驚きのギズモ:猫撫ディストーションが見せる目的論と因果論(2011年)

 then-dさん主宰のtheoria発行『恋愛ゲーム総合論集』(2011年、C80)に寄稿させていただいた小文を公開します。then-dさんは丁寧にチェックしてくださったのですが、掲載稿のファイルが手元にないので他のものです。誤字等が残っているかもしれませんがご容赦ください。
 8000字程度。内容に特にいじっておりません。的外れなことを書いたかもしれませんが、背伸びをしようとしていてかっこ悪いことを除けば、自分としてはそれなりに気に入っています。何かの通過点や痕跡に過ぎない文章ですが、意図したことと違う意味であっても、何か前向きなものを見出してもらえれば嬉しいです。お暇な方はどうぞ。
 以前にも書きましたが、then-dさんなしにはありえなかった文章であり、改めて感謝を申し上げたいと思います。どうか安らかに。




あとがき
 論集向けの文章なのに先行文献やライター陣の過去作にあたるのをサボりました。お前の駄文自体おもいっきり既知の内容だよという方も多いかと思いますが、ご容赦ください。我ながら、結局いつもエロゲーの感想文で書いていることとあまり変わらないかもと思う節もありましたが(本作の感想も本稿とは別に書きました)、今回みたいに気に入った作品について時間を置いて書くのはいい経験になりました。それが可能な作品だったこともよかった。



驚きのギズモ:猫撫ディストーションが見せる目的論と因果論


1. はじめに
 エロゲーをある程度継続的にやり続けている人には自分が何を求めてプレイしているのか、卒業しないのか、多少とも自覚を持っている人が多いように見受けられるが、「自分が求めていたもの」とぴったり一致するゲームに出会えてその幸運な出会いを喜ぶことがあったとしても、「自分が求めていたもの」というのは事前にきちんと明文化できるようなものではなく、できるくらいならそれは始めから自分の中にあったものを外から改めて与えられて再確認したに過ぎないわけで、実際は、「自分が求めていたもの」というのは事後的に再構成される、欲望の痕跡のようなものに過ぎない。求められるべきは未知のものだ。
 そうした意味で、『猫撫ディストーション』は僕らの期待にこたえるようなセンス・オブ・ワンダーに溢れた作品だっただろうか。作品受容の仕方はもちろん人それぞれだけど、『未来にキスを』で辿り着いたとされる(?)「楽園」の、その先を求め続けながらも、「飛鳥井全死」や「荻浦嬢瑠璃」といった小説が答えと言われても、すんなりと納得しきれない読者らにとっては、この猫撫こそが10年間待った「次」だと期待していたはずだ(僕はエロゲーやり始めたのが2005年頃なのでそんなに待ってませんすいません)。そして、少なくとも僕の場合は、そんなにすごい感じじゃなかったな、こんなもんかな、というのが正直な感想だ。
 これだけ毎月多くの作品が発表され、アニメやラノベとも一部文化圏を共有する中で、何か全く驚くべきものをつくるというのは難しい話で、必ずどこかで見たようなものになるし、それはそれ自体としては全然悪いことではないし、そもそも「キャラはコピーされるたびによりリアルになる」(斎藤環)というような捩れた仕組みもあったりする。そうした中でエロゲーにおいて驚くとはどういうことかということを、プログラムとして造られたに過ぎない存在である、本作品のヒロインたちの言動を通して考えてみたい。


