こころリスタ! (75)

 Q-Xの作品をやるのは初めてで、正直なところ体験版をやっても特に強い個性が感じられたわけでもなく、引き込まれたわけでもなかった。絵が結構可愛くて、仮想世界のBGMが飽きの来ない曲だなあ程度の印象しかなかったのだが、一部で高く評価されていたので騙されたつもりで手を出してみて、結果としては後悔しなかった。
 気に入ったBGM(モノクローム、HEART RESTARTER、happinessful angelの仮想現実系3曲と、バレンシアの風に吹かれて)はやっぱり飽きず、何度も聞いている。こういう曲がもっとあればよかったのだが、気に入った曲ができるとそれだけで作品に親しみがわくのでともかくありがたい。
 本作の評判で、視点が安易にヒロイン視点に切り替わったりせず、ヒロインが何を考えているのか明示されていないとの指摘があったことも、手に取ったきっかけだった。明示されていないからといって別に推理ゲームになるわけでもなく、適度な緊張感があって読み心地がよかった(なぜ緊張感があるのか説明するには、エロゲーテキストのテンプレとは何かについて考えて例証せねばならず、面倒なので放っておく)。ヒロイン視点への切り替えとは、ヒロインの心を覗き見て、侵食することであり、その裏切り行為によってプレイヤーはヒロインに近づくどころか遠ざかってしまうからだ。本作のエンドロール後のエピローグはすべてヒロイン視点に切り替わっていた。僕たちはキャラクターの世界、ラウンダーの世界に生まれ変わって、いつまでも幸せに暮らしましためでたしめでたし、になりたいという欲望を抱えている。くそまじめに考える必要はないのかもしれないが、そうしたダメ人間の更正の物語がこの作品なのだとしたら、ヒロイン視点への切り替えは更正後の約束された大地のようなものでまだまだ道は長いなあと遠い目になる。そんな変な勘繰りをしなくても、この作品で示された幸せを味わわせてもらっていればいいのかもしれないが。
 文章のうまさについては、こういう地味にいい文章、丁寧でよい文章というのをうまく語れる言葉を知らないので、ひとまず宿題にするしかない。シナリオ構成については、ヒロインが変わるたびに共通ルートを読み返したりはしない怠け者なので、選択肢でいっせいに分岐する本作では共通ルートと個別ルートの分断を強く感じて、共通ルートの感覚を忘れてしまったのがやや残念。あと、メルチェ以外のルートに進むときには必ずメルチェを振らなくてはいけないのが申し訳なかった。というわけで後は個別ルートの感想など(アルファ以外はほぼ個別エントリの再掲です)。

  • 1月13日追記。思いつきだけど、共通ルートが長くて最後に急に分かれるというのは、再プレイしたときに気兼ねなくみんなとの日常を楽しむための配慮なのかもしれないと思った。最後の方までルート分岐とか気にせず浸ることができるのかもしれない。そう思ったほうが生産的かな。


