Musicus! 続き

 気を取り直して少し読み返してみる。というか自分の中でこの作品をなかなか終わらせたくない気持ちがあるが、僕にはそのアウトプットの仕方がよくわからない。本来はこの飢餓感が僕がエロゲーに求めているものだったのかもしれない。没入するというのは、ゲームの中の世界の生活の方が現実の生活よりも濃密に思える状態のことだろう。
 この年末年始は、約10年ぶりくらいに田舎に行って、寝たきりで痴呆の進んでいるおばあちゃんを見舞ってきた。もう生きているうちに会えないかもしれないと思ったからだ。おばあちゃんは1年以上、鼻に入った管だけを栄養源にして生きていて、自分では寝返りも打てない。母さえも認識しているかわからないくらいなので、僕のことはおそらく覚えていないだろうが、しゃべれないのできちんと確かめることもできない。でもその日は思ったよりも元気だったらしく、僕をじっと見ながらしきりに瞬きをしていた。僕は何度か耳元に大声で話しかけたけど、特に何かおばあちゃんと話したいことがあったわけではない。死にそうな人の顔を見に来ただけであり、後味が悪いを思いをしたくないという利己的な理由からだったのかもしれない。それでもいかないよりは行った方がよかった。
 前回帰省したのは約10年前におじいちゃんが亡くなったときだったが、その時は15年ぶりくらいだったかもしれない。今は叔父が一人で暮らす家は、かつてはお手伝いさんもいてにぎやかで、商売も繁盛していたが、今回帰省してみると床が柔らかくなったところが多くて、朽ちて行っていることが実感された。築100年くらいだそうだ。集落全体が衰えて行っており、小学校も今では新入生が5人くらいしかいないという。店にお客さんが来たが、よぼよぼのおばあさんで、家まで帰れるのか心配になる。近所のポストに新聞がたまっており、おじさんが訪ねてみたら孤独死していたこともあったという。小学生の頃にはよく夏休みに帰省していたが、冬に来たのは今回が初めてだったので、余計に寂しさを感じられたかもしれない。
 もう片方の田舎の方は20年以上顔を出していない。こちらはおじいちゃんもおばあちゃんも僕が小学生の頃に亡くなっており、やはり叔父さんが一人で住んでいる。瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。先日、芸能人がぶらぶらする番組で親戚の家が出てきたので(芸能人にお邪魔された)見てみたが、相変わらずののどかな風景で懐かしかった。前から帰省してみたいのだが、妻が嫌がっているので僕もやる気が出ない。確かに気を遣ってしまうので仕方ないだろう。いつか一人で行くしかない。本当はスズキ・ジムニーを買って子供と一緒に行って泳いだりみかん山に登ったりしたいと思うのだが、子供もジムニーもいないのでただの夢だ。
 妻は休暇中には実家に帰ることが多く、お互いにちょっと寂しくなるのだが、僕はまとまった時間をエロゲーなどに費やすことができるのでありがたくもある。この年末年始はテレビをつけない静かな環境の中でMusicusに集中できてよかった。年始早々仕事に出たが、僕しか出社していなかったので静かに仕事して、Musicusの余韻がまだ持続している。次にこういう作品に出会えるのが12年後とかになる可能性もあるので(昔はこのことが分かっていなかった)、今はもう少し楽しんでおきたい。まだ明日と明後日を休めるのはありがたい。
 というわけで、どこのシーンを読み返したいというのがあるわけではないのだが(どこを読んでもそれなりに面白い)、たまたま流していたら尾崎さんの実家を正月に訪問するシーンになった。この実家の雰囲気、母と子が打ち解けていて温かい感じがするのがよい。ぼろいアパート暮らしで、小さなプランターで食べられる野菜を栽培したり、もやしだかなんだかを育てていたり、大きくない居間にこたつとかタンスとかあるのがよい。先日の田舎にも掘りごたつがあった。僕の家は炬燵もタンスもなくて、ガスヒーターとエアコンとクローゼットだけだ。尾崎さんの家の居間には壁に子供が描いたような虹と太陽のクレヨン画が貼ってあるが、あれは尾崎さんが描いたものなのだろう。テレビの上には木掘りの熊と狸の置物が乗っている。隅の方には学生カバンとか鏡と櫛とかあるから、ひょっとしたら尾崎さんの自室すらなくて、この居間くらいしかない家なのだろうか。尾崎さんの母は太っていて早口で朗らかだという。とても和む雰囲気だ。これが対馬をも和らげたのだろう。尾崎さんも、考えてみれば、澤田なつさんみたいなブレスが多めで声量のある声をしていて、健康的だ(きっといいボーカルになるだろうなと思っていたら、案の定歌ったわけだ)。尾崎さんのような女の子って実在するのだろうか、あんなふうに女の子を育てることって可能なのだろうか、そもそもこんな居心地のよさそうな慎ましい家ってまだあるのだろうか、僕の今の家もいつかは古びてこんな雰囲気をまとえるのだろうか、と無益なことを考えてしまう。まあ僕は今年はめんどくさいので実家に顔を出しておせちを食べたりしなかったので、せいぜいこのゲームで実家感を味わっておいたことにしよう。対馬は前の学校を辞めた後、神社でみかけた尾崎さんと話をして定時制に通うことに決めたそうだが、その尾崎さんのルーツが感じられる家庭の雰囲気なのだった。尾崎父は創作で行き詰って酒を飲みすぎて死んだそうだが、その頃にはきっと違った雰囲気があって、尾崎さんも学校に通えなくなったが、それでも父に対しては明るい感情しかないらしい。そうして現れる、「人生を何かに賭けるべきか、賭けないべきか」という意地の悪い選択肢……。
 対馬は尾崎さん以外のルートでは、家を出てぼろくて広い家に引っ越し、そこがすぐにバンド仲間のたまり場になってしまい、それはそれで楽しい生活を送るわけだが、この家と尾崎家の感じが好きだ。もちろん住んでいる人のせいなのだが。存在しない澄ハッピーエンドルートでは、澄のマンションも尾崎家のようなかんじになったのだろうか。
 ……。こんなふうにだらだらとゲームを読み返しながら実況半分の感想をいつまでも書いていければどんなにいいことか。でも、まず飽きてしまうだろうし、それにそんな時間はどこにもない。せいぜいあと2日だ。とりあえず気楽なメモのつもりで残しておこう。

