文学の外側に広がる領域

 滝本竜彦のウェブサイト(http://tatsuhikotakimoto.com/)を読んでいた。「光の小説」というスピリチュアルなライト(光)ノベルを連載していて、NHKにようこそも含むこれまでの作品に対する率直なコメントもあったりして面白い(例えばこことか)。一時期は小説家を辞めたのではないかと思われるような音沙汰しか聞こえてこなくて残念に思っていたが、スピリチュアル系という特異なタイプとはいえ、というかむしろ特異なタイプだからこそいっそう、こうして文章を頻繁に公表してくれるようになったのは嬉しいことだ。今では書くことに対するわだかまりも克服したという。
 僕自身はスピリチュアルなものはあまり信用していない、というか歴史とか文化とかをとばしてワークとかトレーニングみたいに実用性が剥き出しにされがちなのに引いてしまうのだが(精神世界なのに実利的、悟りのためなのに欲望がぎらついている)、確かに瞑想テキストや催眠音声で呼吸やイメージをコントロールしようとすると身体的な反応があるような気がするし、そうしたスピリチュアルなものの存在や意義を否定するようなつもりはない。むしろ、伝統的な芸術(知識人の創作)の倫理の外にはみ出る危険な試みとして、スリリングなものなのだろうなという期待感がある。ロシア文学で言えば、ミハイル・クズミンの創作だろう。クズミンは象徴派の周辺にいながらも、オカルトや同性愛、旧教徒、ビザンチン文化などのマージナルなところに主な足場があって、危険なほど奇妙に明るい作品ばかりを書いていた。クズミンの作品を少し読みたくなってきた。
 滝本竜彦の「光の小説」は、あからさまにスピリチュアルな仕掛けを使い(作者が作品に関連した瞑想音声を読み上げてアップロードまでしている)、それでもいつもの娯楽作品としてのユーモアも捨てていないところがスリルがあるのかもしれない。笑いは基本的に宗教の生真面目さを引きずりおろすものだけど、この作品ではどちらが上とかいうような争いはなく、作者が光と呼ぶもので包み込んで共存させている。共存というか、スピリチュアルなものの方が多分上位なのだけど、それでもユーモアが殺されていないところがよい。そのような「光」を気持ち悪がるほどには、滝本竜彦の創作に対する僕の関心は低くないというだけのことなのかもしれない。あと、気分的な問題なのかもしれないが、星とか光とかエネルギーとか、歴史の重みのない概念ていうのは、見方を変えれば自由度が高くていいかもと思える部分もある。NHKや当時の一連の作品から更に先に進むにはこの方向が論理的だし(まだ僕の家の鍵のキーホルダーはマンガ版NHKを買ってゲットした岬ちゃんのやつのままだけど、結局、永遠にNHKの場所で足踏みしていることなどできないのだ)、確かに僕のような門外漢でも「エネルギー」を頂けてしまうので、その活動に感謝しつつ応援したい。多分、これまでクズミンの時代だけでなく、70年代にも80年代にも90年代も幾多の芸術家によって繰り返し挑戦されてきた分野なのだろうけど、滝本竜彦の文章には同世代の人間として引き寄せられる。同時代感がある。新しい地平を見てみたいというのもあるし、単純に読んで安らぎを得られてしまいそうということもある。ありがたいことだ。