【メルチェ】
 某麗知恵さんの時は発音がなってないなどと生意気なことを書いてしまったが、スペイン語は分からないので、メルチェがエッチシーンでスペイン語で何かしゃべりだしても余計なことを考えずに楽しめた。メルセデスという名前がスペイン語的に女性名としてどう響くのか、また乗り物由来か、と思ってみてみたら、そもそも自動車メーカーの方がスペイン風の女性名をブランド名にしたとかで、メルセデス・ベンツブルジョアかマフィアが乗る車というイメージ(ロシアでもメルスといえば役人や成金が乗る庶民には無縁の車だ)を持っていた自分としては、ミロセルドナヤ、「慈悲深い人」という本来の方の意味に認識を改めねばならない。
 それはともかく、メルチェの登場シーンは現実感のなさが素晴らしかった。ラッキースケベでおっぱいクッションで、最初の一言が怪しげな日本語の「ダイジョ〜ブ? 頭。ダイジョ〜ブ」。これで頭が大丈夫でなくなったのかもしれない。体験版でもメルチェは登場していなくて、片言日本語キャラだから大して期待はできないだろうと思っていた。でも背は小さくておっぱいは大きくて、柔らかそうな表情と不思議な光る目をしたヒロインということで気にはしていたのだけど、実際にプレイしてみるまでは分からないなと思っていた。そして変な関西弁である。関西弁は個人的に苦手で、しかもさらに苦手なお笑い芸人の物まね好きとあれば、普通なら悲しみしかないはずなのだが、メルチェはどちらもへたくそで、しかもそれを気にせず一人で楽しそうにしているので、こちらも関西弁が本来持つ(?)威圧感を受けることなく、メルチェ独特のやさしい浮遊感を味わうことができるのである。多分、メルチェも母国語ならばもっと普通のイントネーションで話すはずなのだが、おかしな日本語でしゃべっている限りは、ある種の猫撫で声のような、あるいは詩の朗読のような、モノトーン気味な高い声になり、そのちょっと変な優しい声に現実観が揺らぐ。
 個人的な印象(昔マドリードやトレドやグラナダに観光したときの印象)では、スペイン人というのは全体的に背が小さくて(ロシアの後に行ったからか、平均身長は160cmくらいに感じた)、そのくせに老若男女みなが彫りが深くて濃い顔をしているので、ただ歩いているだけでなんともいえないユーモアが感じられて、ドン・キホーテの国だなと思ったものである。しかしながらロシアと同じく今はヨーロッパの辺境であり田舎であり、共産主義や独裁者に振り回された過去を持ち、ガルシア・ロルカを持ち出すまでもなく情念の国である。ラテン系とスラヴ系はノリが違うし、スペインの夏の熱風とロシアの秋のぬかるみはまったく別の精神性を育むような気がするけど、それでもこの二つの民族は互いに惹かれあうという話は聞いたことがある。カルメン(原作者はフランス人だが)をペテルブルクの吹雪の中で歌い上げた某詩人の作品とかも印象的だった。
 それはともかく、メルチェはスペイン人なのに彫りが深くなく(主人公の観察によれば深いらしい)、滑稽ないかつさがない。そして彼女は日本に夢見る留学生であり、つまり普通の生活をしていては見えないものを見ている。夢に守られている。時々外国人的な間合いの大胆さを見せて驚かせる。こういういろんな記号、記号の不確かさ、キメラ的な混淆、やさしい嘘が、メルチェというヒロインの非現実感や儚さにつながっているようで、丁寧に描かれているとはいえテンプレ的なキャラばかりのこの作品において、独特の軽やかさと存在感を持つように思えたのだった。BGMも軽やかで良かった。
 といっても、この不思議時空は不確かなもので、軽くアルコールを入れてプレイした登場シーン以降は、あまり強く感じられなかった。個別ルートのストーリーはバイクレースというさらに非日常的なものでありながらも短く、手堅く終わってしまった。僕は何を見たかったのだろうか。彼女はネットの中ではなく現実のキャラという設定でありながら一番不確かであり、その意味で現実的でもあるヒロインだったわけで、この作品の奥ゆかしさによく合っているのかもしれない。


