプロットの妙だけを取り出してみてもあまり意味はない気がする。「似た」作品としては『アルジャーノンに花束を』があるし、さらに遡れば1912年に書かれた『ミルスコンツァ』("終わりからの世界")もある。後者は短い対話劇で、冒頭では介護老人だった二人が、会話をしているうちに壮年に、青年に、幼馴染の二人にと若返っていき、最後は乳母車に乗る無邪気な赤子になって終わるという話で、二人の人生が転倒した走馬灯として描かれる。叙情的な演出は何もなく、乾いた断片的な会話と逆行する時間の厳格な流れが妙な印象を与える掌編だ。時間の流れとは歴史であり、つまり積層していくこと、獲得していくことが大前提であるはずなのに、実はそれはある角度から見た場合の見え方の問題に過ぎないのかもしれない。
 引き算の人生。引かれていくもの、失われてしまうものを拾い集めていくのは意味のない行為だが、引かれ後に残ったものの方がもっと意味がないという虚無的な諦念から出ているように思えてやるせない。脩一の祖父は、現在の自分は夢の中の存在であって、本当は今も死んだ妻、というよりは少年の頃に好きになった女の子と輝く夏の日の中にいると想像するのが好きだという。花絵は暇さえあれば眠ること、眠って別の人生を見ていることで自分の生活を忘れようとしていた。僕も睡眠は好きなので共感できるのだけど、誰しもが何らかの希望を秘めながら生きているとかそういうことではなくて、結局最後まで残るのはふとした断片的な瞬間の数々だけだ、というのはさびしいなということだ。でもそうやって拾い集めるもの、懐かしがるものさえもないとしたらその方がもっとさびしいことであり、自分の送っている日々を省みて若干の寒気を覚えつつも、代わりにこうして美しい形の作品に出会えることには感謝しなければいけない。オゾンは人を太陽から守り、その残酷な光を温かくやさしいものに作り変えている。そしてこの作品は、つめたいフィクションのフィルタがあるからこそ、痛ましい二人を見ても、悲しいだけでなく思いのほか美しいと感じられるのかもしれない。自分がいちいちこの作者の作品に惹かれるのは、たぶんフィルタとしての語りの機能の仕方やフィルタを通して見える世界に惹かれているのであり、淀まず淡々と進む語りは本作では真骨頂を見せていたようにも思えた。
 シナリオライターから転進して以降も作品には通底するテーマがあり、作者がエロゲーからスタートしたのは偶然ではなかったと作品を重ねるごとに強く感じられる。唐辺さんが作家としてちゃんと前進しているかというのは僕にはよく分からない。僕はできれば作品と距離を取りたくないエロゲー読みだし、科学は継続を前提とするが創作は非連続なものであるし、歳のせいか、そもそも作家は成熟するという考え方があまり好きでなくなった。でも彼が非連続な世界をフィルタで濾し取って描く世界を、これから先も見続けていけるといいなと思う。