欲張りなモニタと控えめな演出

 年末に秋葉原に行ってPCを買い替えて、10年くらい使った小さなノートPC(15.6インチ)からバカでかいモニタ(23インチ)のデスクトップPCになってゲームを堪能する環境が整った。家で仕事をするときはブラウザのタブを50個くらい一気に開いたりすると言ったら、店員に少しパワーのあるものをと勧められて買ったやつだ。中古で合計4~5万くらい、さらに大きなノートPC(出張用)も中古で3万円くらいで買った。どれも新品同様のぴかぴかのパソコンで、いい時代になったものだと思いながら、でかい袋を抱えて家まで持ち帰るところまで含めて秋葉原に通っていた昔を懐かしんだのだが、そこで満足してしまって新しいPCにエロゲーをインストールしていないこともあって、すっかりプレイが止まってしまった。
 久々にやってみたエロゲーはマルセルさんが楽しんでおられるはぴねす2の体験版。前作はその昔体験版をやって断念したのだが、2の体験版をやってその時の違和感を思い出した。僕はこのメーカーの立ち絵の使い方が好きになれないということだ。テキストはそれほどストレスなく読めても(体験版の範囲ではまったりと可愛い女の子を愛でるだけの必要にして十分なゲームという印象で、唯一主張らしい主張があったといえば、花恋のシャツのボタンの隙間がひっそりと開いていて大変すばらしかったということで、高校時代の思い出を昇華してくれた)、立ち絵で割と台無しにされてしまう感があった。すなわち、はっきりしすぎた表情とそれをさらに強調する漫符(ハートマークとか)だ。もっと曖昧で中間的なはずのヒロインの心理状態がデフォルメされてしまう。そのデフォルメされた顔がいくらかわいかったとしても、やっぱりデフォルメ(変形、単純化)なのだ。それをいったらわずか数種類から十数種類の立ち絵であらゆる状態を表すというエロゲーの立ち絵のシステム自体が原理的にデフォルメなのだが、もう少し中間的な表情やニュートラルな表情だってある。ある立ち絵から別の立ち絵への切り替わりは0から1への切り替わりであり(滑らかに動いて変わるように見えるすばらしい技術もあるが)、1つの立ち絵自体は静的である。動きは原則的には複数の立ち絵が切り替わることによって、あるいは複数の立ち絵を想像することによって、複数の中の一つの顔という形でとらえられる。ところが、立ち絵が優れていると、単に止まって瞬きすらせずに凍り付いた絵であっても、ヒロインがかすかに呼吸しながらこちらを見つめているように感じることもあるものだ。そういう息づいている感じがこのメーカーの絵や漫符の演出ではあまり感じられなくて、読んでいて没入が難しい。立ち絵がひょこひょこ動くのも好きではない。システムで漫符を消せれば少しは落ち着きそうな気がするけど、残念ながらそんなボタンはないようだ。というわけでハードルが高いメーカーなのだった。
 昨日ノラととのおまけシナリオが出たとのことで、久しぶりにまたエロゲーをちょっとだけやった。人気投票の結果によるリポーターの小話と、シャチアフターのちょっといい話だ。シャチは高いポテンシャルを感じさせるのにシナリオが短くてもったいないヒロインなので、短くてもこんな風に補ってもらえたのはありがたい。そしてシャチとの花見をこっそり楽しむという話もよかった。なんだかシャチの声が囁き声のような発声ばかりで、それが意図的な演出なのかどうかわからないけどとてもよかった。桜を背景にそんなシャチと向き合うと、自然とメッセージウインドウを消して立ち絵と声を鑑賞せざるを得なくなる。大きなモニタ万歳である。花見というよりはシャチ見になる。令和の宴会から1000年以上経って、こんなにささやかで美しい花見をひっそりと楽しめる時代に感謝だ。肝心の花見のシーンは5分くらいしかなくて、二人は風邪をひかないようにとすぐに帰るのだけど、そうした日常、またいつでも来れるから欲張らないという控えめな喜びが心地よい。シャチといつでも散歩できるなんて実際はとんでもない幸せなのだ。