Бесконечное лето (Everlasting Summer) (85)


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 たぶんロシアで最初の本格的な美少女ゲームということで、開発段階から楽しみにしていたんだけど、できた頃(2013年くらい)には忘れてしまっていて、昨年に気がついてから少しずつ進めてようやくクリア。
 Steamで配信されているゲームで英語版があるので、既にプレイした日本の方も多いらしいけど、少し紹介的なことも交えた感想にしておこう。


○あらすじ
 ネット廃人・引きこもり気味の20代の青年。ある日、冬の町に出てバスに乗って居眠りすると、目が覚めたら夏の平原を走るバスの中。到着した先はラーゲリ(子供用サマーキャンプ場)「ソヴョーノク」(“フクロウの子”)で、ソ連時代そのままのピオネールたちがキャンプしていた。主人公もソ連時代のピオネールに若返っており、集団生活を送りつつ、ヒロインたちと接近する……というタイムスリップ物のエロゲー
 なぜ自分がタイムスリップしたのか分からず、世界がどのような時空にあるのかも分からないまま(他のキャラクターたちは答えをはぐらかし、主人公も内向的なのでなかなか真っ直ぐ聞こうとしない)、ミクという初音ミクそっくりの音楽好きでおしゃべりのヒロインが出てきたり、昔の核シェルターのような場所に迷い込んで男友達が発狂しかけたり、一瞬現代に意識が戻ったり、世界がループ構造であることをほのめかす主人公の分身に出会ったり。7日で1周してキャンプが終わることになっており、迎えのバスに揺られて居眠りすると現代に戻っているというパターンのシナリオが多い。


オタク文化ミーム
 ミクというヒロインもそうだが(ボーカロイドを使ったBGMもある)、キャラクターの造詣にオタク文化ミームが見受けられて興味深い。ロシアのオタクスラングでオヤシ(ОЯШ)という言葉があって、「普通の日本の学校生徒」という言葉のイニシャルなのだが、これは「一般的なラノベまたはアニメ主人公的な平凡な高校生で、平凡とか言いつつも羨ましい状況にいる人間」を意味しており、この作品の主人公もそんな位置づけの掛け合いをヒロインたちとする。
 ロシアのようなマッチョなメンタリティの国で日本のオタク的なずるい性格設定がどこまで通用するのか気にしたくなるところだが、ロシアと日本という国と国の比較をしてもあまり意味はない。ロシアでもそういう感性に反応する人たちはいるけど、あちらではやはりあちらの文化的土壌があって、日本と同じようにはいかないことがことあるごとに感じられて、ちょっとした異化効果を始終感じられる。通常は僕らにとっては、こうした異文化要素はPretty Cationのレーチェやこころリスタのメルチェのように留学生ヒロインという設定を通して触れられるが、本作は外国人が作った外国人のためのゲームなので濃度が段違いになっている。


○グラフィックなど
 技術的な部分を見ると、立ち絵は改善の余地ありで、姿勢や表情がオーバーでテクストあっていなかったり、一枚絵は全体的に質が低くて悲しいので、いつかリメイクして欲しいのも本音だが、味がある、といってもよいくらいには慣れてしまう。Steamなのでエッチシーンはないのだが、ちょっとファイルをいじるとエッチ絵は開放されることに終わってから気づいた。といってもきれいな絵に甘やかされた目にはちょっときついし、テクストがなくてブラックアウトするシーンに一瞬差し込まれるだけなので、物好きな紳士のための心配り程度だ。活字信仰が強かったロシア文学は昔から禁欲的で、象徴主義の時代にはさすがに婉曲的な官能表現は広まったけど、基本的に豊かな放送禁止用語は口承文学の財産であり、プーシキンが書いたポルノ詩もきちんとした活字になったのは20世紀末になってからだったくらいなので、急にロシア語の喘ぎ声だらけのエッチシーンとか読まされても困る。奥ゆかしさはかえってありがたかったのかもしれない。いつかは、という期待はもちろんあるけど。
 他方で背景画のレベルは相当高いといっていいと思う。僕はあまり詳しくないけど、日本のメーカーでこの水準に達しているところはあまりないような気がする。背景画に本気を出しすぎて、キャラ絵がおろそかになった感があるくらいだ。テーマがテーマだけに、カバコフの絵のタッチとか色合いが近いように思えるが、いずれにしても背景画というよりは一幅のソツアートっぽい風景画という感じがするものもある。そういう画風で、ラーゲリの広場に立つ銅像がゲンダという革命家(?)のもので、メガネをくいっと持ち上げる碇ゲンドウだったりするので感心する。
 音楽はロックっぽいものが多くて僕の好みとはずれているが、overdriveのBGMみたいにエモーショナルものも一部あったりしてけっこうよかった。サントラは70曲くらいある。
 ついでに画像を少し。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22