【マリポ】
 あの口みたいな栗をしているときの立ち絵。あれほど防御力の低い立ち絵は見たことがない。こちらを指差し、攻撃的な威圧感を与えようとしつつも、体をひねって半分横向きになっていて、腰が引けているような、当て逃げをしようとしているような弱気さが思わず出てしまっているような絶妙なバランスが、笑えるし可愛すぎる。そして――マリポ先輩に限ったことではなくこの作品のヒロインはみんな多かれ少なかれそうだが――身体のねじれによる動きの感覚も素晴らしい。Carnivalの絵にもあったようなダイナミックな感覚だ。
 すぐに言葉に詰まる防御力の低さも素晴らしい。「じゃ、じゃあ、これより……ち、契りの儀を執り行う」じゃないでしょ。うろたえすぎでしょ。「これより」ってなんだよ、というような感じでつっこみどころばかりで幸せになる。落ち着いて話すときも実感がすごく伝わってきて、ライターさんがよい仕事をしているということもあるが、声優(卯衣さん)の声音や間、スピードが心地よくコントロールされていて、聞いていて気持ちがいい。高島ざくろ神とか須磨寺雪緒神とかもそうだが、独り言気味の言葉をふわっと話す女の子の声には、いつも耳を澄ましていたような気がする。マリポ先輩の声は、自分に向けられているはずなのに思わず洩れちゃった感があるというか、こちらも、そういう人に聞かせるためのものではない言葉を思わず聞いてしまった気がするというか。「ふふっ……はぁ……こんな若くて激しいカレシ……これから大変だよ……バカ……」って、あなたと1歳しか違わないでしょ!というか嬉しそう過ぎてこっちまでニコニコしてしまう。声の質も、芯がなくて弱そうで夢想的で素晴らしい。純度的なものに惹かれるオタクとしては当然落ちざるを得ない。魔性というやつだろう。
 そもそもマリポ先輩は、何気に健全で如才ない主人公などよりもずっとディープでいじけたオタクであることが、可愛さの元凶になっている。告白されてうろたえて散々逃げていたのに、主人公がやけになってナンパしていると聞いて、速攻ですっ飛んでくる。早歩きのオタクのようなもので、初デートでの行動がいちいち唐突で笑える。「破局的な案件」になると想定しすぎて、聞かれてもないのに悪いところばかり告白しようとする。いきなり深刻そうに身長を低くサバ読んでたことを告白する。いきなりプールにいって水着になり、パッドのことを言い出そうとしていた節もあるが、普通に雰囲気に流されてプールを楽しんでしまう。映画を見たらご機嫌でせりふをまねする。唐突に部室に行って捲り上げる。バトルシーンでピンチになっても、主人公との絆を思い出すとかではなく、「ああ……二次元男子たちに……癒されたい……」とか弱気なことを言っている。見ていて飽きることがない。こんな風に自分のことだけでもいっぱいいっぱいで、とても相手をリードする余裕などないくせに、本人はそのつもりで幸せ。余裕がないのは自分なりに一生懸命理想を追い求めているからだ。これこそオタクの幸せなのではないか。エピローグ前の最後のせりふが「あ、母さん? 昨日は…………ごめん」でフェードアウトしていくのが印象的だった。7年たってすっかり大人になったマリポ先輩は、それでもきっと、まだどこか抜けたところがあるのだろうと想像して温かい気持ちになる。


【星歌】
 大昔の記憶なのであやふやだけど、トルストイの『復活』でネフリュードフがカチューシャの斜視の目に惹かれていくというのを読んだとき、斜視という言葉の意味が分からないまま読んでいて、なぜか黒目の大きな目(カチューシャの目は黒くなかったっけ)、どころ見ているのか分からないほどに大きな黒い目のことだと思っていた。
 この作品では星歌とさちがキャラデザ的に黒目キャラ(性格には目の色は黒じゃないけど)になっていて、そこに惹かれてしまう。大きな黒目(なんか正確な日本語がありそうだが恥ずかしながら知らない)はそれだけで無条件にこちらとの距離を縮めてしまうところがあって、とても美しいのに、なんだかあるだけで目の持ち主を傷つけているというか、痛ましく見せるようなところがあって、全く余計なお世話なのだが同情のようなものを誘うところがある気がする。目の黒さに陰を感じるということなのかな。それとも無防備さか。そんな目をした妹が部屋にこもって、スマホの合成音声で会話していて、自称が「ぼく」で、着ぐるみの中に隠れていたりすると、いくら兄に生意気な口をきこうがやはり微かな痛ましさを感じざるを得ず、普通の他人という距離感は崩れてしまう。星歌は勝手に内面化されて、他人ではなくなる。家族なのだから当然なのかもしれないが、雪音とは違って、あの視線でそうなってしまうのだからお兄ちゃんとしてはこちらの方が業が深い気がする(雪音シナリオは未プレイ)。だからあの告白、自室でのコンサートのシーンの奇跡のようなやさしい雰囲気にはすっかりやられた。
 ところがこれが大層性欲が強い子で、お兄ちゃんは参った。目が黒い女の子が、おっぱいが大きくて性欲が強いとか!もともと自他の境界が揺らいでいるところで、性欲の話をされたら、一緒に変態性を認め合って依存しあうしかないじゃないですか。まあでもこの作品の主人公は割かししっかり者だ。星歌もなかなか他人を信用できない臆病者なので(オナニーを見せるのとは別次元の信頼についていつも考えているのだ)、二人っきりで留守番になっても、「でも我慢しているんだよ」と言いつつも、もどかしげなそぶりすら見せずにソファに寝ているだけである。ただし着ぐるみの下は全裸で。ボクっ娘に関する認識を改めねばなるまい(あと、なぜ星歌がボクっ娘になったのか想像してみると楽しい)。腫れ物に触るみたいなのは嫌、と主張してみても、やっぱり自分からは言い出せない。二人でいられる時間は短く、終わりがある逃避行のようなもので、そんな中で妹はどうしたらよいのか分からずソファに転がっているだけ。甘くてもどかしい刹那的な時間である。キスをしたいと言ったら、「すれば」って。そして夢中になって「おにいちゃん」だ。部活にも兄妹で参加したいと言い出す。はじめは好きなのかどうか分からないとか強調していたくせに、気がついたらべったりです。本当はただ二人で部屋なり仮想空間なりにずっと引きこもってしまってもよさそうだし、星歌もそのことをよく知っているのだろうけど、それでも社会復帰を選ぶところに感慨深いものがある。花開いていく感じがする。
 個人的にアイドルというシステムが好きでないので、星歌と主人公の選んだ道についてはいろいろと想像すればついていけないところも出てくると思うが、物語自体はとてもきれいなところ、花が開いたところを見せて終わっていたので、面倒なことは考えず気持ちよく彼女の幸せを想像することにしよう。


