ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)
- 作者: 乗松亨平
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/12/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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新しいものがないのなら、若者よ、まずは過去に学べ。というわけで、ソ連・ロシアの「温かい」人文科学の伝統、ヴャチェスラフ・イワーノフがソ連の記号論史として跡付けたような、人類学から脳科学に至るまでの学者たち(アファナーシエフ、フロレンスキー、フォルマリストたち、エイゼンシテイン、ヴィゴツキー、フレイデンベルグ、メレチンスキー、バフチン、ギンズブルグ、アヴェリンツェフ、リハチョフ、ガスパーロフ…)の著作に夢を見ようとした。本書で言うなら「文学中心主義」の世界なのかもしれないが、イデオロギーの「深読み」に回収されないきらめきがあるように思えた。そしてその中には、当然ながらロトマンやウスペンスキーを含む記号論者たちもいたけど、記号論は扱っている領域が広すぎるので後回しにしているうちに、何だか学術研究の進歩が遅く見えてきて、気の遠くなるような根気を必要とすることについていけなくなった。ロトマンは「詩的テクストの分析」で文学作品の秘密を暴くための鋭利なツールを紹介し、事実その後でたくさんの研究者が人海戦術で作品分析に当たったけど(ロトマン・ヤコブソン的な分析方法の学生向け教科書もけっこう見かけた)、それもてんでんばらばらな印象でいつまでたっても終わりは見えず、ロトマンのような一部の優れた研究者の名人芸の域を出るのはなかなか難しいように見えた。そうして、ソ連崩壊後には記号論自体も新たな価値観を生み出す力を失ってしまったのか、あるいは地味な学究的土方作業に埋もれていったのか、予算不足という現実にぶつかったのかわからないが、何だかどこへいったのか分からなくなってしまった。もちろん2000年代以降も素晴らしい名人芸的な著作は出たようだけど、まだ道半ばのものばかりだったと思う。
つまり、ミーハーな僕は現代のロシアに勝手に失望し、自分にとっての新しい価値は得られないと思ってしまった。かつての人文科学の隆盛(?)を思えば、残ったのはエプシテインやおそロシアネタばかりというのは寂しい。それに現代文化は古典よりも、少なくとも外国人にはハイコンテクストすぎて難しく、クーリツィンがなんかいろいろやっているといっても関心は持てない。
ロトマンの『セミオスフェーラ』(記号圏)は直接的に文学を論じたものではないので入りづらく、ヴェルナツキーのノオスフェーラやグミリョフのエトノスに関する本と一緒に、いつしか本棚で埃をかぶっている。そのロトマンを「深読み」で葬ってくれたのが今回の本だ。著者が断っている通り(開き直っている通り?)、この本では現代ロシアを語る言説がかなり狭い範囲に限定されていて、インテリゲンツィヤの繰言ばかりで生産性がないように見える。フィクションが後退して、平板だったり殺伐としていたりするノンフィクションばかりになって憂鬱だ。後ろ向きなテクスト、プーシキンやカラムジンの研究書を読んで無駄な知識を蓄えたり、グネージチ訳のイリアスやジュコフスキー訳のオデュッセイアを読んで古代ギリシャに現実逃避したり、クズミンやアフマートワの詩を読んでなんか想像界的なものに浸ったり、ゴーゴリの小説を読んで語り芸を楽しんでいたりするほうがましなような気がする。現実から逃げ切るためには、僕にはもう少し堅固な城が必要だ。
本当に2000年代に入ってから、プーチンとオイルマネーのおかげで、特記すべき新たなことは何もなかったのか。今回のような本は貝澤氏が書くのかと思っていたけど、乗松氏はもっと若い世代だ。現代日本にも目を配りつつ、しつこく書いてくれたのはありがたかった。他にもロシアの現代思想を追いかけている人は2〜3人くらいはいるらしい。そのうち何かもっと前向きな本は出るだろうか。ロシアは本当に天才を生まない普通の国になってしまったのか、自分で確かめなければダメってことなのかもしれないな。最近エイヘンバウムの「不死へのルート」を読んだ。19世紀半ば、あまり才能に恵まれなかったがバイタリティのある変人がたくさん現れて、はた迷惑な創作活動に勤しんだという。そんな偏執狂の一人に光をあてた伝記小説だ。変人だから天才に近いということはないけど、現代のロシアにも本当はもっといろんな人がいるんだと思う。