・音楽面では突出したものはないと書いたが、しいて言えば、無音の場面が多かったのは良かった。あと、歌については作中ではなく個別に聴けばそれなりにいいのかもしれない。作中では明らかに文章に負けており、声量や音圧が不足しているように感じられる。でも、歌詞はやっぱりだめだな。意味の塊が長すぎて、メロディに対して意味が遅れており、そのせいで冗長に感じる。わかりやすい歌詞にするならもっと早口で歌う必要があるが、僕はそれよりももっと短いブロックの言葉の連なりをゆっくり聞く方が好きだと思う。
・何度も言及された、対馬が香織をかばって学校を辞めたエピソード。「どうなるか試してみたかった」というが、対馬がロボットに比されていたことと合わせると、『悪霊』のスタヴローギンが町のお偉いさんと頬にキスを交わす挨拶をするときに、思いつきで突然相手の耳に噛みついてみて仰天させたというエピソードを思い出す。何事にも受け身であるスタヴローギンとロックに魅入られた対馬ではまったく違うが。
・あえて書くまでもないが、いい大人になっても定職につけずバンド活動に生活をささげているゾンビのような人々の話、僕は研究者になることをあきらめてサラリーマンになった人間なので自分のアナザーライフのように感じられ、この作品の登場人物たちに感情移入してしまう。僕の同世代ではすでに助教になった人もいるが、いまだにフリーターみたいな人もいると思う。そんな僕に必要なのは、尾崎ルートのアフターストーリーなのかなあ。
・三日月がほんとうにいい子だなと思ったのは、最初のライブが終わって自分に不満を感じて怒っているのを見た時だ。そういうものを抱えていなくちゃいいクリエイターとは言えない。作品を完成させたそばから、その作品への関心を失っていくようでないと、あるいは人の作品であっても勝手に作り直そうとして作品をめちゃくちゃにしてしまうようでないと天才とは言えない。三日月が寝たまま吸い込まれたように上を見上げて、もう少しで何かがつかめそうだとつぶやいている印象的な絵があるが、あれはどういうことなんだったっけ。そのうち読み返したい。

 あとでまた続きを再開しよう。