【雪音】
 雪音はあんまり書くことがないんだよな……。コンプレックスのお話だ。顔が主人公と似ていて地味で眼鏡で、胸が双子の妹よりも控えめで、そういう意味では星歌よりもずっと妹らしい妹なのだが、実は夢見る女の子で、地味な自分が何かに長じたいと思ったら「姉キャラ」になってしまい、なぜか家族や全校生徒の面倒を見るという貧乏くじを引いていた。地味だからがんばるしかない。強迫的なキャラクターだ。「だって……重い奴と思われるし。や、違う、ほんと思い出して欲しいと思ったわけじゃなくてだね……」というツンデレイントネーションのせりふにも、そんなコンプレックスの影が見える。この物語の展開で、主人公の周りに急に美少女たちが現れだしてからさぞかし焦ったことだろう。自分は姉役をがんばってきたけど、兄への気持ちは表には出せず、自分の部屋でこっそりコラや音声を楽しむことや、胸が大きくて包容力あるミューティのマスターとして振舞うことで満足していたら、そんな慎ましい喜び、妹サイズの喜びの日々さえもいつの間に色あせてしまうことだろう。
 その雪音だが、そういう風に思いを秘め隠していたからか、エッチが何気に過激になった。初めてが寝込みを襲う痴漢まがいのプレイで、最中の会話がやけにシリアスだとか、2回目がぶっかけてその後で見て欲しいだとかで、3回目はもうウエディングプレイである。妹力を返すための装置がなぜか大人のおもちゃになっている。地味っ子なのにどうしてこうなったかといえば、それはやはり地味っ子だからだろう。
 星歌もだが、雪音も兄との恋愛であることを真剣に考えていて、公に結婚するのは無理だし、子供を作ることも多分できないけど、せめて一生をずっと一緒に生きていければ幸せだと思っている。けっこう悲壮な人生観である。そして、「……簡単に言うわね。長年連れ添ってきた積み重ねはそんな……」という言い間違いに現れた無意識は、雪音の願いなのだろう。月並みな感想だが、なぜか犬耳メイドになってしまった妹に(またもや過激)、そんなふうに深く慕われてみたい、そしてそんな妹の願いに応えてみたいものだ。


