柳宗玄『秘境のキリスト教美術』

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)


 いつどこで買ったのか忘れてしまったが何気なく手に取った本が面白かった。刊行は50年前だが、著者は今年1月に101歳で大往生を遂げた美術史の大家(で柳宗悦の息子)だということも後から知った。特に面白かったのはアトス山での調査滞在を述べた章のひとつ、「聖母大祝日の夜」。少し長いが引用しておこう。

 その日、祝祭のために、カトリコンの脇の小聖堂の納められているポルタイティッサ(門の聖母)と呼ばれるその聖母のイコンが、そこから運び出され、カトリコンの聖障の前に安置された。私が聖堂の入り口に立ったとき、先に入った一人の男が、聖母のイコンの方に歩み寄った。イコンは全体が豪華な金属細工で蔽われ、聖母と聖子の頭部だけ、絵の部分が見える。それがいかにも神秘的で、彼方なる霊界からのぞく二つの顔といった感じだった。画面が暗くて目鼻立ちが見にくいのは、その制作時期が十世紀(?)という古さのゆえか、燈明に燻されたゆえか。いずれにしても、暗い聖堂の中で燈火に照らし出されたその聖母子の姿は異様に神秘的だった。
 先に入った男は、イコンに近寄り、その前に立ってうやうやしく口づけを繰り返した。それがイコンに対する強い敬意の表現であり、礼拝という行為であった。そういう礼拝の仕方は、私には物珍しかった。
 突然、私の横にいた修道士が(私は黒衣の彼がそこにいることに気がつかなかった)、私に合図した。今度はお前がイコンに口づけに行く番だ、というのだ。私は思いがけないことを強要されて、どぎまぎして後ずさり、どうしようもなくてそのまま外へ出てしまった。有難いイコンにはうやうやしく口づけするのが当然の礼儀であったのだろうが。
 私は、ふと一抹の寂しさを覚えた。それは私がこのギリシャ正教の世界の中で、よそ者だということを感じたからではない。自分がイコンに対して、あるいは、ビザンティン美術そのものに対して、よそ者なのではないかと感じたからである。
 いったい、私にイコンがわかるのであろうか。私は、おそらくイコンの発生やその沿革、地域的発展やその意義について、アトス山のたいていの修道士よりは、広い知識を持っているかもしれない。しかし私は、イコンの内に秘められた生命にどれだけじかに触れることができるのだろうか。私にイコンを云々する資格があるのだろうか。
 さて、その晩八時から荘厳ミサが始まった。それは翌朝十時まで続くという長いものである。私はただでさえ疲労があるので、典礼の途中で一度寝室に戻り、夜中の二時頃にまた起きて聖堂に行ってみた。
 修道士の一人が、書見台の前に立ち、つやのあるろうろうたる声で巧みに抑揚をつけながら何かを読み上げていた。燈火があたりを照らし、イコンも、聖障も、光冠(巨大な冠の形をしたシャンデリヤ)その他すべての調度も、暗い空間の中で、キラキラと光っている。私は、そこで金色という色彩の意味を、改めて理解した。そして修道士たちの衣や帽子の黒い色も。
 暗い空間の中に、光に照らし出されて立つ黒衣の修道士は、すでに幽界の人のごとくであった。その白い顔だけが、そこにあった。あとはすべて、闇に溶け込んでいた。
 聖母子のイコンの方は、逆に金色燦然ときらめく中に、黒っぽい顔が二つ、こちらをのぞいていた。修道士の朗読がとぎれ、あたりに異様な、恐ろしいほどの、静寂が立ち込めた。その雰囲気は、私たちのふだん知る「夜」とは全く違ったものであった。私は、奇蹟の聖母が今ここでかすかに動いても、その口から言葉が洩れても、何か異常なことが起こっても、別に不思議ではないと思った。数々の奇蹟の言い伝えが生まれることは、当然だと思った。それは、単なる描かれた一枚の絵以上のものであった。それは現実に呼吸している生き物のようであった。
 昼間にこの聖母子のイコンを見たときは、それほどの感じはしなかったのである。とすれば、その神秘的な感じには、昼間とは違った夜の何ものかが働いているのだ。すべてを包み隠そうとする闇、その中で光り輝く燈火、照らし出される金色のイコン……。さらに夜のしじま、静かに輝く祈りや詠唱の声。
 私はふとビザンティン美術というものは、本質的に夜の美術ではないか、と思った。あの暗い聖堂の金色の十字架やモザイックなどは、夜の暗さとそして明るい燈火を必要とするのだ。壁に描かれている絵の世界にも、いつも一種の暗さが支配しており、そこに働く静かな光が、神秘的な効果を生み出しているのだ。

 

(中略)