2. 前提:プログラムと言葉
 エロゲーのヒロインがしゃべる言葉は決まっていて、クリックすると決められた台詞を話す。それにプレイヤーは一喜一憂し、時にはそれ以上のことをもいたす。これは改めて言うまでもなくちょっと空しい作業だが、その空しさが特に実感されるのは、おそらくクリア済みのゲームを再プレイするときではないか。初読時には気づかなかったニュアンスに気づくことができ、自分の好きな作品やヒロインに対する理解を読む度ごとに深めることができるということはあるだろうが、それ以上に、初読時の未知のものに対する期待感や鮮烈な印象が既に失われたことを確認して覚える軽い喪失感や、それでもあえて楽しんでやるぜという滑稽でありながらもある意味求道的なスタンスとそれに伴う空しさを回避することは難しい。それは僕らが夢想する、恋愛や性愛の一回性に対する神聖な感情から出てきたものである以上、感傷的の一言で片付けてしまうのはよくないように思える。
 乱暴な類比ではあるが、恋愛ゲームがプログラムされたものであるという不如意さは、そもそも言語が原理的に持つ不自由さとも通じるものがあると見ることができる。言葉にして表すというのは、無限に開かれた可能性を限定して形にしていくことなので、言葉とは発語されたそばから否定され、論駁されていく宿命を持つものであるということは、多分バフチンドストエフスキー作品のポリフォニー性や一般的な言語哲学を論じた時に言ったことのはずだ(出典は勘弁してください)。こうした言葉の機能の不完全さを補うために、人は際限なくしゃべり続ける。
 エロゲーにおいては、1つの作品が際限なく新しい言葉を紡ぎ続けるのは現状では技術的に不可能なので、いくつか代替案が実施されている。最も強引でなし崩し的なのは、おそらく、FDをつくって文字通り言葉を書き足していくことだ。サーカス作品とか、ファンにとってはまさに楽園を実現させるための実験なのだろうなあとか傍目には思う。もっと原理的な方法としては、言葉ではなく、「無限」に向かって開かれたものである絵や音楽や声色の印象によって語ることがあるが、これは本稿の範囲を超えるので除外。ここで注目したいのは、マルチシナリオシステムを推し進めた形式としての文学的な量子論的多世界設定のモチーフである。設定に「他にも多くの可能世界(可能な言葉)」があるという余白をつくることで、一度限定された言葉を開放するための余地が確保される。多世界設定(やループ構造シナリオ)については昨今語り尽くされた感があり今更で恐縮だが、本稿のテーマである「驚き」に即して一考を加えてみるので、お付き合い頂ければ幸い。


3. 式子、結衣:永遠を受け入れること
 「家族は揺らがない」をキャッチフレーズとする本作では、それを家族と呼べるかどうかは別として、ヒロインたちがそれぞれの「揺らがず永遠に続く理想の関係像」を提示する。植物と鉱物の永続性に仮託した式子(ロリータ母)と結衣(男言葉系の姉)のモデルは単純化しやすい。植物のように自他の境界を曖昧にして絡み合いながら、永遠に循環する生を生き続けられたら。あるいは、鉱物のように運動を停止して結晶化し、乱されることのない平穏の中でただ互いを見つめ合い、互いの存在を感じ合いながら生きていけたら。こうした願いは多分誰もが一度は持ったり、なんとなく想像したりしたことがあるだろう分かりやすい永遠像であり、式子と結衣はそれを具現してしまったということに過ぎない(具現したことの是非やそこに至るまでの物語はひとまず措くとして)。
 僕らは実際には経験したことはないが、それは既視感のある永遠であり、彼女たちがそれぞれ1人だけでは実現することができなかったものだとはいえ、彼女たちの内なる動機を源にする以上、プレイヤーのやることはそれを受け入れ、その内なるものに帰還するという母胎回帰のイメージである。年上ヒロインという属性もそれを補足する。また、式子に関しては、おっとり系お姉さん(お母さん)キャラにありがちな何でも受け入れて甘やかしてくれる性格もそうだし、結衣に関しては、主人公に対する迷いのない信頼と肯定の視線が抱擁の感覚を与える。2人ともそれはいわれのない無条件の行動原理ではなく、それぞれがそれぞれの抱えることになった欠損から発して辿り着いた境地であることが、物語的な設定として明かされてはいるが、経験を積んだエロゲーマーならばその辺りことは簡潔に提示されただけでも、こうした母性的なヒロインから発せられるアブジェクシオン(女性原理的な「おぞましさ」)を容易に感じることができると思う。ここでは問題は既知か未知かではなく、どのような約束された幸福の土地に辿り着くかでもなく、彼女たちの内なる世界に埋没することを受け入れるかどうかということになる。(本稿のテーマからでは掬えないということを確認して終わってしまった…)