○ロシア語で記述されたエロゲー
 僕にとっては、エロゲー的な掛け合いや恋愛をロシア語で描くとどうなるのかというのが、というのが大きな関心の一つだった。語学的な意味でも、言葉に付着した文化的な引力に対人関係の距離感や思考の筋道が引きずられるという意味でも、エロゲー的な物語文法とロシア語のモノローグ文体はマッチするのかという意味でも。昔、ロシア語を勉強し始めてインターネットに触れた頃、ドストエフスキーの言語である聖なるロシア語が、別の意味で聖なるエヴァンゲリオンを熱く語るのに用いられているのをみて驚いたものだ。その後、ロシアの新聞やニュースを頻繁に読むようになってからも同じで、おっさんくさい日経新聞の記事を面白く読めるようになったのは、ロシアの経済紙でロシア語によるビジネスニュースに親しんで身体を慣らしたからだった。そういう新たな回路を開く体験をできるのが外国語の醍醐味の一つだ。
 結論としては、論理的でありながら柔軟で瞬発力もある(語順の自由度や一語の表現力など)というロシア語の長所は、エロゲーでも十分威力を発揮していて読み物として楽しめた。モノローグがややくどく感じられるところもあったけどオヤシなので仕方ないといえるし、引きこもりのダメ人間の設定とは裏腹に、モノローグも掛け合いも結構ウィットが効いていて飽きなかった。ロシアでは別にプロの物書きでなくても雄弁・能弁な人が多いが、本作のライターもそうした例に漏れず地力の高さを感じられた。なんでもないやり取りにどれだけ神経を通わせられるか。言葉の流れとBGMが心地よいうねりを作っているように感じられた場面も少なくなかった。多分、僕が外国人だから、ロシアのハーレクイン的な小説のシャブロンや日本のアニメのフレーズの露訳であっても、新鮮に思えてしまったところもあるかもしれないが、そのせいで僕が損するわけでもない。どんだけエロいかとか、エッチシーンが見たくなるかとか、そういう直接的な欲求とは別に、このヒロインとずっと他愛のないけど退屈しないおしゃべりをしていたい、疲れたら一緒にごろっと寝たい、と思えるような親密さの雰囲気があった。ロシア語の掛け合いは、芸人の漫才のようなネタをいじって演じている感がなくて、純粋に対等に頭を使って、言葉を転がしたり飲み込んだりしているようで、健康的でやさしい感じがした。
 舞台として想定される1980年代のソ連。その想像の彼方のピオネール少女たち。ロシア人にとってのアニメ的な楽園は隙が多くて、皮肉の対象にもなってしまう品質の楽園なのだとしたら、今の若い人たちにとってはアニメの世界と同じく遠い世界となったソ連レトロの中の夏の少女たちとの距離は、遠いとはいっても近いのかもしれない。異国文化としてのアニメとは嫌が応にも距離があって、その距離を埋めるのがアイロニーの手続きなのだとしたら、ピオネール少女たちは国産品であり、自分たちのものだという喜びがある。そうした明るさがラーゲリの日差しにも感じられるように思えた。本作にはファンによるmodがたくさんあったり、スピンアウトのアイテム調合RPGトラヴニッツァ」(The Herbalist)があったりして、ループ世界との別れという作品のテーマに沿った楽しみ方をされているのもよい。製作中の次回作はソ連時代の日本を舞台にしたロシア人が主人公の話だそうだが、正直なところテーマの選択に関しては本作のほうがずっと洗練されていると思う。


○ヒロインたち
 ネタバレありで。
 シナリオ展開は割と手堅く古典的な感じで、各シナリオがかぶらないようになっていて飽きない。アリサはレーナとの三角関係と現実帰還後の音楽での出会い、レーナはヤンデレ展開とラーゲリ世界に残ってその後の半生、ウリヤーナはいたずら騒ぎと現実帰還後の復学と再会、スラーヴャは優等生振りとつかみどころのない大胆さが現実帰還後も続いてそうな結末、ミクは性格反転の劇中劇的ホラーシナリオ、ユーリャはハーレムシナリオと対の最終ルート。
 恋愛ゲームとしてヒロインとのやり取りをリラックスして楽しめたのは、どちらかというと絵も安定していたスラーヴャとユーリャだったかな。他は読み物としては退屈しなかったけど、最後のシーンをのぞくと疲れる展開が多かった気がする。スラーヴャは最後まで謎めいた感じがして引き込まれた。ユーリャは主人公との立ち位置の近さと無防備さがなじみの感覚だった。最後のシナリオだから楽しみ方に慣れたということもあるかもしれないが。すべての並行世界に同時に存在する不思議なヒロインが、原作者がチェブラーシカと同じの国民的アニメ「プロストクワシノ村」(邦題「フョードルおじさんといぬとねこ」)のセリフを知らずと引用して、身近な女の子になる。そういう小さな発見を積み重ねていく喜びに僕も与らせてもらったような気がした。僕は外国人なのでロシア人のようには楽しめないだろうけど、ロシア人がエヴァンゲリオンでおかしな電波を受信してしまうように、僕もこの作品に浸りきることができる。いつにも増して孤独な作業だからこそ、静かで自由な没入を楽しむことができる。