 食堂での会食は、すでに前日の晩にもあったのだが、食堂で私の目を瞠らせたのは、壁にかかっている夥しいイコンだった。四方の広い壁面に、ギッシリとかかっている。場所によっては三段にもなっている。私はその数の大体を数えてみたが、少なくとも四百枚はあった。
 その主題の大部分は聖母子だが、他にキリスト、天使、聖人、それに聖書の場面もある。それも、まったく無秩序にただ並んでいるのだった。聖書の場面が乱雑にあちこちに散っているのを見ると、イコンにおける説話の図像が、よく言われるような教育的なものだということに疑問が持たれる。奥の壁の中央にだけは、古格を保った大型の立派なものが幾枚かかかっていた。他は、中型小型のものが、秩序もなく、ただ数多く掛け並べればいいといった調子で掛かっている。それはそれとして、異様な風景であった。しかし、個々の絵を見ると、その大部分は近代風の低俗化したつまらぬものであった。宗教的香りなどは全くないのだった。
 なぜ近代風のものがこのように低俗なのだろうか。単にアトス山のイコンに限らず、ロシヤのイコンでも、また壁画でも、近代的になるとたちまち低俗になる。西洋に例をとるなら、教会の絵ガラスでも彫刻でも、近代風のものには宗教的な深みが全くない。ドラクロワの描いたサン・スュルピス教会(パリ)の壁画でも、アングルの下絵によるドレゥーの王室礼拝堂の絵ガラスでも、いかにも低俗なものだ。
 それは、近代芸術の基礎をなす写実主義が、本質的に宗教美術と相容れないからなのであろう。現実界をていねいに移そうとする限り、超現実的なものを表現することが不可能なことは当然である。ナザレ派やラファエル前派が、いかに宗教的感情の表現を意図しようと、結果的には低俗な人間感情の表現に終ったのは、要するに写実主義を抜け出さなかったためであろうと思われる。
 ところで、おそらくアトス山の修道士に言わせれば、これこれのイコンや壁画が低俗だなどと批判するものこそ低俗ということになるのであろう。美術史家や美術批評家など世俗の徒は、宗教画を目だけで見ている。それを信仰の心で見るなら、絵の絵としての欠点などはたいして問題ではない。問題なのは、絵の本体なるキリストや聖母に対する私たちの信仰心なのだ。信仰心さえ篤ければ、聖像の描き方が少しぐらいどうであろうと、人間は、その前で感動することができるのだ……。
 もちろんこれは、私の勝手に想像したアトスの修道士の考え方なのだが、この私の想像を裏づけるような光景を、私は見たのである。
 イヴィロンのカトリコンは、正面入り口左右の壁に絵が描いてある。その壁画はキリストや聖母の説話を数多く描き並べたものであったと記憶する。それはおそらく十八世紀頃のもので、図像学的には、もちろん儀軌に則ったものであったろうが、絵としては崩れており、私は格別の注意も払わなかった。
 一人の五十がらみの平服の男(もちろん聖母の祝日のためにやってきた在俗の信徒であろう)がその壁画の一部をじっと見ていた。飽かずに食い入るように見ていた。私は、彼のその異様な見方にしばらくして気がつき、壁画よりもその男を私はじっと観察した。と突然彼は、蜘蛛のように両手を拡げて壁面にへばりつき、そのある場所に口づけをしたのである。しばらくして彼は、壁の別の場所へ行って、同じようにしばらくそれを見た後、また口づけをした。それから今度は椅子に乗り、高い所の壁面に向かって同じことをした。彼は壁に描かれている場面を一つ一つおい、おそらく福音書に書かれている文章を思い出しながら、祈っていたのだ。その態度は真剣そのもので、絵の美醜を見るといった態度とは、全く異なっていた。それもそれで一つの絵の見方に違いなかった。それhが本格的な見方で、私たちの味方の方が邪道なのかもしれぬ。少なくともアトスの修道士は、そう思うに違いないのである。
 さて聖母大祝日の翌日、空は快晴であったが海は荒れ、私のあてにしていたメギスティ・ラヴラ修道院行きの舟が来ない。その翌日もだめで、私はやむを得ず、一番近いスタヴロニキタ修道院を徒歩で訪れ、最後の晩をまたイヴィロンで過して、山越えの道をカリエスを経てダフニ港に戻った。丸一週間、聖山に黒衣の人々と暮したわけで、帰りの舟がトリピティの手前でアンムリヤニという島に寄ったとき、岸辺に島の女たちを見かけて、不思議な動物に出会ったような気がした。

 それほどドラマチックな体験や発見ではないかもしれないが、自分かつてロシアや長崎で体験したことを思い出した。イコンは美術館や画集でゆっくり眺めるのもいいが、やっぱり一番迫力があるのは暗い教会の中でみたときだろう。疲れていてゆっくり見れないことが多いのだが、イコンの方も疲れた顔をしていることが多い。
 前半はカッパドキアの話がメインで、僕は行ったことはないが臨場感があって面白かった。臨場感があるパートだけでなく、著者が提示した教会美術を読み解くためのツールもわかりやすくてよかった。あとはアイルランドの話も面白かったが、著者はこの時はまだ行ったことはなかったようだ。
 といっても、もっと若い時に読むべき本だったという感が強い。著者がカッパドキアを訪問したのは1966年、50歳頃だが、僕はもうこれほどの体験をできる心はなくしてしまったと思う。せめて他の誰かにこういう体験をたくさんしてほしい。