5. 琴子:ヘプタポッドの視点から

<< 画像1:琴子は微笑む >>


 次に甘えん坊の知性派妹である琴子について見てみるが、少し脱線して、唐突だがSF作家テッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」(初出1998年、邦訳2003年ハヤカワ文庫SF)に登場するエイリアン「ヘプタポッド」を例に取り、オルタナティブな言語及び思考のモデルについて述べる。作者によればこの短編小説の元ネタは物理学の変分原理という考え方だそうだが、理系の理論をそのまま持ち込むと、僕の頭では確実にとんちんかんなことになると思われるので、フィクション化のフィルターを通すことをご容赦願いたい。
 簡単にまとめると、ヘプタポッドたちの扱う言語とは、因果論ではなく目的論的なモデルに基づいたものとされる。過去からの積み重ねによって現在における選択肢が用意され、その連なりによって物事が続いていくと見るのではなく、選択肢などなく、予め決められた目的地点に向かって最適のコースを整然と進んでいくというものだ。作中の言葉を引けば、「人類の、そしてヘプタポッドの祖先がはじめて意識のきらめきを得たとき、両者は同じ物理世界を知覚したが、知覚したものの解析の仕方は異なっていた。最終的に生じてきた世界観の差は、その相違の究極的結果だ。人類は逐次的認識様式を発達させ、一方ヘプタポッドは同時的認識様式を発達させた。われわれは事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する。“それら”[ヘプタポッドたち…引用者注]はあらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する。最小化、最大化という目的を」となる。ヘプタポッドは因果関係を頭の中で組み立てながらしゃべったり、語順で意味を表現したりすることがなく、過去も現在も未来も全て「決まって」いる中から、その時点で必要な言葉を完成されたものとして出力するかのように話す。言表は分節化された線的な構文というよりは一枚の絵画に近く、描く順番は当然飛び飛びで、左上から右下に向かうというようなことはない。別の例えを引くなら、空中の光源を出発する光が水中の目的地点に到達する場合に、空気中と水中では速度と屈折率が異なるために、最速で目的地点に到達するためのコースは直線距離ではなくなり、実際光はそのように進むが、それはまるで光が出発する前から目的地点と最速コースを既に知っているかのような振る舞いだという事象である(実際は多世界的に無限の方向に出発しているけど、結局最速のものに収束してそれが残るとかいうような説明もあったような…すみませんが不勉強で物理学ではどこまで実証されているのかよく分かりません)。余談ながら、こうしたモデルはなにやらグルジェフによる4次元獲得のトレーニングじみている。目的論の様式がオカルティズムによく馴染むのは周知の通りであり、類推を文体論の次元とかでできれば面白くなると思う(「目的論的文体」とオカルト文学的文体の関係とか)。
 この言語・思考様式の場合、過去や未来という順番の概念は意味のないものとなり、選択や自由意志も強制と同様に無意味となる。発話は全て、記述的というよりは、予め決められたものを具現するための行為的(パフォーマティブ)な遂行文となり、儀礼的な機能を持つ。
 さて、エロゲーの話に戻るが、予め完成された物語をクリックで表示させながら読んでいくという構造の持つ「冷たさ」は、プレイヤーが持つ恋愛や感動や性的恍惚への欲望という最も「ホット」な動機と対比してみると、ヘプタポッド的な非情さを感じさせる。紙媒体の小説だって同じはずだが、恋愛の一回性が賛美され、音楽や声に彩られ、CG回収やトゥルーエンド到達という順序に関する動機付けを強く与えられたエロゲーにおいては、時間芸術としての側面が強く押し出されていると言える。この矛盾を緩和するために導入されたのが、繰り返しになってしまうが、多世界設定の仕組みだ。猫撫ディストーションでこの設定と深く関わっているヒロインとされるのが琴子である。
 琴子シナリオのテーマ自体は素直なもので、単純化すれば、実際にある世界と僕が頭の中で再構成する世界の区別を僕がすることはできず、琴子の「感じ」(「言葉」以前の未分化の「意味」)を思い浮かべることができるのならいつでも琴子に会うことができる、だからお兄ちゃん、世界を観て、家族のところへ行こう、というようなものだ(と思う)。念のため確認しておくと、多世界設定はいろんな可能性の世界が同時に重ね合わされて生起や消滅を繰り返すという意味の多世界と、主人公の観る世界、琴子の観る世界、プレイヤーの観る世界のように主体の数だけ世界があるという意味の多世界の2種類に便宜的に分けることができる。作品中では両者を区別する必要はないとの立場から、「揺らがない家族」というテーマを描くために、混同しつついいとこ取りしているように見える。
