Musicus! 続き2

 また少し続き。今日で連休も終わりだ。
 一人になるとたくさん寝てしまう。昨日は『電気サーカス』を読み返して(半分くらい読んだ)12時間以上寝た。昼夜逆転の年末年始だった。対馬とミズヤグチが混ざったような人が出てくる夢を見た気がする。あと、Musicusのサントラを作ろうとしたが、BGMをうまく吸い出せなかった。もういろんなやり方を試してみる気力はないし、それほど聴きまくりたいほどではないのでいいかな。作品の空気を思い出すには便利なんだけど。

・めぐるは何であんなに寝てばかりなんだろうか。作者が起きている描写をめんどくさがっただけというのが有力なような気もするが、それにしてもノーフューチャーだ。演奏中毒であるということは、めぐるにとって演奏は抜けられない快楽であって、演奏し疲れたら自慰に疲れた後のように寝てしまうのだろう。いつも穏やかで感情を強く表現することがないが、弾いていないときは一種の賢者モードだからなのだろうか。対馬は何かをやると決めたら徹底的にできる集中力があるが、めぐるはそれが演奏に特化されていて、しかももっと官能重視なのだろう。めぐるの方が正直で純粋なような気がする。僕もずっとやっていたいことや好き放題にやりたいことくらいはあるが、そういう生き方をきれいに結晶化したのがめぐるなのだろう。彼女のこうした特質について作品中でネガティブな描写は何もなかった気がするが、わざと伏せていたのか、それとも本当にそんなものはない、美しく幸せな存在としてめぐるを作ったのか。そういう生き方をするには、守られていなくちゃいけないし(親の支援で生活には困っていなかったっぽい)、音楽の完成度に対する強いこだわりを持たずにグループの中での居場所を見つけなくちゃいけないし、見つからなければ押し流されていくだけなのだろう。音楽以外の外部からの入力情報に対してはあえて鈍感になる(「もしかして、私心のどこかで馨のこと好きなのかな? まあ、そうだとしても、自分では認識できないくらいだけどねー」)。真似したくてもできるようなものではなさそうだ。それでめぐると話していると悲しくなるという三日月にからまれるわけだが。
・三日月が「自称ネットのことならなんでも詳しい」けどセンスは微妙なオタクなのが面白い。三日月が作ったダサいサイトよりも、田崎さんが適当に作ったインスタグラムの方が盛り上がっていて、ライブの後に泣きながらゴリラみたいに暴れている三日月の画像が人気だという。三日月の才能に対するこの距離感がよい。勘違いした金田の裸画像が増えてインスタグラムの人気が下がるというオチも。
・「『はぁ、どうしたら私、もっと穏やかな性格になれるんでしょうか…… 普段はぼーっとしてるんですけど、時々わけのわからない感情が嵐みたいに襲ってきて、わーってなっちゃうんです』 だが、僕はそれを修正するべきものだとは考えていなかった。その激しい感情が、三日月を特別な人間にしているように思えたからだ。とはいえ、本人にとっては感情の起伏に振り回されるのはとてもつらいだろうというのも理解できる。自分の中の理解できない衝動を抑えたり、理解するためにそのエネルギーのほとんどを使ってしまっているように見える。自分と向かい合うことに精一杯で、外から刺激があるとそのバランスがすぐに崩れてコントロールできなくなってしまう。だから彼女は引きこもらざるを得なかったんじゃないかと、僕は最近想像している。『もっとまわりの人や、大事な人に優しくしたいんだけどな。どうしてもできないんです。めぐちゃんのこと大好きだし、いやな思い出とか誰にも言われたくないのに、今日もあんなこと言ってしまって……。自分が嫌になります』」 会話を交えた小説的作法の分析がこの後にも続いていく。こういう描写がエロゲーではあまりなくて残念だ。
・八木原がスター・レコードへの所属を提案しに来た場で田崎さんが抜けることを発表し、取り乱した金田がしまいには八木原にも意見と説得を求める。ここでいきなり八木原に話を振れるのが金田のすごいところなんだろうな(自分ですごさを分かっていないところも)。八木原も急に話を振られてびっくりしつつも、真摯に答えるのがよい。
