アイドルの時間

 10月に始まったアニメ「ラブライブ」は絵の水準の高くてそれだけで素晴らしいのだが、いい加減にこれだけ女の子たちが歌を歌うアニメを次々と見ると、アイドル物は苦手といってもさすがに楽しみ方がわかってきてしまう。
 そこで何となく読み返してみた『メロリリ』に初読の時とは違ったよさを見つけたというか、初読の時にはぼんやりとしかわかっていなかったことが割とクリアに見えてきたように思える(文章のキレの良さは再読時にも十分に堪能できたが今回はわざわざ書かない)。ミュージシャンというのは生き方であって、歌っていないときもミュージシャンだという見方があるけど、やはりミュージシャンは歌っていないときはただの人であって、舞台の上で歌うことで変われるからその魅力に憑りつかれてしまう。そういうミュージシャンのなかでもとりわけ魔法のような存在がアイドルなのだというがこの小説だ。何しろアイドルは別に音楽の技術を極めたプロフェッショナルなのではなく、技術的には中途半端なミュージシャンであり、その持たざる者としての強さや美しさを愛でることになっている。その意味でアイドルはロックやパンクと相性が良くて、この物語でも例えば歌を歌わずにひたすら観客を殴っているアイドルがいるのもうなづける。
 魔法は舞台という装置がないと発動しない。だからどの魔法も一期一会のものだ。石川博品作品では、抒情的逸脱の箇所では「過ぎ去っていく何気ないこの一瞬」を静かに惜しむ描写がとても多い。大切なもの、美しいものはいつも僕たちの元から消えて行こうとしており、惜しむことはおしとどめるための呪術的な仕草でもあるが、本当はむしろそのような感傷が出てくる前の普通の描写こそが惜しまれないからこそ一番美しい時間であるという仕掛けになっている(その仕掛けはラブライブにもたくさんあるのだろう)。
 それはモラトリアムの時間であって、今の僕はモラトリアムなんていう言葉について何か言うのは犯罪とされるような年齢になってしまったと思っていたが、人生における転機なんていうのは若いときだけなのではない、惜しむことができるのは若さだけではないということに気づいて、おっさんになっても(主観的には)甘い時間をけっこう楽しめてしまえている。
 それは例えば、子供ができるかもしれないということだ。夫婦二人だけの静かで気ままな生活がもうすぐ終わるかもしれない。何十年後かにそんな時間がまた戻ってきたとしても、それは今のこの時間とはたぶん違うものだろう。家族が増えるかもしれないという未来を夢みる楽しさとは別に、この今の生活を惜しむ気持ちがあって、僕とはだいぶ違っているだろうけど妻も彼女なりに惜しんで泣いているのが嬉しい。彼女は精神的に弱い人間なので、これから負わなければならない責任を想像して早くも打ちのめされているということもあるが(最近さらに僕への依存が強まっている)、そのことを互いに知っているということも含めての甘い時間だ。そしてこういう感傷は授かるかもしれない子供には直接的には何の関係もないことであって、本人も僕たちの感傷を押しつけられても迷惑するだけだ。
 変わることができるというのは幸せなことなのだと思う。こじつけ気味だが、アイドルはその幸せのメタファーなのだ。