【さち】
 メインライターとは別の人が書いたということと関係があるのかどうか分からないが、さちシナリオは結局最後までどこかちぐはぐな印象が残った。さちがなぜあそこまであの丸っこい兄にべったりなのか分からないし、主人公がお兄ちゃんと呼ばれる感覚もよく分からない。車の人の声が強すぎたのだろうか。それっぽいエピソードがなく、丁寧語ということもあり、妹感も幼馴染感もあまりしなかった。露出プレイに走るのも唐突な感じがした。あとペンペがエロくて参った。
 とはいえ、そのギャップを楽しめた部分もある。特に目を大きく見開かずにフラットに開けると、吊り目気味の不機嫌そうな黒目っ子になって可愛い。絵師さんは全体的にぷっくりしたほっぺを描くのがうまいが、そのほっぺがいっそう引き立つように見える。肩幅が狭くて撫で肩なのも素晴らしく、元気なポニーテイルもすっきりしたうなじも可愛い。要はさちの姿かたちが好きなのだと思う。車の人の声はキャラクターのビジュアルイメージとややずれていたのだが、無理やり合わせようとしないで、まずはさちの性格や姿かたちを思い浮かべて、告白した後で急に舞い上がってチャット魔になってしまうような幼さを思い出す。そしてその後で本来はそうした幼さとは遠いはずの車の人のあの声をかぶせると、なにやらそのギャップを意識してこそさちの個性が浮かび上がってくるような気がして味わい深い。絵だけを見ていると結構妹感がある気がするが、声も合わせると違ってくる。そんな揺らぎがあるから、きっと一緒にいて飽きないのだろうなと思う。一緒にジョギングとかしてこころをムキムキしたい。


【アルファ】
 はじめは散々ごねていたアルファが、「君が必要としてくれるから、人間として生きるという選択肢が生まれた」と言うに至るまでには、アルファ自身にも整理がついていない葛藤があって緊張感があったが、それと同時に、自分の考えを変えて相手を受け入れるときの素直さが美しく感じた。そして、お約束と分かってはいたんだけど、やはりイヤリングをつけて感情が急に溢れ出てきて以後のアルファは可愛かった。「セックスをするのです」「(性的な快感を)ただ分析すればよいのです」とか言っていたあの子が、顔を赤らめたり恥ずかしがったりと色気づいたりして。同時に、急に子供のように無防備な存在になってしまって、部室でこっそり寝泊りしてもらうとか、ほとんどプラスをサーバールームでこっそり飼うのと同レベルである。そりゃあクレープもグワ――――ッとくるし、おいしそうに見えるわな。でも子猫とは違って、自分が消滅してしまうことも考えながら主人公を待ち続けていることを考えると、何がしたいかと聞かれて、泳いでみたい、シャチの鼻で押されて水中からジャンプしてみたい、とまっすぐに答えたことに思わずはっとする。こんなふうに明確なイメージがすらっと出てくることから、アルファが一人のときに何を見たり考えたりしているのかがちょっと覗えるからだ。別れの決意を秘めたまま、外に出て雪と戯れ、プラスのためにスカートの裾を抱えて「ここに溜めて……部屋の中で降らせてみるのです」と言ってフィンランド旅行を想像してみたときもそう。見方によってはあざとかったりありがちだったりするのだろうけど、感情だけでなく記憶の解放の際のやり取りにしても、主人公の突っ込みや反応が適切なこともあり、アルファの言葉や心の動きの一つ一つが注意深く描かれているようで素直に読めてしまう。他の方も書かれているが、アルファが真実の恋や感情の発露といった非効率的な価値に対して臆病であるところに共感して、感情移入しやすいのかもしれない。あるいはテキストだけではないのかもしれない。絵がきれいな作品であることはこれまでも書いたが、アルファルートのイベントCGはとりわけ気合の入った美麗なものが多いように感じた。プラスを肩に乗せているアップの絵は美術品といっても差し支えなく、こういう言語外の質感がアルファの存在感を支えている。最後のCGは笑っちゃうようなベタな構図なのだが、どこか写実的な(人間的な?)アルファの素直な表情に吸い込まれ、会話や音楽を聞いているうちに雰囲気に流され、恥ずかしながら泣きそうになった。


 というわけで皆さんいい娘さんたちだった。彼女たちが可愛いければ、そしてそこに「真実の恋」があれば、現実とか仮想とかどうでもよくなる。それは作品の趣旨からもそんなに外れていないはずだ。


Sekさんにありがたいコメントをいただいた:http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=19980&uid=vostok