・ライブの後でメンバーの反省点をメモ書きする対馬。減点法のこんなメモに意味があるのか疑問だが、感覚的なことを書くとメンバーの個性を殺してしまう可能性があるので書けないという。このストイックさが基調にあるのがよい。
・はじめに弥子ルートに進んだこともあり、だいぶ話が進んでから風雅が出てきたのはさわやかな空気が入ってきたようでよかった。澤村倫も同様だ。人が去ったり新しく来たりするのが瀬戸口シナリオのよさであり、ともすると淡々と流れていくようにみえる三日月ルート後半のエピローグ的空気にもつながると思う。
・二十歳になって三日月は対馬をケイクンサンではなく馨さんと呼ぶようになったが、誰にも(少なくとも対馬には)成人を祝ってもらわなかったのだな。それで対馬の呼び方を変えることを決心した。それでバンドを出て行ったらどうかと言われたら腹が立つよなあ。それでどっちでもいい星人になる三日月。「それはダメだよ。ミカちゃんがいなきゃこのバンドは成立しないのに、どうしてそんなこと言ったのさ? 理解できない! 売れる気がないの? Dr.Flowerはこれからだっていうのに。呆れて言葉が出ないよ。それに馨さんにそんなふうに言われたらミカちゃんは可哀想だ。自分の言葉がどんなふうに受け止められるのか考えてないの?」とズバッといえる風雅がよい。瀬戸口テクストは畳みかけるテンポがよい。ちょっとテンポが遅いようにもみえるけど、冗長でない内容を平易な言葉で伝えているから長く見えるだけで実際には無駄はなく、声優さんが読むとちょうどよいテンポになるようにできていると思う。同じことを金田と篠崎も対馬に言うわけだが(金田「おれにはミカの気持ちがわかるね。こんなに残酷なことはないじゃねえか……」、篠崎「お前が謝って、大事に思ってるよって言ってやればそれで解決するんだよ。簡単なことじゃねえか」(説教した直後にヒモになっていることが判明))、それぞれの性格を反映して言いまわしとかが変わっていて冗長に感じない。そうして対馬が話し合おうと三日月のアパートに来てみると三日月は自慰に耽っているわけだが、別に淫靡な展開にならずに逆切れし(対馬も淡泊)、自慰があくまで三日月の鬱屈を表すものとして使われているのがこの作品のエロゲーらしくなくてよいところだ。そのあと、「人生についても語っていいですか?」と聞いて突如死の不条理について語りだし、怒りをぶちまけたり、怒りを感じない対馬を哀れんだりする。ある種の賢者モードだが、ドストエフスキー的な会話の流れでもある。三日月が音楽に求めているのは確かな形でえられるものではないから、いつまでも不安定で、安定してしまったら音楽をやる意味も失ってしまいそうにも思えるけど(対馬が「必要だ」と言ってあげれば何も考えずに安心できるというが、実際に「必要」で「幸福」だというと、「急にニヤニヤして気持ち悪い」と答えるのがよい)、それは単にこの作品の外側のエピローグの世界だから描かれないだけなのかもしれない。
・正月明けの弾丸ツアーのエピソードは、おそらくテーマ的な意味では細かく固有名詞を出して描く必要のない部分だが、こういうのをずるずると読んでいかないと積みあがらないものもあるのだろう。そのあとで金田の嫁の話とか花井の遺作の話とかメジャーデビューの話とかが出る。
・澄ルートに進むと(進んでしまった)、金田が育児と仕事で活動を減らし、風雅は体を壊す。対馬がバンドの活動停止を決める。ここにはエロゲーらしい選択肢は出ない。選択肢はもっと前の時点で出ていた。だからプレイヤーは流れを追っていくことしかできない。それでも明るいトーンは残っているから、澄が登場した時もまさかあんな展開になるとは思わなかった。でも、その前に夢の中で赤ん坊がずっと泣いていて、顔のない風雅が「ここには何もないんだよ」と繰り返していたんだな。だからこそ澄の登場は救済のように思えたんだけど。先に進みすぎたが、澄が登場する前に、バンド活動停止から1年が経っている。この間に対馬は単独でコンセプトユニットを組んでそれなりの活動を続けていたとのことだが、内省的な描写がなく、何かを求めながら音楽をやっているのかわからないままいまま1年が過ぎた。そのうちに音楽が客に届いているという実感がなくなってきたという。