澁澤龍彦『ねむり姫』

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫


 先日、今更ながら積読していた『異端の肖像』を読んで、ブックオフで買っておいたもの。あとは『高丘親王航海記』が買ってある。
 澁澤龍彦の作品で最初に読んだのは、大学生の頃に読んだサド『悪徳の栄え』だったと思う。そのあとに『ソドムの百二十日』と『新ジュスティーヌ』も読んだが、当時の自分には書いてあることは実感としてはわからず、ただ文章から立ち上る淫臭(興奮した若い童貞オタクの体臭だったかも…)にくらくらしながらページを繰っていただけで、内容はよく理解できていなかった。三作の違いもよく分からなかった。エロゲーと出会う前のことであり、ひょっとしたらAVとも出会う前だったかもしれない。なんだかすごくエッチなものを見つけてしまったと興奮したのかもしれないが、周知のとおりサドの小説はエッチといっていいのかわからない代物だ。時代的にはロマン主義にかかっていたはずだが、恋愛や純情よりも快楽と肉欲を賛美し、人間とその精神を徹底して即物的に扱うことで精神の勝利のようなものをパフォーマティブに行うサドの創作活動は自分にとっては異質すぎた。
 それからしばらくして、やはり大学生の頃に『さかしま』を読んでいたく気に入った。世紀末芸術に一番はまっていたころだ。たぶん読みやすい澁澤訳だからはまったのだと思う。
 それから他にも何か読んだかもしれないが、20年くらいして今更『異端の肖像』を読んだのだった。取り上げられた登場人物はすでにどこかで聞いたことがある人ばかりだったが、語り口と語りの深度や文体がよかった。そして評論だけでなく創作も読んでみる気になりブックオフに行ったら、おあつらえ向きに近代以前の日本が舞台の作品があったのだった。象徴主義時代の作家や詩人がエキゾチズムを求めて古代や中世、異文明を好んで扱ったように、澁澤龍彦なら日本の中世や近世をよい意味でのスタイリゼーション(様式化、文体模倣)のネタに使うだろうと期待できた。折口信夫の『死者の書』とかそういうの。
 そして期待通りの粒ぞろいの短編集だった。前近代を扱うということは、近代的な価値観を無視してよいということで、これだけ男と女の愛の幻想譚を題材として扱いながらも、その愛は近代的な愛ではなく、あるいは近代文学的な描かれ方をする愛ではない。主人公とヒロインの恋愛や性愛が長々と盛り立てられてハッピーエンドを迎えるかどうかが焦点にならざるを得ないという点でワンパターンなエロゲー的価値観に慣れきってしまった自分としては、前近代の意識に通じる澁澤龍彦即物的で乾いた筆運びは新鮮だ。古い言葉や雅な言葉と軽いエッセイの言葉がまざった読みやすい文章もいい。男も女も割とあっけなく死んでしまうが、別にそれは暑苦しい悲劇ではない。物語の山場となる幻想的で官能的な場面が美しい言葉で語られてしまえば、あとは登場人物にどうハッピーエンドを与えるかではなく、登場人物をどう退場させるのかという語りの技法の問題になってくる。それはこれが短編集だからなのかもしれないけど。
 等身大の恋愛もたまにはいいけど、やっぱり非日常の彼方へと連れ去ってくれる幻想的な恋愛をみてみたい。その不可能性を情念的に湿っぽく描けばロマン主義文学になるけど、前近代的な道具を使ってさらりとした語りの工芸細工に仕上げると、「個人の内面」みたいなものに下品に肉薄はできない代わりに、語られなかったあれこれをぼんやりと想像して美しい絵を鑑賞するように楽しむことができる。近代人が前近代を描くときには、語ることと語らないことは文学的(あるいは文学外的)制約により選択する(正確には、選択の余地なく決まっている)のではなく、芸術作品としての効果や美意識に基づいて仕掛けられたものなので、実際には作者と読者の間のゲームとして回収されてしまうことが多いのだろうけど、それでもどこかここではない彼方を垣間見せてくれるのが幻想文学であり、その加減がここちよい短編集だった。表題作で最初に置かれている「ねむり姫」が一番ヒロインを美しく描いていてよかった。最後に置かている「きらら姫」ではヒロインはまったく登場せず、エピローグで「そんなおっかない女なんかに会わなくってよかったなガハハ」「ガハハ」みたいな落語のような落ちで終わっており、それまでの作品のような美しい姫様の登場に期待しているとアンチクライマックスで一本取られてしまうのだが、幻想をそうやって奥まったところに大事にしまっておくような手法に面白さも感じた。