花咲くオトメのための嬉遊曲 (75)

 セーブデータを見ると震災直前の2011年2月に手をつけて止まっていた。8年前だ。
 春にアニメのハチナイをみて、ゲームを始めて、ようやくこれを思い出した。当然だが、ハチナイよりも野球描写やそもそものモードというか心構えの部分が濃くて、その意味では読んでいて楽しめた。ほとんど野球の描写しかなく、いわゆる日常シーンはすべて野球をしているか野球の話をしている場面ばかり。そもそも日常シーンなんて意味のない概念だけど。
 野球を描くということは、これまでもにいろんな作品で無限に近いほど行われてきただろうけど、たぶん一般的なのは野球の個々のプレイを再演し、熱量を込めて体験しなおすことだろう。この作品はそうしたある意味でだらしのない野球作品ではなく、個々のプレイを記号として支配しているような描き方だ。思ったように体は動く。意思が体を制御し、意思が体に先行している。相当に練習を積めばそういう境地に至ることもあるのかもしれないし、この作品の世界では練習ですらもそういう感じだから、ここを上達させたいと思った時点でほぼ達成されている。だから野球はデータと思考を駆使する将棋のようなスポーツになっていて(実際にそういうところもあるスポーツなのかもしれない)、個々のプレイは心理の読み合いであり、なんだかよくわからない気合とかでどうにかなったりはしない。あるいは、試合の中でそのように見える瞬間だけが意図的に拾われて描写されている。それだけでも劇的になるくらいには野球には無限に近い選択肢があるので、描写はいくら理知的になろうとしてもなりすぎることはない。みんなが自分をコントロールしているように見えるけど、それは見えるだけで、実際にはどう転ぶかは誰もわかっていない。
 そういう描き方だからこその主人公の造形なのだろう。交通事故で野球をできなくなったという意味で去勢されているが、言葉によって自分や世界を制御しきれているので、自分の障害を冗談のネタにできるし、女の子に対して擦れた物言いをするし、エッチシーンではおっさんみたいに下品にヒロインを攻め立てる。すべての男はエッチの際にはおっさんになるとうそぶき、自分は純粋ではないと自虐しつつ。露悪的で結構不快なところがある主人公なのだが、自分からは語らないけどやっぱり若者らしいギラギラしたところがあるのも言動の端々からうかがえるようになっている。
 僕は野球をやるのではなく、見ている。選手であるヒロインたちは見られている。見られているのは彼女たちの心理や感情であるのと同時に、野球をやっている身体だ。その身体はすがすがしいほどに女性的な色気とは関係なく、野球をやるための筋肉として描かれているし、ヒロインたち自身も野球をやるための身体を作り上げていくことに最大の喜びを見出しているらしいという恐ろしい環境であり、絵もそういうごつい女の子を素直にごつく描いて恐ろしいのだが、そういう動くためにある身体が動いて喜んでいるのを見ると(スポ根的に苦しんでいるのではなく、ギリシャ的というかソビエト的に喜んでいる。実際、絵柄はデイネカの絵のように社会主義リアリズム的な働く女性の身体を強調している)、こちらもその充実感に感染する部分がある。そして、おっぱいがある(なぜか母乳も出るが、これも充実感が充実しすぎているからだろうか)。そう考えると、野球という進行の遅いスポーツは、身体をゆっくりと、舐めるように鑑賞するのに適した芸術であることを意識せざるを得ない。おっさんたちがやっているプロ野球をおっさんたちが観るのが好きなのは、不健全であると言わざるを得ない。本当はプロ野球は美少女がやるべきなのだが(『後宮楽園球場』でも実証されている)、おっさんたちはそこに底なしの美の深淵があることを無意識に理解して恐れているので、おっさんたちを見ることで踏みとどまっている。あるいは、古代ギリシャ人のように男の動く身体の方が女の身体よりも美しいと思っているのかもしれないが、僕はそういう話はしたくない。プロ野球よりも女子高校野球の方がある種のレベルは高いのだ。
 ヒロインたちの身体は、口よりも雄弁だ。紅葉の心は小学生の頃のまま、野球をする主人公の姿にとらわれて惚れ込んでおり、主人公の不快な性格など見えていないが、彼女の身体の方はもう完成されている。そのギャップは青春の一時期ものであって、やがて心の方も成長だか成熟だか老化だかしてしまうのだろうけど、そんな未来のことなど想像もできないまま彼女は現在の中にある。
 身体に目を奪われているということは、記憶の中ではなく、現在という瞬間の中に意識を固定し続け、目の前の現在を生き続けていることのように思える。でも、彼女たちの若くて美しい身体はこのときのだけのものであり、彼女たちはその現在を惜しげもなく野球に捧げているし、主人公が野球をする彼女たちといられる時間も人生の中のほんのひと時に過ぎない。エピローグはどれも、ヒロインとは完全に溶け合って一つになることはなく、肩を並べたり背中を合わせたりしながら、燃焼していく現在をかみしめているものばかりで、幕切れの文章がうまいので読後感がよいものばかりだ。バッドエンドもそういう時間に対する賛歌のようなものになっていて素晴らしい。この作品で一番印象的な絵は、女の子たちが打ったり投げたりしている絵や立ち絵を除けば(この辺とか明らかにエロゲーの絵の文法と違っていて見入ってしまう)、バッドエンドの寝そべって肌を焼きながら心の中を覗き込むような目でこちらを見上げている紅葉(と紅葉のおっぱい)の絵だ。15年前に発売された作品を8年ぶりにプレイした。この作品の中の現在はとっくに流れ去っており、僕はもはや週末でさえもめったに体を動かさなくなってしまった中年のおっさんだ。そんな自分を遠い過去からこんなふうに見つめてくる彼女のまなざしに心がざわめく。おいていかないでと言っているようだが、おいていかれようとしているのはこちらだと思い知らされるからだ。