となると、以前に実感を得ていたのはDr.Flowerのメンバーで活動していたからだということになる。独立した後はそういう契機がなくなってしまったというわけだ。Dr.Flowerをやめたのは何かの選択の結果ではなく、抗えない流れの結果だったから、そのことを対馬が後悔したりすることもない。一人になって経済的に安定してしまったから、後悔することもできないらしい。「この生活だけで、自分の一生はいいかなという気になってくる。」 登場人物が減って地の分ばかりになる。ある種の解放感というか、第2のスタートを予感させる流れだったから、そこに現れた澄は印象的だったんだけどな。
・今更新しいキャラクターかよと思った。この流れの感覚がよいのだな。この後の展開を思い出すとつらいのでほどほどにしておきたいけど。いきなり「お弁当を作ってきたので、よかったら食べていただけませんか?」か。思えばけっこう大胆だな。このころはまだよかったな……。といってもまだ始まったばかりのところだけど。花屋の店員は肉体労働で大変だけど、人の気持ちに触れられるから幸せだという。他にも澄は対馬が弁当を食べている間に故郷の自然の話などをしたという。聞いてみたかった気もする。
・澄を家に誘う。家に入る前にいつもの癖で郵便受けを確認する。こういう意味ない描写をいちいち挟むのが印象的。日常の延長線上あることを意味する異化の手法だ。できた新曲を聴いてみないかと尋ねるとすごく喜ぶ。喜びすぎだよ……。この時点でも澄は特に曲のことを理解しているだけではないけど(それが今の対馬にはあっているという皮肉)、それでもすごく嬉しいみたいだ。僕も嬉しくなる。
・自分が満ちすぎていて自家中毒を起こしそうな殺伐とした部屋に、女性が一人いるだけで「何もかも緩和されて、全く別の居心地の良い空間になっている」という。「どこにも何の根っこも持たない創造物があるなんて、とても想像できない」「他人がいるとこういう凝り固まった僕の淀んだ世界観が、すっきりと正常になるのを感じる」とも。どうしてこれがいい方向に行かなかったんだろうなあ。
・澄のエッチシーンでBGMがないのは良心的でよい選択だと思う(他のヒロインはどうだったっけ)。喘ぎ声テキストとかが単調で手抜きに思われかねないのも(急に饒舌になって余計なことをしゃべりだすよりはいいのかもしれない。手をどこかにぶつけて何かを落っことしてすみませんと謝るくらいしか言葉がなくて生々しい)。事がすんでピロートークで「『施設は中学校を卒業した時に出ました。それから、ずっと一人で暮らしているんです。今はとっても幸せですよ。人生で一番幸せだと思います。』 微笑みながら口にした言葉には嘘がなさそうに思えた。本当に今が一番なのだろう。そして彼女の話は終わりだ。(中略)『僕たち、お似合いかもしれないな』そう呟くと、澄は言葉では返さず、僕の腕を抱きしめる手にぎゅっと力を込めた。それからほどなく、僕らはアパートを借りて一緒に暮らすようになった。」 ……ここでエンディングになりませんかねえ。
・それから金田が誘いに来て断る。それから3年が過ぎる。あとはもうまっしぐらだ。澄も新興宗教みたいなのを頼りだした。この3年がすっ飛ばされたということは、今の対馬にとっては特質すべきことは起こらなかったということなのだろうが、いろいろなことがあったのだということにしておきたい。レストラン→八木原の電話→子猫→変な評価のライブ→帰宅すると「にゃああん、クロちゃあん、澄ちゃんでしゅちょー」→作曲再開→「ここにはない何か。もっと恐ろしくて美しいもの。そんなものが音の世界の先にはあるような気がする。喜怒哀楽のような表面的な感情ではなく、もっと奥深く、清冽な滝のように心を打つ何か。」(風雅の父と話が合いそう) と上がったり下がったりがあって、まだ上向くのではという希望を持たせられた。この間、対馬の認識力にぶれはないように見える。でもそれからすぐのことなんだな。妊娠の話は。このあたりから明らかにおかしくなったようだ。僕はある時点でいい加減に怖くなって社会に出ることに決めたが、対馬は苦痛とか恐怖に鈍感で集中力がありすぎるので、続けてしまったわけだ。ここもBGMがなかった。「今日はずっと馨さんの曲聴いてますね。私、どんな時でも、馨さんの作った曲を聴くと元気になるんです。だから人生、悪いことばっかりじゃないんだなって思うんですよ。」 これが最後のセリフだったようだ。実際に元気が出たのだと思う。
