サクラノ詩 (70)

 はじめに全体に関することを一言書いておくと、「詩」という言葉を冠していながらも、ハードルを下げて説明しすぎなところが多くて悪い意味で散文的だったし、終盤のいいと思ったところ(夢と現実と幸せをめぐる不安)は良い意味で散文的だった。いろんなネタを寄せ集めたようでまとまりがない気もするが、そういう散らかったものが現実だったりするし、それを押し流していくものが終盤では描かれていたので、力技だが納得はできるかな。
 というわけで、後はヒロインたちについて、締りのない散文的なおしゃべり。いまいちテンションが上がらないのは、恋愛の要素が薄いからかなあ。


 優美・里奈。
 氷川里奈のお話は、どっちかというと川内野優美の印象が強くて、先に優美ルートに進んでから後で里奈ルートをやったら違和感があったくらいだった。まあ、大花どんさんという声優の個性が結構重要だったということだと思う。大空寺あゆの方だ。まったく媚びを感じず、個人的な印象では、端的に演技がうまくなかった。低めのちんちくりんな声だ。優美は特にユーモアのセンスがあるわけでもなく、主人公に疑いの目を向けるか、あるいは里奈のことを考えているかしかない、自己完結した世界を持つキャラクターである。それも含めて演技だとは思えないが、台詞を読んでしまっていて強弱の加減ができていない発声など、かえって独りよがりな自分をもてあましている不器用な優美の性格を反映していたとの捉え方さえできそうだ。特に里奈ルートで、千年桜の下で里奈を直哉に譲る茶番を演じるシーンは、不安定な演技が妙に剥き出しな感じを醸し出していて凄みがあった。もちろん優美はそんな独りよがりな性格ではなく、里奈のことを第一に考えている。そんな風に言葉を発声するのが下手なのは、彼女がクラスでは目立たない、孤立した女の子であることに似つかわしいように思える。優美が子供の頃に来ていたシャツにはобезьяна(猿)と書いてあって、お猿さんの顔のイラストが描かれているのだが、これがチェブラーシカみたいでちょっと翳を感じさせる。優美自身、そうした自分の奇形性、欠陥性にとても自覚的で、でもそれは同性愛者であるという自分の根本に根ざす感覚であるのでどうすることもできず、女性的なアブジェクシオンと重なり合って、自分は蝿であり、里奈の美しい身体に蛆を産みつけると妄想をして自虐に陥ることにもなる。ところが、実は里奈の声もあまりかわいくない。低いし、しゃべり方がオタクっぽい。そんなわけで、二人だけの閉塞した幸せな世界があるように感じさせつつも、プレイヤーとしてはいつのまにか優美に感情移入していく。他のキャラクターにも多かれ少なかれいえることではあるのだけど、優美も去勢されて欠損を抱えており、手に入らない幸せを夢見ている。里奈に甘えようとすると、半分悲しそうな顔をする。優美の思いに答えられないことを分かっているからだ。でも優美は、それは里奈が自分のことを理解して、自分のためにしてくれている表情だから好きだという。優美のほうも諦めているわけだ。息苦しく閉塞している。だから、里奈に受け入れてもらえたときの夢のような幸福感は素直に伝わる。まことに幸せそうな膝枕だ。百合のエッチシーンというのは個人的に独特な印象で、素晴らしき日々の感想にも書いたが、欲望が局所化されないせいで彼女たちの身体全体がプレイヤーの視線ではない光に包まれるようで、逆にこちら側が照射されるところがある。いわゆる貝合わせをしている格好の一枚絵で、2つの局部がつくる杯が何やら神聖な液体で満たされているのだが、これなどは優美も含めて二人が対象化されて鑑賞の対象になっていないと成立しない一幅の絵だ。こちらに差し出された杯だ。同時に、自分は優美の視線を通じて額縁の中で里奈の温かさを感じることもできる存在であり、その意味でいつでも視点が分裂している。短絡的な言いようかもしれないが、本作のネタである美術に即して言えば、一点透視図的な遠近法を超える一つの形なのだろう。よだかは燃え上がっても燃え尽きることはなく、みずから光を発する存在になる。最後に中原中也の春日狂想を読んで本を投げ捨て、でくの坊に別れを告げる優美。でくの坊が何を意味するのか分からないが(宮澤賢治雨ニモ負ケズくらいしか思いつかない)、彼女が何かから解放されて幸せを手に入れたと考えておきたい。あまり幸せそうな顔はしていないのだけど、何かから解放されたということは何かを失うということであり、優美はまだ額縁のこちら側にも視点を残してくれていると理解しておこう。