 本稿の文脈で注目したいのは、琴子が「驚くと死んでしまう病気」に罹っているという奇妙な設定だ。さっさとネタバレしてしまうと、琴子は生まれたときから「形が揺らいでいる存在」として家族から観られてきており、そのため他者の観測如何でその存在が消えてしまう儚い命であることが災いして、ある日突然死んでしまうわけだが、そもそもそうした不安定な存在であった理由は、琴子の死がなかった世界の可能性を確保するために、琴子が「量子的存在」であるような世界を創出する実験を電卓(主人公の父)が未来で行なったが、その際の「歪み」が「過去方向にもたらした現象」のためかもしれないとされている(この辺は自分の理解にやや不安があります…)。その鶏と卵の順番的な循環した仕組みはともかく、琴子シナリオによれば、琴子とは既に知っている琴子の「あの感じ」のことである(「兄さんが観てくれたから、私は兄さんの夢の中に行けた。この「世界」にも、帰ることができた。私は琴子という「意味」です」)。つまり、琴子は観測者にとっては既知の存在でなくてはならず、認識の外部に琴子はいない。
 彼女は重ね合わされた可能性の中で僕らの呼びかけを待ち続けており、呼びかけに応じて現れると、その物理的因果性はヘプタポッドの論理のように最適な形で再構成される。あらゆる可能性であるために彼女自身は驚くということがなく(ギズモの出現は例外だったらしいが)、全てを見通して泰然とし、ただ相手を見失うまいと強い視線で見つめてくる(みやま零氏のグラフィックによる琴子は眼ヂカラが強いし)。
 また、彼女はそうした都合のいい存在であることを自ら暴露してしまったわけだが、そうして暴露したからこそ、彼女から要望の言葉はその都合のよさの上から響く別の言葉として、殻を突き破る直接的な言葉としてこちらに届くのではなかろうか:「兄さんを迎えに行きます。お兄ちゃん! 私を観て! お兄ちゃんが遅いから、迎えに行っちゃった」。そして「そうしたら、私たちはもっと繋がり合える」とエッチシーンへと呼びかける琴子に向き合わざるを得なくなるのではなかろうか。
 ちなみに、言うまでもないことかもしれないが、「ゲーム性」を「インタラクティブ性」の意味で捉える場合、読み物ゲーにおいて戦略SLGRPGに劣らずゲーム性が高いのは、選択肢やシナリオ分岐ではなく、ある意味エッチシーンだと言える。エッチシーンでは物語的な語りの要素は後退し、どのゲームも大体似たり寄ったりのテクストになり、しかしプレイヤーはその意味の薄まった(あるいは高度に流動的となった)ひらがなや漢字の連なりに合わせ、全身全霊で唯一無二のヒロインとのインタラクティブな対話に没頭する。他の要素が後退する分だけ、ここではインタラクティブ性が剥き出しになる。琴子シナリオのエッチシーンでは別にメタ的な喘ぎ声があったりするわけではないが、それまでの流れから自然に琴子の可愛さが引き立つようになっていると見ておきたい。そう見ることができるような余白を琴子自身が演出したのがこのシナリオであり、そこに狡知を見るか健気さを見るかはプレイヤーの自由だ。
 先に長々とヘプタポッドに関する説明をしておきながら、それが琴子の魅力を語る上ではあまり関係がなかったのではないか、と今更ながら心配になってきたので一言。「あなたの人生の物語」はヘプタポッドの思考法を次第に身につけ、過去・現在・未来を同時に扱うことができるようになっていく女性言語学者が語り手となっている一人称小説であり、エイリアンとのコンタクトのエピソードの狭間に、「あなた」と語り手が呼びかける死んでしまった娘に関する回想が、時系列の逆転した順番で挿入されていく。主人公の人生を娘に向けて語る目的論的な観点から再構成した場合、クライマックスとなっているのが、主人公が愛する男性と結ばれて娘を授かることになった瞬間であることがこの作品の構成の巧みなところである。
 同様に、いくつもの世界があるとはいえ、既に死んでしまった妹をめぐる物語である琴子ルートにおいて、物語の結節点となっているのが、記憶の中の原っぱと星空であることは印象的だ。そこが現在は警察署の敷地になっているという設定や、「荻浦嬢瑠璃」では法治国家制度がなんだか眼の敵にされているらしいというあれこれはともかく、琴子にとっては、お兄ちゃんと見上げた星空が何よりも大切な場所だったのだ。