・この後きた金田が優しい声ですごくいいことを言うのだが(「大丈夫だよ。対馬は深く考えすぎているだけなんだ。お前、澄ちゃんのこと大好きだよ。安心しろよ。子供のことはどっちにすればいいのかおれにはわかんねーけど、お前はいいやつだから大丈夫」)、対馬のせいなのか話の展開のせいなのか、これでもだめなんてのはどうかしているよなあ。
・「僕が澄を根本的に好きになれないのは、やっぱり、音楽が伝わってる気がしないからだ。僕はもう生活の大部分を音楽に込めている。なのに、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、セックスもして、愛してくれている澄に何も伝わらない。根本的に同じ世界の人間じゃないなんだなという気がする。だから本当は澄に曲を聴かせるのは嫌なんだ。それをどうしても認識してしまうから。」 まあ、八木原にも伝わらなかったわけだが。澄が理解してくれていたら、八木原にも伝わる曲を作り続けたのかもしれないが。それにしても、今更ここでこれを言っちゃうと八方ふさがりになる。自分が好きなものを共有できないという恐怖から遠ざけるために、その話はしないでと言って少し距離を置いてくれる人もいるが、澄は反対に対馬の曲が大好きだと言って距離を詰めてきてくれる。これに不満を持つのは贅沢な気がするけどなあ。
・この期に及んで対馬は、絶望した花井が自殺に至った「最後の1ピースが分からない。一度音楽を離れたってよかった」と言っている。僕もその最後の1ピースはよくわからないが、対馬の場合はこの後で明瞭に示された通りだった。その前には急に父親から優しい電話がかかってきて、追い詰められた気がして衝動的に死にたくなったそうだが、澄のことも考えて堕胎を見直すと決心するところまでになったのに。
・それにしても意地の悪いテクストだ。最初に読んだとき、病院に行くときに澄が以前に虫垂炎で入院した時の回想が始まって、僕はこれが途中から回想ではなくなったような気がしてちょっと安心したのだった。勝手に期待して誤読しまった。ここでペレーヴィンが出てきたのは嫌な感じがした。……。澄の死に顔の絵が必要だったかよくわからないが、むだにグロテスクな絵ではなかったのが多少の救いだった。
・澄の携帯電話で再生した時に流れたBGMが対馬が作った「no title」なのだとしたら、僕は素人なので良し悪しは判断できないが、これは改めて聴くと悪くない曲に思える。短いフレーズだけなのでどう展開していくのかわからなくはあるが、Musicusの中ではむしろけっこういい部類の曲のように思える(冷めた言い方をすれば、泣けるテクノみたいな感じのジャンルのやつ)。そして澄がこれを聴いてつらい気持ちを乗り越えようとしたのも想像できる(あと、エンディングムービーの曲も、濁ってはいるけれど、もとは結構きれいな曲だったのがうかがえる。どっちの曲だろう)。そして、これが澄を殺したゴミのような曲なのだと言われたら、それにも頷いてしまうのかもしれない。でもまあ、ここで音楽のストーリーと価値に関する花井理論の話はすまい。澄が最後に聴いていた音楽という情報だけで十分だろう。
対馬はこの後で澄を思って自分を責め、自分の中に残ったものをすべて音楽に変えて、何一つ残さず消えたいと願うわけだけど、このモノローグの流れがきれいだ。
・でも果たしてこのエンディングムービーは必要だったのかな。これは瀬戸口氏が考えた演出なのだろうか。「何一つ、残さない」という最後の言葉でそのまま終わりでもよかったような気がする。
・また澄の話になってしまった。この後三日月ルートを再読する気力はあるだろうか。こんなふうな何の編集も、それどころか読み返すことすらしていない感想というか、ストーリーの要約のようなものを書いて何の意味があるのかわからなくなってくるし、いい歳のおっさんが恥をさらしているような気もするが、とりあえず残しておこう。