 里奈さんは、既に子供の頃に攻略されてしまっている子だ。雫や凜もそうだが、恋に落ちていくまでの道をプレイヤーが共に歩めないのは残念である。長いタイムラグを挟んでようやく恋が成就した幸せを噛み締める里奈から、そのお裾分けをいただくだけだ。ちなみに糸杉といえば、ゴッホの絵もそうだが、個人的にはもっと俗っぽいベックリーンの「死の島」の印象がある。ロシアにとってはギリシャ・ローマやフランスは南国なので、死の冷たさだけでなく南国の甘く緩んだ空気も感じさせる。ロシアでは、絵画ではないが、キパリス(糸杉)といえばアンネンスキーの詩集「糸杉の小箱」だ。昔モスクワで買った手のひらサイズの豆本を時々読んでみたりしている。いずれにせよ、糸杉は光を吸い込むような陰鬱な木だが、里奈のイメージにはそぐわない。子供の頃に克服されてしまったからなのかもしれない。里奈と主人公は互いの絵に深く心を動かされたということはあったにせよ、あまり共有しているものがなく、申し訳ないがやはり優美と結ばれるほうがすっきりする感じがする(そっちのルートを先にやったからかも)。


 雫。
 雫ルートは大半が回想で、いき恋のメイドさん、養老紡のお話を思わせるつくりだ。回想ではやはり、幼女・伯奇の立ち絵が美人だったのが印象に残った。真琴ルートの寧も同じ美しさを持っていて、じっくり鑑賞したくなる。雫自身については、やけにくぱぁが好きな子ということは分かった。あとはペンギンのようなポーズが可愛いとかで、物語による厚みは残念ながらあまり感じられない。


 凜。
 立ち絵だと頭が大きくて身体は小さく、一枚絵だと身体が荒ぶりすぎてもてあましている感じがするが、性格的にはまじめで我慢強くて自分を律することができ、エッチ関連では暴走して「はめどりはめどり」と口走ったり、いきなりがばっと恥ずかしそうに股を広げたりする。忙しい女の子だ。後半のシナリオでは天才のテーマの犠牲になった観があるが、健一郎や直哉、さらには圭やすかぢ氏さえもがたどり着けない境地にいる者として、彼女の目に写る風景というものをもっと見てみたいということはある。極端な設定のキャラが多いエロゲーが安易に陥りがちな罠として、やさしい、強い、頭がよいというようなヒロインの魅力につながるような美点を、設定や直接的なレッテルで済ませてしまうということがある。やさしかったり強かったり頭がよかったりしたら、そのことをキャラの口を借りて褒め言葉として発して言語化してしまうのは逆効果だ。ヒロインでなくても、主人公がそういった言葉で周りから褒められると、インフレでその概念の重さは減じる。健一郎も直哉も天才という大仰な言葉が似つかわしい芸術家とは思えなかったのは、シナリオの説得力という意味でマイナスだった。確かに天才は必ずしも日常生活においても天才性を発揮するわけではなく、常識人だったり一般的な倫理観を身に着けていたりすることもあるだろう。天才性を見るのなら作品を見るしかなく、ゲーム内で間接話法的に見せられる作品にそれを求めるのは酷だけど、そのようなテーマを設定した以上、直哉の作品(櫻日狂想、糸杉の桜、蝶を夢む)から圧倒されるような天才性を感じることは難しく、そのことが作品の説得力を下げているという無粋な感想も言っておきたい。はっきりとは映らなかった圭の向日葵にしても恐らくそうだろう。それほどまでに現代は天才という評価の成立が難しい時代だと思う。凜の作品はCGがないので分からないが、そうした逃げがこのテーマの作品において必ずしも最良の選択肢とは思えない。凜は天才キャラというステレオタイプを演じているだけで、作品内で表現されている彼女からは遠いこだま程度の天才性しか感じ取れない。天才ではないライターや絵師が天才を描けるのか、というのは不適切な質問なのだろうが、仮に天才を描くことが目的ではないとしても、中途半端になってしまったなあと思う。確かに、天才のテーマは二次的なものであり、天才という概念に取り憑かれた人たちが自らの欠損と向き合うという一次テーマのためのネタに過ぎないのかもしれないが、それにしてもベタな手法だった。素晴らしき日々では、神様というテーマを醜悪な戯画や天秤と旋律のような比喩を用いて描いていて、必ずしも目新しくはなくても、もう少しスマートだった。物語後半では、天才として目覚めた凜は後景に退き、作品のテーマも別の角度(「元天才」の視点)から照射される。だが凜のテーマはこれで完結しているのだろうか。自分としては、観客不在でも成立しかねないほどの「強い神」の狂気じみた世界をもっと見てみたいということもあり、凜の退場が惜しい。彼女自身、直哉との別れる前の会話で、自分も「本当はそうなんだけど」と言っており、彼女の探索は終わっていないことを示している。あと、ソフマップの特典が凜の抱き枕カバーなのですがどうしたらいいのだろうか。天才・凜の天才的な抱き枕というよりは、天才性を捨てて幸福を手に入れた、個別ルートの凜の方っぽい。まあ、凜は精神的な部分と身体的な部分のバランスが不安定な子なので(格闘技が強いという謎の設定があるが)、分けて考えるのは間違いだろうな。