5. ギズモ:開かれた鏡像

<< 画像2:ギズモは驚愕する >>


 最後に、同じく多世界設定に深く関わっていながらも、琴子とはある意味で反対の方向に主人公を導いていったギズモについて述べる。
 ギズモ(七枷家の飼い猫が擬人化した半人前のメイド)というキャラクターは、もともと電卓の世界創造の実験では予定されていなかったイレギュラーな存在で、絶望した主人公が外側から観測してもらうことによって世界を変えることを願ううちに、歪みの中で可能性の存在から生まれたヒロインとされている(すごく抽象的な言い回しになってしまった)。
 ギズモは主人公の願いから生まれた、主人公の鏡像であり、生まれたての人間として主人公の代わりに家族の中で育てられていく。動物から人間になっていく通常の過程として、言葉を習得して世界を分節化し、分節化された事象の因果関係を把握することによって世界を理解していく。ヘプタポッド的な目的論とは別の、人間的な成長だ。
 因果関係の把握が進んでいない赤子にとって世界は驚きで満ちた神話的なものであるように、猫から人間になったばかりのギズモにとっても世界は驚くべきものである。猫は遠くで停止している事物を認識できず、遠くから何かが動き出したらそれが世界に突如出現したように見えるため、非情にスリリングな世界に生きているという事情もあるらしい。七枷家の中でギズモは始終驚くか、不審がるかしている燃費の悪いキャラであり、脅威や疑惑が快の方向に解決されたときの喜びもひとしおなので、一家の中で最も表情が豊かでもある。また、元来猫の声は子供の声によく似ており、ギズモ役の佐藤しずくさんがそのどちらもカバーするような好演を見せていたりする。要するにギズモは可愛い。主人公が感情移入するのも仕方ない(「実に残念だが、萌えちまったらお終いだ」)。
 さて、そうして人間的な成長を遂げたギズモは、人間のアイデンティティとも言える能力、自意識を発達させ世界のシステムを書き換える能力を手にする。そして本来自分が生まれた理由であるところの主人公の願い、つまり可能性の存在に戻り世界の外側に出て、世界を観測することで主人公を救うことを提案する。いずれにせよ「歪み」の収束によりギズモは消えてしまうのだが、それでもこの「人間主義的」なギズモルートの主人公は、ギズモを犠牲にして理想を手にすることを拒否し、その世界をニセモノと断じて消してしまう。
 結局主人公にとって一番大事だったのは、ギズモと一緒に驚きながら過ごした「時間」という因果関係の積み重ねだった。周到な琴子シナリオと違い、エッチシーンはギズモが発情期になってしまったためという身も蓋もないものだったが、そうしたドタバタを経て成長していくことさえもが尊いものだった(若干美化)。そしてそれが奪われギズモが消え、琴子が消えたとき、残されたのは、全てを捨てた後に訪れるささやかな「奇跡」だった。こうしてギズモは驚く主体から、奇跡という驚きそのものになってしまった。これは美しすぎるご都合主義だろうか。
 エピローグで主人公が家族と呼ぶのは自分の妻と子供だけだった。親や姉との和解については描かれていないが、まあ何とかなったのだろう。全てを失ったと思われたとき、それが誰であるかは分からないにせよ、空席には誰かが必ず現れるものだった。その誰かでさえご都合主義と否定してみても誰も得はしない。それよりは消えたギズモに感謝し、「ギズモの創った世界」を観続けようという主人公に共感すべき。などと思わず説教調になってしまったが、プレイヤーは置いてきぼりを食ったのだろうか。そうかもしれないが、別の見方をすると、ギズモが可能性の存在に戻り、あるいは観測者となったように、プレイヤーも観測者としてこの物語に関わっているわけで、その意味ではプレイヤーとギズモの距離は意外と近いと言えるのではないか(無理があるかな…)。


6. おわりに
 そういえば誰か忘れているような気がする。まあ、あれです。柚(おせっかい焼きの幼馴染)に関しては力及ばず、本稿では流します。テーマ的には基本的にはギズモと同じ方向性だと思いますが。
 結局この作品は面白いのか、面白いのならどこが面白いのかと問われれば、冒頭で述べたように、個人的には「驚き」が足りなかった。本稿では「驚き」をモチーフとして取り上げ、驚きが入り込まない世界、驚きが原理的にありえない世界、驚きを尊ぶ世界をそれぞれ検討してみた。物語性の貧困さ、言葉のバイタリティの弱さというのは『未来にキスを』をプレイしたときにも感じたことで、同じ観測者のモチーフを扱いながら、観測者を空に浮かぶ不気味な目玉として描き、それに内側から反抗する青春物語だった『素晴らしき日々』とは対照的だ。しかし、本作の静的なたたずまいを「家族は揺らがない」というキャッチフレーズに重ね合わせて見るならば、ヒロインたちがそれぞれ見せてくれるものの価値が改めて浮かび上がるように思える。




 元長・藤木氏関連の作品感想。未来にキスをの感想はErogameScapeにあるけど、古すぎて内容的にも載せるのがはばかられる。他のものも必ずしもきちんと書けたわけではないが、この機会に一箇所に集めておく。
恋愛ゲーム総合論集: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20110814
猫撫ディストーション: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20110326
猫撫ディストーション Exodus: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20120425
フロレアール: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20070331
荻浦嬢瑠璃は敗北しない: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20080330
星海大戦: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20110828
運命が君の親を選ぶ、君の友人は君が選ぶ: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20130601
ギャングスタ・リパブリカ: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20130811
ギャングスタアルカディア: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20140731
さくらシンクロニシティ: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150419
Sense Off: http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150726
あと、litfさんの同人誌「World Shifter」(2015年8月)にも元長氏に関する短い文章を寄稿させて頂いた。