星空めてお『ファイヤーガール』

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクターの物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語を卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。
 未知の世界のセンス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公がクールなイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式の教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活を単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。