 香奈。
 成長していく様を見るのが楽しい子だった。ビジュアルも可愛いし。最後の方での彼女の活動は、彼女の求める美からは遠い政治活動だ。ロシア未来派だってそういうところから始まったのだから(詩の朗読会で聴衆に馬糞を投げつけたり、後になっても二月革命ケレンスキー政府にいたずら電話をかけたりしていた)、そうした活動に集まる人たちにも可能性は平等にある。彼女の情熱に心を打たれることもあるだろう。でも、自分で絶望するほどの審美眼を持っている人間ならば、あのような活動は長くは続けられないと思う。生産者ではなく消費者でしかあれないことに逆らうためにしている活動なので、やっていることはサリエリですらない、美の消費になってしまう。いや、そうした活動を続けていて疲れてしまった彼女というのも可愛いのかもしれないけど、他のヒロインたちが見つけたような幸せを彼女にも手にして欲しい。直哉とくっつけということではなく、彼女には彼女の幸せがあるといいなという意味で。


 真琴。
 他のヒロインたちとは違い、普通に目標に向かって努力する女の子を応援するような恋愛のお話でよかった。登り窯で器を焼いている姿がよい。ここのメーカーの特徴である後ろ姿の立ち絵も、真琴は髪をお団子にして持ち上げていて、首筋がすっきりと出ているのが見ていて気持ちよく、思わず見惚れる。そして何より、言葉を探すように、搾り出すように、尻すぼみになるちょっと泣きそうな声が素晴らしい。裏表のない爽やかな性格で、普段は声を張り上げて美術部を引っ張っているのに、直哉とのデリケートな話になると、とたんに自信のなさそうな弱々しい声になり、吐息が乱れる。心の震えがそのまま伝わってくるようで、そんな彼女の囁きをいつまでも聞いていたくなる。彼女の会心の作である器も、結局はテキストで説明されるだけで、どんなものかはそこから想像するしかない。直哉と釉薬の原料を探しに行った旅もテキストだけで、そんな慎ましさがかえって真琴らしくてよい気もする。現代の陶芸って実用品でもあるから、1万円とか生々しい価格がついていて思わず腰が引けてしまうのだが、そういう胡散臭さを真琴のイメージで塗り替えられるのは助かる。月野兎子のマグカップとか、ケロQが発売したら買ってしまうかもしれない。


 あと、先走ってしまうが、この作品で一番嬉しかったかもしれないシーンは、6章で社会人になった真琴の立ち絵が現れた瞬間だった。6章はクラナドのアフターシナリオやキラ☆キラのきらりルート終盤、ひまなつの最終ルートと似た位相のルートで、それまでの若い青春の日々が過去編として後景化し、現在の新たな現実が静かに流れていく。もう奇蹟は起きず、ファンタジーはない。教え子たちは若くて無邪気であり、だから自分の意識はすっと後ろに引いてしまう。自分が成長する時間はもう終わった。でも彼女たちのおしゃべりを聞き、ちやほやされるのは癒しになる。無意味に積もっていく生活の疲れを和らげる癒しだ。桜子に迫られそうになって、「あ、それはない。単に欲情しただけだ」と答えられる余裕がある。周りは老人かおっさんか子供ばかりで、同級生と飲んでも、別に彼とは同じ夢を追いかける親友でもないし、愚痴を言ってストレスを和らげる以上のものではない。そのうち悪酔いして泣くようなことにもなるだろう。ようするに老いが始まっているわけだが、そんな中でいきなり真琴の声がして、昔のような元気な姿を見て、一気に自分が若返った感じがして嬉しくなってしまったのだった。幻想世界化していた青春が急に現実に現れた。そんなことをできるのが、凜でも里奈でも雫でもなく、真琴なのだった。


 藍。
 澤田なつさんの声をじっくり聞けただけで幸せなルートだった。実は最終章を終わって最後に回収したルートだったので、何だか藍と結ばれるのがトゥルーエンドという錯覚に陥る。最終章でも最後は彼女が隣にいてくれたので、あながち間違っているわけではないのだが。エッチシーンがまた味わい深く、藍が子守唄を歌うように静かに語りかけてくる声に包まれながら、その肌の温かさを声で感じられるような気になる。包容力のある幼女だ。彼女とのお話は短くて、これも恋愛という感じではない。恋愛はこれからなのだろうなと思う。


 もう少し元気なことも書いてみたいのだが、あんな風に歩き出す終わり方だし、静かでもいいだろう。